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意志という言葉と、人間についての質問です。
よくスポーツで『強い意志を持て!』なんて言葉があります。
たしかに意志を持てと言われることや試合の期日が近づいたり外的な要因で意志は変化するように思えます。
それに対して、純粋に自発的な意志というものの作り方が存在するのだろうか?という疑問が湧きます。
しかし少し考えてみたらわかるように、仮に意志を作ろうと思えば意志を作るために意志を必要としますし、さらにそのために意志が必要となり…
無限後退し意志はいつまでたっても得られません。
つまり私たちというのは自分を自発的に変えることはできずきっかけを待つしかないちっぽけな存在なのでしょうか?

A 回答 (8件)

こっちに甲斐てなかた。



プミュ (*´ω`)♪
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いつの間にか、結論に至られていたので、もう回答はしないつもりでしたが、どうしても腑に落ちないので、書き込みます。



〉サイコロを振ることを自由であると…

サイコロを振って出る目は偶然でも、サイコロを振ること自体は自発的な意志でできます。それが自由でない理由は?

〉私たちは自分たちの思考ですら…

自分が10秒後に何を思考するか予測できないとしても、だから「思考はコントロールできない」とはなりません。

〉自由は本来ない…

思考は自分のものではない、コントロールできない、と考えたことが私はありません。多くの人にとっても、その結論は理解できないでしょう。

何か影響を受けた著作などあるのですか?あれば教えて下さい。
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ちょっと「言葉遊び」と感じますね。


たとえば、仮に「自分を自発的に変えることはできずきっかけを待つしかない」としても、たちまちそれが「ちっぽけな存在」と言う定義にはならないでしょ?

そもそも、なぜ「よくスポーツで『強い意志を持て!』」などと言うか、考えてみれば?
確かに、最初は自発的ではなく、意図的なものでしょう。
だから「よく言う」であって、それが自発的となる様、教育や学習をするワケです。
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無意識、という領域があります。



この無意識は、産まれた時からの色々な
経験を蓄積されて醸成されたものです。

意思、というのは、何かのきっかけで、無意識が
意識化されることによって生じます。




純粋に自発的な意志というものの作り方が存在するのだろうか?
 ↑
存在しないと思います。
無意識に含まれている範囲から、という
限定があるからです。



仮に意志を作ろうと思えば意志を作るために意志を必要としますし、
さらにそのために意志が必要となり…
無限後退し意志はいつまでたっても得られません。
  ↑
無限にはなりません。
無意識と意識があるだけです。
もっとも、無意識と意識にも、段階がありますが。




つまり私たちというのは自分を自発的に変えることはできず
きっかけを待つしかないちっぽけな存在なのでしょうか?
  ↑
ワタシ達は、自発的に行動しているように
見えますが、実は、無意識領域に制約されている
わけです。
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こういうことは、ややこしい理屈で把握しようとしても解決できますかねえ。


経験とか実感をもとに考えたほうがいいような気がします。

人間の意思は自由であるはずだと思っていたけど、現実にはどうも全然自由じ
ゃないぞ、と。こういうことであるというのであれば、私の経験上次のことが
言えると思います。

・自分の本当にやりたいことをすでにあきらめてしまっていて、そもそもやり
たいことなどできるものではないと考えている。

・周りの評価あるいは空気を気にしすぎる

この二つが習慣化してしまうと、自分の意思ってあるのかないのか分からなく
なってしまう。
何かしらで成功している人って、大きな成功でなくても同じことを言いますよ。
「やりたいことをやっている」って。

やりたいことをやるには、色々困難があってそれを片付けながらやらないとい
けません。大変です。でもそれを避けて生きているうちに、意志というか意欲が
なくなってきて、何かとあきらめる癖がついてしまう。

それは、環境に支配されているということだし、ある意味洗脳されていることだ
と思います。「お前に何ができるんだ?」っていう。

私もあきらめていたけど、自分にできることはできるんだって思い、具体的に考
えていたらすごく強い意志が出てきました。
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>意志を持てと言われることや試合の期日が近づいたり外的な要因で意志は変化するように思えます。



ということは、例えば、自ら目標を立てて「この日までに宿題を終わらせる」というのは、「目標」という自分で作った外的な要因に、自らの「終わらせよう」という意志を従わせることになりますよね。そういう意味です。

>自分の思考を自発的なものととるか受動的なものととるか

誰かに強制されたり、洗脳されない限り、思考は自発的なものです。
外界からの光や音といった何らかの刺激が無くても、意識は存在しうるし、刺激を受けてしか発動できないものでは無いという意味で、思考は本来、受動的ではない(思考が言語、文化なしに成り立たないという意味においては受動的、かつ限界があるが、それは自発的であることを妨げないと思う)。
また思考する主体があって、人が存在するとすれば、思考の前に思考は来ません。「思考して思考を作る」というような、一人の人間の内面において、思考の階層関係はないと思います。
その意味で、他発的ではない、(純粋に?)自発的な意志はあり得ると思います。
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この回答へのお礼

サイコロを振ることを自由であると定義するならば自由であると思います。
しかし、それは偶然であって、自由であるかと問われれば私にとってはなかなか腑に落ちるものではありません。
私たちは自分たちの思考ですら予測できないです。
自分が10秒後になんて思うかわかるでしょうか?
思考はコントロールできるものではないのではないでしょうか?
そもそも思考は私のものなのでしょうか?
いろいろ疑問はありますが、こうして質問する中で私の定義する自由は本来ないのではないかという結論に至りました。
ありがとうございました。

お礼日時:2018/04/09 22:55

意志の源泉は生命。


生命は生きようという意志の塊り。
知識を持つことの出来る人間はその意志を意識する事もできます。
その働きによって、こうした疑問が生じます。

われわれ人間に限らず、生命は生きようという”意志を持った個体”なのです。
ただ人間だけが、その意志のあることを意識・認識できるのです。

その意志は士郎うさんが云うように、外的な要因の影響を受けますね。

意志は純粋な自発的な働きが元にあって、それは基礎的な意志とも云え、その意志の力には強弱があるのです。
それで、”頑張れ”なんてことになるのです。

無限後退?
そんなことはないと思います。
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この回答へのお礼

意志というものが『ある』ものでなく、つまり『作る』ものであるということは意志が『結果』であるということを意味します。
しかし、自発的であるということは『原因』であることを意味します。
私たちはものごとを因果関係でしか捉えられないのですから、もし意志と意志に因果関係があるとするならば、意志の無限後退は避けられない事実であることは明らかです。
そして自由意志は存在しないということになります。
そこで無限後退が起こらないというならば汽笛さんがおっしゃることは因果関係でないもの非因果的な法則(それは私たちには想像もできないものですが)が心に対して成り立っているということでしょうか?

お礼日時:2018/04/09 22:48

純粋に自発的な意志とは何ですか。


自分で外的な要因を作ることもできますが、それだと「自分を自発的に変える」ことにはならないということですか?
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この回答へのお礼

自分で外的な要因を作るというのは例えば自分で思考して自分を奮い立たせるといった状態でしょうか?
そこは定義の問題で自分の思考を自発的なものととるか受動的なものととるかひとそれぞれかもしれませんが、僕としては受動的なものとして捉えています。
なぜなら自分で思考して思考を作ることは先述の無限後退の例のように不可能だからです。
よって自分で外的な要因を作ることは無理なのではないのかなと思いました。
田舎はどこださんのおっしゃる自分で外的な要因をつくるが自分の考えるものと同じであるか不安ではあるのですが、その点についてはどう思われますか?

お礼日時:2018/04/09 20:42

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