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1. ひと――エワとアダム――が 採るのを禁じられていた善と悪を知る木から採って食べたことは 自由意志のもんだいである。

2. 自由意志の自由度のもんだいである。自由度には――《善と悪とを知る》と言うのだから―― プラスとマイナスとがある。

3. マイナスを指向すると 身にはヤマシサ反応が起こり心には後悔と恥ぢの意識が芽生える。

4. 禁じられていたことの意味である。おそらくヒラメキによく似た良心のハタラキであろうと思われる。(だから 神が持ち出された)。


5. ところで その木から採って食べることにヤマシサ反応が現われたのである。

6. マイナスの自由度を行使したのであるが それが ウソ・イツハリに他ならない。

7. そして ウソ一個につき 神経線維がひとユガミする。ヤマシサ反応がやましさを警告する意味である。

8. 自然本性にしたがう神経細胞のハタラキは すこやかであるが ユガミを生じると すこやかとしての自由が やむ(止む)。

9. この自由の止みが 病みである。病みの慢性化が ヤマヒであり ここには 精神身体的な不自由のすべてが入る。





10. ひとが《エデンの園》から《家出》をしたのは マイナスのウソによるにしろ そう自由意志が欲したからだ。この家出になるということは エワもアダムもほんとうには知っていた。分かっていたのではないか?

11. 自由意志の自由は――人間にとって―― 《正と負との自由度を許容する相対性の世界》として実現するしかない。自然本性は すこやかな良き正の自由度を基調とするが そのプラスの自由度のみを――負を排除するかたちで――所望するわけにはいかない。

12. 土(物質)から作られたのだから 土に帰ることは知っていた。のではないか? 《世界‐内‐存在》と呼ばれるようになった。

13. 山あり谷ありの浮き沈みあるいはつまり人生でもろもろのヤマヒをこうむることは すでにがってん承知の助だったのでは? リンゴを食べるときに。

14. われわれおのおのの内なるエワやアダムに聞いてみたら どうなるだろうか? そしてヤマヒの癒えるすべは 用意されているか? 

15. 質問者自身としては ウソ・イツハリを無くすことは考えていません。(みづからによるたましいの顧慮のみ)。承知の助でおこなった家出なんですから。しかも エデンの園を追い払ったナゾの何ものかは しかも寛くあたたかであるか? どうなのか?

16. 人間としては ウソの結果であるヤマヒを引き受ける。他人の所為にしない。

17. それでも では ウソ・イツハリを共同自治するには どうすればよいか?

18. おのれの・および相手の意志また心を踏みにじるウソ・イツハリから発して 神経線維のユガミを経て生じるすべての心身にわたるヤマヒ。
そして ヤマヒの悪循環。:

 ・不法行為は 自己欺瞞や詐欺による意志・心の蔑み
 ・イヂメ・あらゆるハラスメント(∽意志の踏みにじり)
 ・生殖と連れ合いとの信頼関係にかかわる性的指向の過剰としてのユガミ
 (∽裏切りや自己欺瞞としての意志の踏みにじり)
 ・戦争(∽意志の主体たる存在そのものの踏みにじり)
 

☆ お知恵拝借。

質問者からの補足コメント

  • №3

    自由意志 
    その自由度は 内容が正負ふたとおりの価値に分かれている

    正の価値のみの自由度だけをあたえてくれていればよかった・・・といった感想は ほとんど用を成さない。

    正負ないし善悪を合わせて捉える視点とその思想(≒生活態度)を持ち得るといった大きな自然本性が ひとには めぐまれている。


    なお:

    物語として表現された《神による言いつけ》といったことは 良心が自然本性にそなわりおのづからヤマシサ反応がはたらく精神身体的な生命体になっているということで 神は持ち出さなくてもよいようになっている。

    自然本性の――正の価値を基調とした――すこやかな自由が 理念としてでも 人間の《本心》である。

    この自由は 〔本心のイツハリないし一般に〕ウソによって 止む。神経線維がユガム。

    自由と不自由。スコヤカとヤマヒ。

    すべてのヤマヒは ウソからである。どう共同自治するか?

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2023/04/02 18:28
  • ▲ (アウグスティヌス:神の似像) ~~~~
    聖書は神の尊厳なる似像の損ないを憐れみつつ語る。

     人間は似像のうちに歩こうとも 虚しく不安にされる。
                      (詩編 38:6 )

    そのように 神の似像に虚しさを帰するのは似像が損傷を受けたことを聖書が認めることに他ならない。しかも 聖書は《人間は似像において歩いているが》と言うことで 似像であることを取り去るほどにあの損傷が大きくないことを十分に示しているのである。

    それゆえ この『詩編』の文章は意味を違えないで 置き換えて真実に表現され得る。つまり 《人間は似像において歩こうとも しかも虚しく不安にされる》と言う代わりに

     人間は虚しく不安にされるが しかも似像において歩く

    とも言い得る。
               (『三位一体論』 14:4 中沢信夫訳)
    ~~~~~~

      補足日時:2023/04/06 04:46

A 回答 (3件)

禁断の果実を食べる前のアダムとエワの心を《ふつう一般の人間の本心》だと、してしまうのでしょうか?


これではちょっと、設定が安易ではないですか?

聖書の記述を見る限りにおいてアダムとエワは、ためらうことなくその果実を食べていますね。
これはたぶん約束という事柄を、善悪と云う心では捉えてはおらず、だからその効力がどんなものかも知る由が無かったと受け止められます。

もし、ウソと云う心が潜在していたならば多少とも、ためらいの心・ヤマシサ反応が現れていた事でしょう。
そのヤマシサ反応は、食べた後にあらわれていますね。

※神はアダムとエワが約束を守れないと云う事を先刻承知、だったのです。
※意地が悪いね、神って。蛇を使って知らんぷり、なんだから。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

★ 禁断の果実を食べる前のアダムとエワの心を《ふつう一般の人間の本心》だと、してしまうのでしょうか?
これではちょっと、設定が安易ではないですか?
☆ ちょっと誤解があると思います。

つまり エデンの園を追い出される謂われのなかったときには まだふつう一般の無常の世の中としての経験世界には二人はいなかった。言わばけがれを知らない心身の状態であった。(裸が恥づかしくなかった)。

だから 最初に木の実を食べたときには――善悪を知らなかった状態ゆえ―― ヤマシサ反応が起きなかったかも知れない。

けれども 二度目に同じように食べようとしたときには――善と悪とを知ったことになったので――ふつう一般の物心の着いた人間の状態が現われ出たのではないか?

つまり 善悪の観念を知っている状態になったし――良心がはたらくようになって―― ヤマシサ反応が起きた。つまり:
☆☆ 約束を破らないで守ることが ふつう一般に人間の《本心》だと思われます。
☆ と。



★ 聖書の記述を見る限りにおいてアダムとエワは、ためらうことなくその果実を食べていますね。
これはたぶん約束という事柄を、善悪と云う心では捉えてはおらず、だからその効力がどんなものかも知る由が無かったと受け止められます。
☆ そういったふうに捉えることも出来るかと思います。

問題は 《その木から採って食べてはならない》と言いつけられたことを どう受け取ったかだと思います。

ですから――たとえ何ら決まった内容のこととして受け取るものがなかったにせよ―― 二度目に食べようとしたときには むむ このことは 神の言いつけに逆らうことになるし どうやら身にも心にもヤマシサが感じられて来ているようだと知ることになったでしょう。



★ もし、ウソと云う心が潜在していたならば多少とも、ためらいの心・ヤマシサ反応が現れていた事でしょう。
そのヤマシサ反応は、食べた後にあらわれていますね。
☆ 最初と二度目との違いが 鍵になるのでは?


★ ※神はアダムとエワが約束を守れないと云う事を先刻承知、だったのです。
☆ つまり 自由意志の包含する自由度には 《約束を破る》といった〔・のちになって分かる〕マイナスの価値があるということを へんな仕掛けで知らせた。

★☆ ※意地が悪いね、神って。蛇を使って知らんぷり、なんだから。

お礼日時:2023/04/02 18:12

質問に在る、前提が疑問です。


なぜ、禁断の実を食べた事が“ウソ”になるのか?です。

食べる前は善悪観は無かったのだから、その行為は自由意志に拠るでしょう。なにものにも束縛されない、自由な心理で食べたのです。

罪悪感など微塵もない状態で食べた、その結果として善悪を知ったのです。

神は、エワとアダムに善悪を知る木の実を食べる事を禁じたつもりなのでしょうが、自由意志なる心には効果が無い、と云う事に迂闊にも思いが至らなかったのです。
或いは、分かっていて禁じたのかも知れませんが、そうだとすれば悪いのは“神”ですね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 質問に在る、前提が疑問です。
なぜ、禁断の実を食べた事が“ウソ”になるのか?です。
☆ 舌足らずですが そこは 話が通じると想定していました。

ほかの項目にあるように 《ウソ・イツハリ》が精確な表現です。

約束をやぶるのは――破らないで守ることが ふつう一般に人間の《本心》だと思われますから―― 本心をいつはることです。

つまりは そのイツハリについて なぜそのような行動を採ったのか? と訊かれたとき 蛇が誘ったからですと言って他人の所為にする発言をなすなら ウソをついたことになる・・・からです。



★ 食べる前は善悪観は無かったのだから、その行為は自由意志に拠るでしょう。なにものにも束縛されない、自由な心理で食べたのです。
☆ ですから――推論でしかないと言われればそうかも知れませんが―― 前もって未来の振る舞いやその内容について いったいどういうことになるのか 憶測によってでも考えたはずなんです。

くどくなりますが 次のように考えてください。

すなわち 最初に食べるときには 例のヤマシサ反応はまったく起きなかった。ところが 二度目に同じように食べようと思ったときすでに ヤマシサ反応は起きた。

そこで いま行使しようとしている自由の自由度は どうも 胡散臭いようだ。マイナスにつながるヨコミチに入るようだと知るようになる。

これは ウソ・イツハリの問題であるようだ。・・・と知るようになった。

以上のような事情を 次の観察は物語っているはずなんです。
★ 罪悪感など微塵もない状態で食べた、その結果として善悪を知ったのです。


★ 神は、エワとアダムに善悪を知る木の実を食べる事を禁じたつもりなのでしょうが、自由意志なる心には効果が無い、と云う事に迂闊にも思いが至らなかったのです。
☆ いや 神を持ち出すなら むろん神は もともとそのようになる(約束を破る=つまりやましさを伴なう自由度のほうへ片向いてゆく)と知っていた。

エデンの園を出ることが ふつうの人間の生きる世界だよと。

禁断というような上からの命令というのは 良心という問題として人にそなわっているのですから ただの話の端(つま)みたいなものです。

★☆ 或いは、分かっていて禁じたのかも知れませんが、そうだとすれば悪いのは“神”ですね。

お礼日時:2023/04/01 13:59

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12915300.html

の続編ですか。

エワはエバ(イブ)

エデンの園に生えた知恵を付ける禁断の木の実とは何だろう。
実際のある植物か、それとも精神上の何かか。
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この回答へのお礼

ええ。続編です。ご回答をありがとうございます。


★ エデンの園に生えた知恵を付ける禁断の木の実とは何だろう。
☆ これは 或る意味で意外ですが 《善と悪とを知る木》という文字通りの表記です。

ついでに言えば 《・・・木から採って食べた》とあるだけで 《木の実》とは書いてなく 周知のように《何の木》かも記されていません。勝手に《リンゴ》と書いてしまっていますが。



さて 《この木から採って食べる》についてですが わたしは ですから 《自由意志を見出しこれを確かに用いて行動した》と捉えました。

その自由度には プラスとマイナスとを志向するふたつの内容があるということです。

それが 《善と悪とを知る》という意味であるというかたちです。



いろいろな解釈がなお現われるかとも思います。

・・・


☆ エワは 原文でハワーだと思います。《有る・生きる つまり 存在や生命》のことにかかわった言葉です。女性なので 生命は ふさわしいかも。

お礼日時:2023/03/31 20:00

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