
No.3ベストアンサー
- 回答日時:
自分が間違いなく歩いているということを確信することは意外に難しい。
そもそも、人間のどういう状態を「歩く」と定義するのかも、厳密に考えると難しい問題である。右足と左足を交互に前へ出すだけでは歩けない。出した方の足の上に体の重心がかかっていなければ前に進まない。では重心とは?重心とは、結局地球に重力が有ることで派生する概念であるが、では、その重力の原因は?と考えていくと、果てしなく思考の連鎖に陥ってしまい、その連鎖の究極の行き着く先が、「自分は、今、考えている」ということになるのではないか。
なるほど我歩くと言う表象自体いかにも頼りない、とても存在の根拠にはならん、ということですね。
たいへん示唆に富んだご回答ありがとうございました。
No.14
- 回答日時:
理性的であることと、感情的であること、この認識の差異があると思います。
私が言いたいことは「感情レヴェルを人間は超えられない」という自明性です。後は自分でノエーシスして下さい、私も毎日疲れておりますので・・・No.12
- 回答日時:
こんにちは
人それぞれコギトに対する捉え方は
異なると思いますので小生も~
selbustさんのおっしゃるとおり、例の言葉は、
全てのものに疑いをもつという行為から
正しいこととは何なのかを求めた結果のお話ですね。
この世の中がもしかしたら全て誰かが操っていて
隣人たちは本当は生きていないのかもしれない。
もしかしたら、この世界はベッドの中で寝ている
私の夢なのかもしれない。
今歩いているけど、これは実は夢かも・・・等々
そこでデカルトは、気づきます。
全ての事は疑えるじゃないか!!ほんとかどうかも
わからないぞ。でも、
たくさんの「本当は○○かもしれない」と
疑い続けてきたがその疑っている自分の
こころを疑うことができないぞ!
今歩いていないかもしれないと
疑っている、その疑うって思う気持ちは
実は疑っていなかったとはならない!
なぜなら疑っていたから。
「思うという気持ちは疑えず存在する。」
となるわけです。日本においては「我」という
言葉が強調されるので、意味を解釈違える
ことが多いように思います。
となるとデカルトさん的には「思う」しか認めず
我歩くでは駄目じゃ~と言いそうです。
これ実はデカルトの論的であるガッサンディが批判して言った言葉なんですよ。
「省察」や「哲学原理」をお読みになったかたであればデカルトの反駁はご存知であろうと思います。
ガッサンディは実在論者ですが、デカルトにとって客観は表象として意識せられるものなのでこうした論争が起きるわけです。
ご存知のようにデカルトは「人間の精神は実体である」言い切っていてこれが心身問題、ゲーリンクスの機会原因論などに繋がるのですが、それからカントの先験的統覚まで140年も掛かるわけですね。
その先験的統覚からフィヒテの絶対的自我「自我は自我のうちで可分的な自我に可分的な非我を反定立する」に繋がるわけですが。
どうも貴重なご意見ありがとうございました。
No.11
- 回答日時:
私個人の考えでまことに恐縮です。
勝手な解釈なので参考にもならないかと思いますが、ご容赦くださ。存在とは本当に曖昧なものだと思います。量子論などによると、現在物質の最小単位となっている原子も宇宙の始まったころは(以前だったかもしれませんが)違うものだったようです。「無」という状態ですら不確かなもので、「無のゆがみ」というものを起こすそうです。「無」は常に「有」と陰陽相対論の裏と表です。存在とは全く不確かなのです。
そして、モノとモノを区別するのもとても大変なことです。ヒトも鳥も海も地球も同じ原子というもので成り立っています。同じ人同士、鳥同士でも体の特徴や習性などに違いはほとんどありません。私とあなた、私と彼はどこが違うのか。それをカントは考えたのだと思います。
ヒト(他人)との違い、つまり自分にしかないこと「自分を特定しうるもの」は、それが生きる意義にもなりうると人は考えました。生き物が存在するのは、ただその種を残すためだけで、もしかしたら生きる意味などないのかもしれません。
人が他のものや生き物と違うのは考えるところにあるとカントは考えたのでしょう。考えることは同じ人間同士でも異なります。さらに、その思考は、本能的なものではなく、人生の経験その他によって異なります。同じことを考えるにも、経験によって考えることが全く違うのです。そのため、自分の存在や定義付けをすることができる唯一のものなのでしょう。そのため、「われあるく、故にわれあり」ではないと思うのです。「歩く」ことは犬でもできるしのです。また、「われ在り、故にわれ思う」でもないと思います。「われ」があるのは確実ではないのです。思うことによって確実になるのです。
どうもご回答ありがとうございます。
まともなお礼文を書く時間もなくて申し訳ありません。
たいへん参考になりました。
またどうぞ宜しくお願いいたします。
No.10
- 回答日時:
#7です。
つまらぬ回答にご返事いただき恐縮です。デカルトさんでしたっけ、
我思う、といっても「思う」だけであれば「我有り」という結論を彼は導かなかったように思う、ということです。
思えるのであれば、『何かを思っている自分を「思う」』ということも可能になる必要があるわけで、結論は出ないにしろそのように自分を客体視できて初めて「我(自我)有り」と言える、といったような意味かな、と考えたということです。
それが、「我歩く」では代替できないのではないか、と考えた理由です。
多少穿ちすぎかもしれない単なる「思いつき」ですから、その程度のことと受け止めてください。
「自我」とは自分という存在を意識するだけではなく、それを自分以外の世界に向けて主張しようとするベクトル、といったような認識です。
「認識する」については辞書以上の意味は特に意識していません。
ヒマな質問にお応えいただき恐縮です。
方法的懐疑の末に行き着いた直観的事実が「我思う故に我あり」なので実際には「我思いつつ(疑いつつ)我あり」と言うことだと思います。
とにかく自我とか認識とか人によって見解がバラバラなので、せっかくいただいたご回答を理解する為にお伺いした次第です。
どうも貴重なご意見ありがとうございました。
No.9
- 回答日時:
(PCからは撤退しましたが、依然としてコンピューター業界の有力企業の)"IBM"の企業哲学は言わば「我"測る"故に我有り」であると表した記者がいました。
その知的揶揄を転用するなら?"我##する故に我有り"もバリエーションとして認められるべきだと思うのです。
それに"##する、との動詞"は多々ある訳ですけど、気絶する時は別でしょうが、歩いたり、入浴したりetcしているなら、(ながら族的に考えを巡らしたり、感じたりするのは当然?有でしょう。
例えば「ベートーベンは"ハイリゲンシュタットの森を歩いて、曲の構想を練った」と、「アルキメデスは王冠が純金なのか?の立証手法を自らが入浴中にあふれた湯量を手掛りに、確立した」とされていますから、構わないと、私は解します。
字義的に"我思う故に我有り"が当て嵌まるのは競歩の選手なのでしょうが、残念ながら、私は(スキーの場合の三浦雄一郎氏の様な)競歩選手名を知りません。
カントもよく散歩したそうですが、創造力を高めるには歩くのはいいみたいですね。ハイリゲンシュタットの森のような場所近くにあれば私も毎日散歩しようと思いますが。
どうも貴重なご意見ありがとうございました。
No.8
- 回答日時:
>無自覚の意識ということは無人称の意識と言うことですか。
禅の坊主に聞いてみたいですね。「無我の境地に入ったときの心は、一体、誰の心か」と。多分の天地の心では。
>人間にはイヌのような嗅覚はないと思うので身体的記憶によって帰宅するのでしょうか。
人間は、外部情報の80%を視覚から入手すると言われています。従って、帰宅するのは、視覚情報の記憶が大半を占めるのでしょう。
釈尊が瞑想していとき傍に雷が落ちても気がつかなかったそうですが、現代の禅の坊主では限界があるかもしれませんね。
夢遊病者が無事に帰って来れるか疑問がありますが、いずれにしろ思考なくして行動すると言うのは無理があるので、純粋にただオートマティクに歩行すると言うのは不可能のように思います。
どうもわざわざありがとうございました。
No.7
- 回答日時:
#2です。
暇なのでまた参加します。
たとえば、「われ歌う、故にわれあり」とかどこかの歌手が言いそうなセリフですが、これと同じような意味でのご質問でしょうか。
それとも「歩く」ということに特別な意味を込めていらっしゃる?
前者の意味として考えた場合について少し述べてみると、
人は無意識に支配されている領域が実際には多いと考えていますが、
自己(自我)を意識する、つまり自身を客体視することができて初めて「(言葉だけの)我」は「(実質的な)我」として意味を持ち得る、ということのように思います。
「我思う」といっても、思うものの対象は千差万別ですから鳥だって「あれ?」ぐらいは思うことはあるでしょう。
ただ、鳥の場合は「我」という概念を持ち得ないだけです。
つまり、「我思う~」を省略せずに言うとすれば「我、世界を認識する我を思う。ゆえに我あり」ということになるのではないかと思います。
暇つぶしにでもご回答いただければ幸いです。
タイトルから想像がつくと思いますが、今回はデカルトの自我をを元に質問をさせていただいたのですが、hakobulu様の自我とはどういうものでしょう?
またhakobulu様の考える「認識する」とはどういうことでしょう?
No.6
- 回答日時:
#4です。
>改めて「我歩くと思う、故に我あり」なんて表現する必要はないわけです。
そうですね。でも、本当いうと、「我.....」で、「我」と言った段階で既に「我」が存在していることが無条件の前提になっているような気もするんですが。
>例えば夢遊病者のような場合はどうなんでしょう。よく無事で帰って来れるものだなあと思いますが、意識はどこにあるのでしょう?
夢遊病者は、意識がないのではなく、意識があることを自覚していないだけだと思います。丁度、犬と同じです。犬は、「オレは、主人の家までの道順を知っているぞ」と自覚しているわけではないと思いますが、ちゃんと主人の家に帰れるのと同じではないでしょうか。デカルトは、自覚していない「我」は存在していないに等しいと思っていたのではないでしょうか?
>話は変わりますが人間が論理的に思考し続ける事ができる時間はどれ位でしょう?
人によって千差万別ではないでしょうか? ちなみに、私の場合は、ほとんどゼロです。一見、論理的に考えているように思える場合も、よく観察すると、そのときそのとき、ふいと心に浮かんだことを選別しているだけのような気がします。
ご回答ありがとうございます。
>そうですね。でも、本当いうと、「我.....」で、「我」と言った段階で既に「我」が存在していることが無条件の前提になっているような気もするんですが。
我歩くを知った時点で我ありと言うことだと思います。
>遊病者は、意識がないのではなく、意識があることを自覚していないだけだと思います。
無自覚の意識ということは無人称の意識と言うことですか。
人間にはイヌのような嗅覚はないと思うので身体的記憶によって帰宅するのでしょうか。
私の補足やお礼文もほとんどイメージだけで書いてます。
どうもわざわざ貴重なご意見ありがとうございました。
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