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ではダメですか?

A 回答 (14件中11~14件)

ラテン語作文の添削を求めていらっしゃるなら、ambuulo ではダメです。



Ambulo, ergo sum. でないと。[ u ]は短母音、アクセントは[ A ]ですよ。
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この回答へのお礼

ボタンを押した後すぐに気付きましたが24時間は取り消せないのでそのままにしておきました。

お礼日時:2006/07/23 06:00

「われ歩く、故にわれあり」だと、歩かないときは「我」がないことになってしまうし、また、人間でなくても、「犬も歩けば、我がある」ことになってしまうので、デカルトとしては、おもしろくなかったのではないかと思います。



私のような凡人は、人生のほとんどの時間をぼーっとしていて、ものを考えないので、「我考えず、故に我なし」、すなわち、無我の境地(?)ですが、デカルトは、四六時中、ものを考えていたので、「我」がなくなることはなかったのではないかと思われます。なにしろ、一瞬でも考えることをやめると、デカルトは存在できないわけですから、命がけで考え続けたのだと思います。

もう少し本質的なことは、デカルトの「我」とは、一体に何かということです。それは、考えないと消滅してしまうような「我」ですから、基本的には、言語活動の主体ではないかと思います。そもそも「我思う、故に我あり」という命題そのものが言語による文ですから、その文章を生産できる主体がデカルトの「我」のように思います。そう考えると、「我思う、故に我あり」は、「我」の定義に過ぎないような気がしないでもありません。東洋人の無我の境地とは、相当に異なった世界のように思います。

この回答への補足

実際には、我歩くと言った時点で「我思う」(悟性)が織り込まれてしまっていますので、改めて「我歩くと思う、故に我あり」なんて表現する必要はないわけです。デカルトは批判していますが。
表題の我歩くはデカルトの言う精神の属性としての「思う」を取り除いた我歩くであると考えていただければありがたいです。
ご存知のようにデカルトは精神と物体をそれぞれ実体としていますので当然物体である身体には「思う」は属さないということになりますが、例えば夢遊病者のような場合はどうなんでしょう。よく無事で帰って来れるものだなあと思いますが、意識はどこにあるのでしょう?
もしご存知だったら教えてください。

補足日時:2006/07/23 05:52
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この回答へのお礼

どうもご回答ありがとうございます。
話は変わりますが人間が論理的に思考し続ける事ができる時間はどれ位でしょう?

お礼日時:2006/07/23 07:27

本当に歩いて(前進して)いるのか、などと【思う】こともあるでしょうから、思考範囲が限定されてしまう憾みは残るのではないでしょうか。

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この回答へのお礼

歩いている自分を意識せずに歩きつづけるというのも困難なようですね。
どうも貴重なご見解ありがとうございました。

お礼日時:2006/07/22 22:01

結局「歩く」と「思っている」のでは?

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この回答へのお礼

我歩くと思うという場面もあるということですか。
純粋にただ歩くのは難しい。
たいへん貴重なご意見ありがとうございました。

お礼日時:2006/07/22 21:55

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