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こんにちは。昔から疑問に思っていたことを質問させていただきます。


人の命と蚊の命、差はありますか?
蚊は殺してもよくて人は殺してはいけないという理由を教えてください。

また、釈尊の弟子(舎利佛だったかな、、、)が釈尊に
「殺生はいけないというけれど、生命は他の生命を犠牲にせずに生きてはいけない。
人間も魚や牛、豚などを食べていきているが、どう説明するのか」
という趣旨の質問をした時、釈尊が
「それは殺す心を殺せばいいのだ」
と言ったとききましたが、この意味を教えてください。

A 回答 (8件)

>人の命と蚊の命、差はありますか?


全く差はないと思います(感覚的にですが)

>蚊は殺してもよくて人は殺してはいけないという理由
害をもたらすものは取り除くのが自然という事でしょう
害がなければ取り除く必要もなく、また無益な殺生はすべきでは無いというのも自然と思います。
人を殺すというのは、よほどの事が無い限り許されるものではないというのが一般的な良識と思います。

しかし、人を殺してはいけない、という良心もいざ戦争になれば、いとも簡単に踏みにじられてしまいます。
平然と殺し合いをしてしまうのも、相手が害をもたらす悪いものだという見方や感情からでしょう。
身を守るとか正義という大義名分の前にかなわぬものとなってしまうのでしょう。
正義という人間が決めた倫理に絶対はないような気がします。


私は正直な話しですが、仕事柄今までに何万本というほどの樹木を伐採してきました。
また同時に、数知れぬほどの小さな動物や昆虫の命を奪ってきました。
自然の生き物たちから見れば私はまさに鬼でしょう。
しかし依頼された仕事とは言え、気が咎める事も沢山ありました。
仕事としてまた生業として行ってきたいつわざる感想ですが
良い事をしてきたというのでもなく、また悪い事をしてきたというのでもありません。
生活のためにお金を得るために自分なりにやってきたまでの事と思っています。
(生き物を相手にした他の職業の人たちに聞いてみたいような気もしますが)


この頃は、小さな生き物が自分とまったく同じような感覚になってきました。
昨日は仕事中の休憩の時に、指先に茶色の蝶がしばらくの間止まっていました。
さかんに指を舐めていたので、塩っぽいのかな?などと思いました。
かわいいのでそのまま好きにさせていたのですが、心の中では、おいおい、この野郎~とか言っていました。
敵対心が無ければこんな事も自然とおこったりする時もあります。

他の生き物が自分とまったく同じと感じるのは、心があると感じるからです。
小さな生き物も確かに意識を持っていて感じ取っていると感じるからです。
この意識がある事が、質問者様のおっしゃる生命の尊厳の源のようにも思えるのですが・・・さてどうでしょう?

まともな哲学の知識の無い私ですがご参考にしていただければ幸いです。
失礼いたしました。
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引用です。



 ┃ ある人が、
 ┃ 「生命は尊厳だというけれども、人間だれしも他の生き物を犠牲にして食べなければ生きていけない。
 ┃ いかなる生き物は殺してよく、いかなる生き物は殺してはならないのだろうか」
 ┃ と質問した。
 ┃ これに対し、釈尊は、「それは殺す心を殺せばよいのだ」と答えた、と。
 ┃ これは、議論のはぐらかしでもなければ、すり替えでもない。
 ┃ まともに応じようとすると、
 ┃ 容易に答えのでないスコラ的煩瑣哲学の迷路に入り込んでしまうであろう問いかけに対する、
 ┃ これ以上ない、正しい、オーソドックスな答えであります。
 ┃
 ┃ 暴力や殺生などの錯綜した事象は、おびただしい位相を持ち、
 ┃ どの殺が良く、どの殺が悪いなどという一律な線引きなど不可能である。
 ┃ ゆえに「殺す心を殺す」こと、外面的な理非曲直よりも、まず内面の制覇こそが、
 ┃ 第一義的な重要事なのだ。
 ┃ その「自己規律」の心が確立されていれば、いかなる迷いや逡巡も乗り越えて、
 ┃ 最善の選択、決断を過たぬはずである
 ┃ ―― 釈尊の真意は、ここにあるはずです。

弱肉強食の畜生界は紛れもなく悪道に分類されているわけですが、
これを固定的に考えるのではなく、本然的に具わった生命の一側面と捉え、
いかに昇華していくかの知恵が大切なのです。

しかし、内面が・畜生界や地獄界(・殺す心)に支配されれば、それは悪です。
これは人間が勝手に決めた定義でもなければ、
立場の違いで変わってしまうような相対的なものでもありません。
諸法実相といって、さまざまな現象(諸法)の内面に実在する真実(実相)なのです。
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>人の命と蚊の命、差はありますか?


>蚊は殺してもよくて人は殺してはいけないという理由を教えてください。

答えは簡単、人間が作った価値観だからですよ。
軸足をどこに置くかで全く異なりますが仮に蚊に思考能力と生存本能があれば“人間を無差別に殺すのは良いのに蚊を一匹でも殺してはいけない理由を教えてください”との疑問が出るかも知れませんね。

価値観など相対的な物であると言う見本です。

>「それは殺す心を殺せばいいのだ」
と言ったとききましたが、この意味を教えてください。

殺すと言うより相手の命を感謝を込めて戴くと考えなさいと言う意味ではありませんか、よくわからないのですが。
でも詭弁ですね、命が大切なのだから他の命を戴いて自分たちの命をつなぐ、これを全ての種に対して否定するなら地球上の殆どの生命が死に絶える事は間違いありません。
大切な命を絶滅させないように他の命の戴きなさい、と言う考えが正しいと思いますが。

ここで言う命とは個々の事を言っているのではなくて地球の生態系を現してるのだと思います。たとえば無数にいる魚の一部を食べて人間が命をつなぐ、結果魚も絶滅はしないし人間も繁栄する、両方メデタシという事になりますよね。
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現在の人類(ホモ・サピエンス)は進化の過程で集団と集団で殺し合いをしてきて、生き残ったグループの子孫です。

集団同士で殺し合いをするときに「同じ集団の仲間同士で殺し合いをしない」というルール(道徳観)は集団同士団結を強くし、戦いに生き残るという観点で有利に働きます。そのため仲間の人間を殺してはいけないというルールを持ったグループは子孫を残すことができ、そういうルールを持たなかったグループは生き残って子孫を残すことができなかったと考えられます。

なお、「人を殺してはいけない」というよりは「同じ集団の仲間の人を殺してはいけない」です。戦争で敵を殺せば英雄になります。

われわれはそうして生き残ったグループの子孫ですから同じ集団の人を殺してはいけないというルールを持っています。

一方虫を殺してはいけないというルールがあっても、そのルールが集団の力を強くするとは思えません。したがって、そのようなルールが広く採用されることもありません。
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長年にわたり、ハンター、フィッシャーマンとして手ずから鳥獣、魚類の殺生を繰り返してきた罪悪の塊のような中年男です。



>人の命と蚊の命、差はありますか?

「ある」か「ない」かの理由なり、根拠なりを、他ならぬ《人間》に問うたところで、いつまで経っても不毛な水掛け論を繰り返すだけのような気がします。

>蚊は殺してもよくて人は殺してはいけないという理由を教えてください。

他人に訊くまでもなく、質問者さんご自身がこれまでにどう対応してきたかを省みるだけで、少なくても質問者さんご自身の「理由」だけは簡単に見出せるはずです。
私もそうですが、おそらく「蚊は殺してもよ」いか悪いかと考える前に、ほとんど反射的に「クソッ、このヤロー! パチン!」と《殺人》ならぬ、《殺虫》をしてきたのではないでしょうか。
が、だからと言って、こういうことが直接的に上のような問い掛けの動機になったわけではないと思います。

思うに、人間は、まず「蚊」をはじめとする人間以外の生き物の生命の価値や人間の生命と比較しての優劣に関して、決して自然発生的に問題意識を抱くようになったわけではないでしょうね。
人間以外の生き物の生命の尊さにせよ、その生命を奪って自己の生命を保持していることの是非、善悪にせよ、こういう疑問、問題意識というのは、実は人を殺すことの是非、人の命とは? に関する、大昔から繰り返してきた問い掛けにこそ、その原点を持っているのではないかと考えられます。

さらに、今日では自明視されている、《殺人》を罪悪視する価値規範の成立事情についても、どう考えたところで、「他人を殺すこととは自分が他人から殺されることでもある」という共通了解が共同体(社会)全体に普及したからだとしか説明しようがないような気がします。
言い換えますと、「自分は他人に殺されたくない」という思いが生まれて、はじめて人々の間に「人を殺すこと」をお互いに避け合おうとする共通了解が生まれ、こうして「人を殺すことは罪悪である」という価値規範や戒律が生まれ、さらには、人以外の動物・植物を殺すことの是非という問題意識も派生的に生まれいったのではないでしょうか。

>「それは殺す心を殺せばいいのだ」

釈尊は、単純に「それは生き物を殺生しているという自覚もなく、殺生に罪悪感も覚えないということだ」と説かれたのではないでしょうか。
すなわち、「殺生は、人間が生きている限り、逃れ得ぬ罪業である」と説こうとなさったのではないかということです。
そう、「殺すことを正当化できるとは思うな! 人にできるのは、その罪を背負って生きることだけだ」と。
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人間は自分の生命を護り、快適で健康的な生活をする権利があります。

蚊が自分の体を刺して自分の血を貪るのを座視して我慢することはない、蚊は自分の快適な生活を侵犯しているのですから、叩いて殺してもいいと思います。牛や鶏を殺して食べるのも、野の花を折って家に飾るのも快適で健康な生活には適当だと思います。
人間の生命と人間以外の生命にはやはり差があると思います。弱肉強食という言葉はそういう意味で生きていると思います。
人間はお互いの権利行使として殺しあうのは禁じられています(国家間としてもそうなりつつあります)が、それを一方的に破って殺そうとした時は、自己防衛のために最悪殺しても良いと思います(正当防衛)。法律で死刑があるのも、社会としての連帯自己防衛として矛盾はないと思います。
生命の尊厳とは美しい言葉ですが、厳密に守ることには限界があると思います。ひとつの理想主義として考えたいと思います。
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この質問を倫理的に答えることは、不可能に近いかもしれません。


なぜなら、法律で人の殺害を認めているからです。

死刑囚を、死刑執行時に殺す行為。
自衛隊が個別的自衛権を行使し、外敵を殺傷する行為。

他にも沢山あるでしょうが、人を殺してよい理由の一例です。

「人を殺してはいけない」とは、モラルの問題であって、この世の中はそのようなモラルは守られてはいません。きわめて限定的ではありますが、「人を殺してよい理由」が存在しています。



蚊と人の違いは、「限定する殺してよい範囲が広いか狭いか」の違いかと思います。

蚊は、無差別に殺しても罪には問われませんが、人はそういうわけには行きません。

しかし、人を殺しては「絶対」にいけない。蚊を殺しては「絶対」にいけない。とは限りません。

人も、場合によっては合法的に殺されるケースがあり、これは「人(蚊も含めて生物)を殺してはいけない」という事を、倫理的に証明することは不可能。といえる根拠のひとつです。
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宗教にも、哲学にも疎い、32歳(男)の普通の一般人としての意見ですが、



>人の命と蚊の命、差はありますか?

哲学的には、命に差はないと思います。

>蚊は殺してもよくて人は殺してはいけないという
>理由を教えてください。

人を殺すことは法律で禁じられていますが、
蚊を殺すことは禁じられていません。

それだけの違い(差ではない)で、
殺していいから命が軽いとか、
殺してはいけないから命が重いわけではないでしょう。

法律は、人間が秩序を保って暮らしていくために作られるものであり、
命の重さの論理は関係ありません。

>「それは殺す心を殺せばいいのだ」
>と言ったとききましたが、この意味を教えてください。

こっちのほうは分かりません。

ただ、私なら
「殺生がいけないのではなく、無益な殺生がいけない」
と回答します。
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