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他人の命を奪ったら 自分の命で償うのは 当然と考えるのは 私だけでなく、日本人の多くがそうだと思います。
しかし、死刑反対の人は 命を命で償うこという 私たちが至極当然だと見做していることを どのように解釈しているでしょうか? どのような不条理があるとお考えでしょうか?
私と同レベルの愚かな同調意見は不要です。聡明な反論をお待ちしております。

A 回答 (16件中1~10件)

死刑には反対しております。

どんなに裁判をしても冤罪はなくなりません。それが第一の理由ですが、死ねば楽になると考えている人も少なくありません、死刑になりたかったから人を殺したなんてバカもいます。
 私は懲役100年ぐらいの刑を執行するべきだと思います。生きていることが辛くなるような刑を執行するべき他と思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

日本では殺人件数が年間 約1000件に対し、自殺者数は 3万人近くに上ります。そして、日本では自殺で最も多く用いられる方法は 死刑の執行方法にも似ています。
これは単純に考えれば、この世には 塀の外で暮らしていても この世には 死刑よりも辛いことが沢山あると言うことだと思います。

お礼日時:2014/07/04 21:08

死刑(命で償う)という事が、何に対してどう償った事になるのか?がテーマになると思うのです。


死刑という極刑は刑法上の約束でしかなく、法律上の罪には償われるのでしょうが、遺族や被害者がそれで償われるかというと必ずしもそうではないと思います。
命を奪われた側の遺族としては、殺さずに一生奴隷になって働いてくれと思う遺族もいるかもしれません。

例えば、物心もついていない幼い子供の親を殺した犯人は、その子供の本来あるべき人生が失われます。
それを少しでも弁償する為に、生活費などのお金を奴隷の様に働いて支払い続けていった方がいいと思いませんか?

私は、死刑反対という感じではありませんが、
死刑が必ずしも罪を償った事になるか?と考えると、
そうではないと感じてしまいます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>死刑という極刑は刑法上の約束でしかなく、法律上の罪には償われるのでしょうが、遺族や被害者がそれで償われるかというと必ずしもそうではないと思います。
池田小事件みたいな事例だと、宅間1人が死刑になって償いになるとしたら、犠牲になった児童たちを貶めるような気もします。

お礼日時:2014/07/04 21:30

日本の刑罰は「償う」=報復のためのものではなく、更正の


ためのものと位置づけられています。
(この時点で、おっしゃられている内容は的外れになります)
死刑だけは例外的に、更正のためではなく抑止効果として
認められています。
死刑に反対する人は(あるいは法について議論する人は)、
「命をもって償う事の是非」など考えていません。
いわく「死刑に抑止効果はない」、「冤罪の場合取り返しが
つかない」といった話で。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>日本の刑罰は「償う」=報復のためのものではなく、更正の
ためのものと位置づけられています。
建前はそうでしょうけど、谷垣が遺族感情を取り上げ、報復的要素を仄めかすような発言をしましたよ。

>死刑だけは例外的に、更正のためではなく抑止効果として
認められています。
抑止効果は私も疑問視しています。

お礼日時:2014/07/04 22:05

他人の命を奪ったら 自分の命で償、、つまり目には目を、、、の考え方は、まったく時代錯誤だと思います。



泥棒されたら、泥棒仕返してよいのいか。
障害で手を失ったら、加害者の手を切ってもよいのか、、。
これらは、残虐な行為であって、被害者の失ったものはそのままです。
これでは恨みに恨みがつのる「し返し」であって、建設的ではありません。

泥棒されたら、失った額の変換を求めるべきでしょう。
手を失ったら、例えばそれまでの仕事ができなくなり、そのことによって失う障害所得の弁償を求めるべきでしょう。

失ったものを、なるべくもとに戻す行為、これが「償い」です。
償いと、仕返しは、厳しく区別されなければなりません。

結局No3さんの回答のとおり、死刑は犯人から償う機会をうばう、残虐行為に過ぎません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>他人の命を奪ったら 自分の命で償、、つまり目には目を、、、の考え方は、まったく時代錯誤だと思います。
確かに 人の命を チェスのクイーン交換みたいに考えてはいけないかもしれませんね。

お礼日時:2014/07/05 00:03

命で命を償う事は不可能だと思います。



犯罪者が死んだからと言って、生き還るわけでもないですし。
正直、何も変わらないと思います。
一時的にはスカッとするかもしれませんが。

勿論、お金でも、一生刑務所暮らしでも変わらないでしょう。

じゃあ と言っても、僕にはどうするのが一番良いのかは分かりませんが・・・
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/07/05 08:26

いくつか反対理由はありますが「命を命で償うことの不条理性」というテーマで答えるなら、不条理というより、命を命で償うことの不平等・不公正が大きいからです。



不平等・不公正の第一は、死刑のみ体罰計であることです。命を命で償うなら、重傷には重傷で、軽傷なら軽傷の償いをする必要があります。もし被害者に障害が残ったなら、同じ障害を負ってもらうのが償いの方法になります。これが法の平等というものです。

これらの刑罰が、収監と刑期の長さでほぼ納得しているのに、死刑だけ命で償うのは、弁償方法として飛躍がありすぎます。

つぎに、失った命を弁済する場合の不平等もあります。
殺人などの場合は死刑で命で償う、という前提だった場合、過失至死は命で償うことはしない、ということになります。遺族から見れば結果は同じ「死」なのに、不公正ではないでしょうか。

また業務上過失至死の場合も同じ「死」なのに命で償われることはありません。酒を飲んで危険運転罪が適用されても、犯人が命で償うことはありません。

さらに言えば、韓国のフェリー事故のように、会社や指揮命令系統の不備や不作為による死亡については、明らかに命を命で償うことができません。日本でも新宿歌舞伎町火災事故とか明石歩道橋事件など、組織の不備・不作為による死亡事故はたくさん起きています。「命で命を償う」ことが大前提なら、これもぜひ「命で償う」ようにしてもらいたいと思います。

遺族から見れば同じ「死」なのに、なぜ「意図した殺人」だけが命で償うことになるのでしょうか。死刑賛成派には、この誤謬をぜひ解決する方法を提示してほしいところです。遺族から見れば非常に不合理で不正義です。

私が本質的に死刑に反対なのは、法治国家と死刑の整合性についての考えからですが、それとは別に「命を命で償う」という考え方と実際の法の刑罰の実効性にはかなりの乖離があって、むしろ死刑を存続させるほうが不合理だと考えます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/07/05 08:28

こんばんは。




ちょっと、古過ぎるようです?

「社会の側が、変わるべきだ」
福祉の世界では、もう主流になりつつあると思います。
(さすれば、死刑の数も減るだろうし、必要性も無くなるだろう)
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

確かに 死刑は福祉の考えに逆行するかもしれませんね。

お礼日時:2014/07/05 08:29

私も死刑肯定派ですが、私の身近な人に死刑は反対、と


言った人がいます。

仲の良い人なので、あえて議論にならぬ様に訊いて
みたのですよ、同じような質問を。

すると、意外な答えが返ってきました。

「この社会に、命を奪われる、というルールがあることが
怖くてならない。」

と言うのです。

その人は、普通の聡明な大人ですので理性的な思考を
普段からしているし、色んな面でルールや社会規範を
きちんと守ることを大切なことだと考えているタイプ。

自分が何か死刑になる様な悪いことをする訳じゃないのに
何故、縁もゆかりもない他人、それも冤罪の可能性がゼロの
極悪人が死刑になることを、何故、怖がるのだろう?

しばらく、一人でずーっと考え続けてきました。

未だに結論など出ません。 出る筈もありませんが、最近、
理屈ではなく、どうも感情的な、人格の根本部分を構成して
いる、心の骨格に理由があるのではないか、と思うように
なってきました。

理屈で、加害者の人権を優先させたりする不条理な考えを
持つ人、私にとってエイリアンのような人は確かにいますが、
寧ろ、普通の喜怒哀楽を持ち、普通に悲惨な目に合った人を
可哀想だ、何とか助かれば良いが、と案じることが出来る
メンタリティの人が死刑反対を唱えるのは、この「怖いルール」に
対する、シンプルな恐怖感なのかも知れない、と思うように
成って来たのです。

それだけ、法律やモラルといった社会の秩序を、私よりも
ずっと大切なものとして重んじているからなのかも知れない。
その人は、公務員だし。 元々そういう、ルールに従う意識が
強いのかも、知れません。

翻って自分の死刑賛成の気持ちを覗き込んで見ると、どうも
私は社会の秩序とかルールに対して、深い所で不信感や
個人より集団を優先させる「社会」というものに対して、
安心して自分を委ねられる世界ではない、と不安を抱いている
ようなのです。

だから、被害者やその遺族よりも加害者の人権を尊重する
法の考え方や社会の仕組みに対して強い憤りを感じるし、
そんな社会は造り直さなきゃだめだ、と危機感を感じるのですが、
その人が訥々と語る言葉を聴くと、とても現実主義的な人で、
自分が出来る事、出来ない事を極めて明確に捉えています。

だから、社会に属さなければ生きていくことさえままならない。
不完全な社会ではあるけれど、それを信じて身を委ねて
行かねば、生きていくことさえ、難しい、ということを強く感じて
おられるようなのです。

強いて言えば、どんな欠点だらけの親だとしても、その親に
守ってもらって生きていくしかない子供達の感覚、とでも
言えば彼女の感覚に近いでしょうか。

確かに、自分の父親が、「俺が許さないと決めたら、我が子でも
殺す!」と宣言されたら、そりゃ・・・怖い・・・。

理屈抜きで、自分が殺される理由など無いことも百も承知で、
恐ろしいですね。 それなら、判る気がするんです。

今回書かせて頂いたのは、死刑反対派の中の、ごくごく普通の
一般女性の見解について私なりに模索した仮説でしかありません。

でも、死刑存置の是非に限らず、この世にはお互いに「どうして
こんな当たり前のことがこいつには理解できないのだ!」と
互いに主張し、いがみ合う問題が数多くありますが、実は同じ
言葉で同じ論理テーブルの上で闘っているのではなくて、

「あたしは幸せな家庭をあなたと築いていきたいの!」

「僕は君だけを愛さなきゃならない息苦しさに耐えられないんだ!」

というくらい、言語明瞭/意味不明な別な会話なのではないか。

そう思ったりします。

死刑賛成派は事件と法律を繋がったものであり、一体として
考えなければ法の意味が無い、と捉えるのに対して、反対派は
事件は事件、法律は法律、と別々に分けて考えているような
不思議な手ごたえの無さを感じるのです。

私は意見としては死刑存置に一票を投じますが、死刑反対派に
「理解できない、許しがたい!」と拙速に思わずに、しばらく彼らの
言い分を、「自分がそう主張するとしたら、どんな理由なのか?」、
自分なりの言葉に翻訳しながら、この問題について考えて行こうと
思うようになりました。

考え方の違いを埋めることが出来なければ、その話題を蒸し返さずに
閉まっておけば良いだけの事なのですが、大好きな人が、自分が
憤るものに対して、必ずしも怒らないという「理不尽」な感覚を、
何とか乗り越えたいと願うからです。

やっぱ、仲良くありたいじゃないですか。

その為には、理解しようとする努力を自分に科さないと。

と、思っております。

ご参考までに。

(聡明な学術的見解ではないことを御許し下さいにょ)
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

関係ないけど、例えば 殺人を犯した 末期癌患者が判決前に病死したらとか、
もし、日本でも安楽死が認められても 死刑囚は例外にするのか、
また、もし、死刑囚が重病にかかったら 医師はそれでも 医師の倫理として 治療すべきかとか、
トリアージの問題、その他、「生」の問題を考えると難しいですね。

お礼日時:2014/07/05 13:05

同じことをされたから、同じことをし返したい、いや、それ以上のことをしてやりたい。


復讐ということですが、被害者のその気持ちは、被害者と同質の経験をしたことのない第三者ですら抱く気持ちです(共感性が高い)。

しかし、実際、被害者当人が同じことをし返したとしても、自分も同じように傷つくと思います。

誰かを殺すこと、傷つけることは被害者にとっては現実のものではない(だからこそ、ある意味被害者となったわけですが)。
もしも加害者と同じことをやれと言われたら、相当のエネルギーやストレスを抱え、繊細な者なら自我の危機に陥るかもしれません。だから復讐というのは、加害者と同じレベルかそれ以上でなければできない。すれば加害者が被害者にした罪を、今度は被害者が被る。

死刑は法が決めます。
それは個人的な復讐は許されないという、暗黙の了解を強いられていることでもあると思います。

誰かを復讐したい人間にとってすれば、それは自らの犯罪を招くことになるため、否応なく我慢している人も多くいるでしょう。
もし、秩序というものがなくなれば、大きな戦争の前に個人的な戦争がそこらで繰り広げられると想像するのですが。
でも、それは加害者への攻撃性が彼よりも強く、罪悪感を抱くことなく、復讐を満たすことが目的となり、葛藤がない人間に限られると思うのです。
健全な人間は、自分がやられたことを他人にはできるだけしないということを考えることができます。

こういう事例があります。過去の大きな大戦では実際に人を殺した兵士は少なかったという研究発表がありました。射撃する際も、わざと相手から逸らすようにしたという帰還兵の証言があります。また帰還兵のPTSDは多く知られているところでしょう。
その理由として、人間が人間を殺すということに大きなストレスを感じるからだそうです。なるほどなと思いました。

死刑執行の許可も、現職の人々がやらなければならない。でも日本でなかなか死刑が執行されないのは、自分が生きているあいだ、執行にゴーサインをだす人間は自分の手を汚したくないから(つまり死んでからも後味が悪いとういことでしょうね)だそうですが、私はこの話を聞いたとき、それが本当ならまじめに考えろと腹がたちましたが。

でもこれも、上の戦争の例と同じで、やはり人間は同胞を殺すのに大きな抵抗があるのでしょう。

私は犯罪者が犯罪者になった心理的、環境的な背景も考えなければ、根本的な解決にならないと思うのです。でもその葛藤をテーマにした小説や映画になるのは、それだけ普遍的なテーマだからでしょう。

私自身、復讐を考えなかったこともありませんが、実際自分がする復讐のことを考えると、復讐を果たしたとしても、そのあとに、大きな自責の念、罪悪感に襲われると思うのです。その前にできない。そういう意味でも、私は自分以外の人間に対する同一視や共感というものが否応なく強いと思ってます。

ですから法というものは、絶対的に必要でありながら、当事者や関係者にとってはおせっかいなことかもしれません。ましてや、誰がどう考えても相応の刑以下にされてしまう場合もあるとき、二次災害といってもいいと思うのです。

蛇足ですが、裁判官などは、上位の裁判所に、自分の考えを査定されるそうです。ああだこうだ言われるのがいやだから、過去の事例に従うということを、知り合いの、法の専門家に聞かされました。
過去に事例のあるなしで、犯罪の該当性や罪の重を決めることにずっと大きな疑問をもっていましたが、そういうことだったのです。

要は紙の上のこと。
世間知らずの無罪病の裁判官が、テキスト片手に人の人生を決めているってことですね(怒)。もちろんまじめな裁判官もいますけれど。

こういう真摯さと、いい加減さを考えたとき、私刑と死刑の重みも違ってくると思いました。

死刑に値するような罪に相応の刑がない場合も、不条理。
刑があったとしても、無罪病の裁判官なら、無意味。また冤罪の場合、取り返しがつかない。
いずれにしろ、所詮、罪と罰も人間が決めるのですから、罪(犯罪者)に対する裁判関係者が相応の場合、不合理の場合がありますが、それはもう巡り合わせ、というしかないですね。

まじめに犯罪者と向き合い、犯罪者自身も罪を自覚し、反省する。まあ理想の世界ですけれど。
死刑制度があってもよいが、それを使う重みを考えるべきだと。これもまあ、理想論かもしれませんが。
「死」は(私個人にとっては)昇華です。
ですから双方が真摯に向き合い、葛藤し、考えるという態度で対峙したときに限り、死刑による罪も罰も真に許されるのではないか、と思うのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/07/05 13:09

誰がその死刑執行のボタンを押すのか・・・


刑務官という他人がそれを行うことは道理に反しないのか
あなたならそのボタンを押せますか。

仕事とはいえ人を殺すことに変わりはないですね。
赤の他人にそれを行わせる不条理というのはあるでしょうね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>誰がその死刑執行のボタンを押すのか・・・
遺族にボタンを押させるとか・・・・
もしくは、死刑囚同志が押すとか・・・・

お礼日時:2014/07/05 20:15

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