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罪悪感はあるのですが、罪の意識がありません。
自分のしていることが罪だ、ということを、そう考えざるを得ない分かりやすい結果が出るまで実感できないのです。
もちろん、罪悪感が無いわけではありません。客観的事実を突きつけられた時に初めて、罪悪感が生まれます。
ただ単に幼稚なだけかもしれませんが、「何が罪に当たるのか」はどのように判断するべきなのでしょうか?
法に触れないこと?良心に逆らわないこと?

キリスト教など、規範意識のある状況でなら罪の内容も明確になっていると思いますが、私はキリスト圏など明確な倫理観のある場にいたことがありません。
強いていうなら学校の校則くらいです。それも、表面上守っていただけで、心から何かに従ったことはありません。

罪を規定するのは人の主観、つまり良心なのか、社会の規範なのか、宗教なのか?

結局は人それぞれの主観や道徳観によるもののような気もするのですが、それならなぜ罪悪感を覚えることが避けられないのか。

そもそもこう考えるようになった経緯として、世間的に「良い人」とされる人の悪い一面を目の当たりにしたり、逆に法律すれすれ(もしかしたらアウト)のことをした所謂不良と呼ばれる人の人間的に優れた面に触れたこと等があります。

結局は所属するコミュニティによって罪の内容すら変わってきそうで、それなら一人の人間として「正しい」ことは何なのか分からなくなってきます。

最近「正しい」ことなど何もない、と聞きます。
そうだとすれば、正しいの対極にある「罪」すらも失くなることになります。

長くなってすみません。
皆さんはどうお考えですか?

A 回答 (7件)

罪の意識がないのは、善悪の基準が分からないからではないでしょうか。



先ず、善と悪の基準が分からなけば会話が成立しません
「善」と「悪」とは可変的な実在なのです
 悪なくして善はなく、善なくして悪なし。
両者は、相対的であるとともに相補的な実在なのです

悪でも大悪と戦えば善となるのです
善でも大善と戦えば悪となるのです
 極悪非道の殺人鬼でも、敵国からすると正義の英雄なのです
盗人は悪人でも、鼠小僧のように、盗んだ金を貧乏人に与えれば善人です
 誰人たりとも、善悪を決定する事はできないのです。
トルストイはそれらを見据えたうえで
「宗教のみが善悪の決定を与える」
と言ったのです
彼の言う宗教とはキリスト教に限定しておりません。
おそらく、ここで言う宗教とは、大善、極善の宗教の事でしょう

では大悪とは何か、極悪とは何か。
おそらく「傍観者」「無関心」でしょう、シニシズム(冷笑主義)でしょう
シニシズムは、時に悪そのものよりも恐ろしい
 例えばジャニーの問題を傍観していた、ジャニタレやマスゴミです。
作家スティーブンソンの
「わたしは悪魔よりもシニシズムの方がずっと嫌いだ」との言葉に共感します。
 決定的に重要なことは、善も悪も互いに(善ならば悪を、悪ならば善を)「他者」として、その関係性の上に「自己」を成り立たせているということであります
 それに対して、傍観や無関心やシニシズムの世界における「自己」とは
ユングのいう「自我=エゴ」と同じく、表層次元を浮遊する閉塞的な自意識でしかありません。
 そうした「自己」は「他者」が不在であり、「他者」の痛みや悩み、苦しみへの不感症に陥っているがゆえに、自分の世界に引きこもってしまったり、ささいなことでキレて暴力的な直接行動に走ったり、あるいは素知らぬ顔で傍観者であったりする。
こうした「他者」の不在という精神病理こそ、ファシズムやボリシェビズムなどの20世紀を席巻した狂信的イデオロギーを生み出す格好の土壌であったのです。
 「自己」の内に「他者」が欠落していれば、対話は成立しません
形は対話のように見えても、一方的な言い合いに終始してしまう。コミュニケーションは不全に陥るのです。

長くなるので、結論します
エベルハルトの次のような逆説的な言葉を引用します
「敵を恐れるな、最悪の場合でも敵は汝を殺すぐらいだろう。友人を恐れるな、最悪の場合でも、友人は汝を裏切るぐらいだろう。無関心なやからを恐れよ、やつらは、汝を殺しもしないし、裏切りもしないが、だが、やつらの沈黙の合意のせいで、地上には裏切りと、殺人が存在するのだ」

大善、極善「正しい」は、すでに説かれています
不滅の真理(哲学)大我への道(仏教)普遍的な愛(キリスト教)五常(儒教)
結論だけ言います
・傍観せず共に苦しむ事。
・己の可能性を信じ、己に勝つ事。
・一歩踏み出す勇気を持つ事。
これが正義です、慈悲とも言うし、愛とも言います、仁義とも言います
長くなるので、又後で、
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
明確な善悪について漸く思い出すことができました。
とても分かりやすかったです。
スティーヴンソンの作品は大好きなので、嬉しかったです。
罪の反対は正義なのですね。
また、他者への無関心は悪、という言葉にはっとさせられました。

お礼日時:2023/10/10 12:11

ようは悪いと思っているけど謝る気はないということでしょうか?


普通に謝ればすべて解決です
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「何が罪に当たるのか」はどのように


判断するべきなのでしょうか?
 ↑
法や道徳で判断します。



罪を規定するのは人の主観、つまり良心なのか、
社会の規範なのか、宗教なのか?
 ↑
社会の規範があって、その中で
これだけは、強制的に守らせる
というのが法です。
良心というのは、社会規範によって
醸成されたものです。



結局は人それぞれの主観や道徳観によるもののような
気もするのですが、それならなぜ罪悪感を覚えることが
避けられないのか。
 ↑
生育する間に、規範を教えられ
それが内面化するわけです。
内面化するから、規範を意識しなくても
罪悪感を覚えるようになるのです。
フーコーのいう、パノプティコンです。



結局は所属するコミュニティによって罪の内容すら変わってきそうで、
それなら一人の人間として「正しい」
ことは何なのか分からなくなってきます。
 ↑
赤信号で渡るな、なんてのは所属するコミュニティ
によりますが、
殺人などは、何処でも罪になるでしょう。
窃盗は、罪にならない部族もあります。



最近「正しい」ことなど何もない、と聞きます。
そうだとすれば、正しいの対極にある「罪」
すらも失くなることになります。
 ↑
善悪という概念は、社会学的には
社会の秩序の為に、人間が作ったモノです。

社会の秩序にとってマイナスを悪、
プラスを善と名付けただけです。

これが、キリスト教になると、善悪も
神が創った、なんてことになりますので
混乱するのです。
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罪深き人増えすぎたことの揶揄で


正しいことなど何もない

罪悪感を抱えてたら何をしてもいいのか
罪悪感を
十字架を背負うと言う言い方はおかしい

間違いを犯すことを罪と言うと言うなら
間違いを正すことをしないで
十字架背負うと言う言い方は
罪さえ認めてない
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だからと言ってサイコキラーやサイコパス等の


良心の呵責なく他人を傷つけ、利用しつくす人は稀です

オキシトシン(幸せホルモン)というのが有るように
人は他人と繋がる事で愛情を幸せと思う機能(本能)があり
罪に相当する事を行うと他人から愛情を貰えなくなります

罪の定義は一概には言えませんが
「己の欲せざる所は人に施す勿れ」です
つまり自分が悪いと自覚している事を行った時、
罪悪感は生まれその罪悪感を消すために
「悪いのはあいつだから~」とか「これは社会の為だから~」とか
色々言い訳するのですよ
(指摘され、素直に謝る位ならそもそも良心の呵責によって罪を行わない)

最近「正しい」ことなど何もないと聞きはしますが
それ、ニーチェの虚無主義の延長なので別段珍しくないです
真に罪と道徳に対して悩んでる人は一般的道徳を守りながら
「正しさ」の再定義をしようと苦悩する人々です

それ以外で「正しい」ことなど何もないっていう人は
単なる言い訳、口実に使ってるだけです
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罪悪感があるということは、善悪の判断力のある人。


今の日本は、善悪、思慮分別の区別がない人が多い。教育が記憶中心だからこんなもんだが。

正常に判断力があれば、十分に善良。
素質あり。

十分に答えてないが、ごめん。
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法的な罪、倫理的な罪、宗教的な罪、さまざまですね。


まずは自分のを取り巻く環境において当てはまるカテゴリーの罪を学んで下さい。
その罪を犯せば、断罪、される訳です。
法的な断罪、倫理的な断罪、社会的な断罪、さまざまな断罪があります。

罪の意識がないならば、それはただの、無知、です。
無知は罪深い状況を作り出しかねません。
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