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命が私を生きている


そうなんだろうけど、そうだなあと思うことが自然だとは思わない。なんかスレてて時を経てきたんだろうなと思います。

最初っからしっくりきてしまっては、
命さんとしては困ることでもあるんですか?

A 回答 (11件中1~10件)

これね、枝雀師匠の座右の銘みたいなものでした。


首を吊ってしばらくして亡くなっちゃったけど、仏教をよく学んでいた人でした。

命さんがお上で、私が手下、という理屈は足すところも引くところもない理屈なんですけれども、〈私〉というのは、〈私〉を否定し続けたら病気になるように出来ていて、〈私〉にOKを出さないと死んでしまうものなんですね。この、能動的な〈私〉に、受動的な〈私〉が否定ばかりされるようなことがあったら、もう、生きて行かれないのです。〈私〉が無いと命も生きず、また、命が生きているなら意識不明でも〈私〉はあるといえましょう。
だから、生きて命を守るためには、〈私〉が上で監視をして、ほどほどにOKし続けないとなりません。そういう心の(脳の)習慣が、一歩間違うと、〈私〉が上にあって命さんをどうとでもできる気持ちになってしまったりと、両刃の剣でもあります。解約希望さんの心が標語にしっくりしないのは、監視役の〈私〉が、〈私〉をOKしつつ命を守っているからで、また、それが人間の自然だからです。
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この回答へのお礼

わたし、枝雀さん大好きなんです。

命さんは気がすんだら去っていく。
病気とは違うように思ってる。

詳しく知らないんだけど、枝雀の自殺は苦しくて悲しかったのかな?それとも、ちょっぴり寂しいくらいで楽なもんだったのかな?

お礼日時:2016/10/06 12:47

>命が私を生きている


この命というのは仏の命のことです。迷いの世界にいる我々には解りにくいですが、悟りの世界では、この世界はたったひとつの仏の命が生きています。
別の言い方をすると、今この瞬間が生きています。
仏=今この瞬間、つまりこれが本来の自己なのです。
仏という全体が生きているだけで、仏から分離した個人がいると考えるのは思い込み(妄想)だということです。
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この回答へのお礼

迷いの世界の妄想に浸っている普通の生きものが、なんかがあっていろあろ諦めて悟っていくと、そんな変なこと(ごめんなさい)を言い出して。

命はひとつやでえ、と言ってみても

まだこの体は他の個人との利害関係のなかで雇用されたり食べたりゴチャゴチャした生活を維持してる。

冗談半分で言ってみるだけ。
さもなくば、妄想を喋っていたほうがまだマシ、なのかなー(^^)

お礼日時:2016/10/09 09:44

「世界は自分の外にある」とお思いですか?


量子論的に、有限な存在性は認識の不完全さ
(物事(階層現象性)を表面的に捉える)によっ
て派生しているのです。
つまり「世界は自分の中にある」のです。
認識=宇宙。
自我仮説(時間軸=記憶(過去)=超光速)と
空間仮説(空間軸=予測(未来)=光速下)の
相補分化。
その「相補分化」とは、本質的に光速(超弦)
に還元される階層現象を、表面的(いい加減)
に捉える事による虚構。
「命が私を生きている そうなんだろうけど、」の回答画像10
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この回答へのお礼

理系のお話よくわかんないけど
私がしんでもあなたが生きてる世界はきっとまだある

世界は私の外にあるょ!

お礼日時:2016/10/08 09:01

よくあるのが命と精神をゴッチャにしてその違いに矛盾を感じる



命ならゴキブリにでもほうれん草にもある しかし精神と呼べるものがゴキブリやほうれん草にあるだろうか?

我々は精神です 生命に宿っただけです。生命の影響を大きく受けますが生命とは別物です。

できればこの体からも自由になって 食べなくても働かなくても存在できるようになりたい

サイボーグやアンドロイドがそれを実現するかもしれません。
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この回答へのお礼

命なら私にも入っては去り
ゴキブリにも入っては去り
機械にも入れるようになるのかな?

お礼日時:2016/10/07 13:53

了解しました!

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命が肉体で私が心、という表現に違和感が有ったようですね。


寿命、と云う言葉にも違和感があったでしょうか。

「東さんのほうがしっくりきて泣ける」けれど、最初からそう思ってしまうのは不自然のような感じがする。
と云う言い回しから推測すれば、真の意味は何ですか、という問いなのかなと思いました。

よく仏教では「生かされている」という表現を使う宗派が有りますが、そうした思いを表現しているのかも知れませんね。

解約希望さんの心持ちが、うまく掴めませんでした。
残念!
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この回答へのお礼

掴まれるの好きじゃないのꉂ(ˊᗜˋ*)

お礼日時:2016/10/06 23:44

回答№4、に全く同意です。



その回答への応答に「命さんは気がすんだら去っていく。病気とは違うように思ってる。」と云っていますね。
これに付いてです。

"命さん"は肉体の事。"私"はそこに住む心。と云う事ですね。
命さんは気が済んだら去っていく、と云うのは肉体には寿命と云うものがある。と云う事を云ってます。
私、がどんなに頑張ろうとも、この"寿命"はどうしようもない、と。

枝雀の自殺は苦しくて、悲しかったからではないでしょうか。
経済的な事柄ではないと思います。
単なる想像ですが。
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この回答へのお礼

うーん・・・

命が肉体で私が心

なんか私はぜんぜん違うふうに思っているけど、あなたの解釈のべられて私、どんなリアクションすればいいんだろう。

ふ、ふ、ふうん…
そういう見方もアリマスヨネ!

お礼日時:2016/10/06 15:52

「最初っからしっくりきてしまっては、命さんとしては困ることでもあるんですか?」


→いろんなことを考えることが好きなようですね。

でも、人間は自然界の動物です。
考えても考えなくても、自然の中で生まれ、自然の中で生き、自然の中で死んでいくということでしょうね。
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この回答へのお礼

生きててヒマだから無駄なことして遊んでるの。死んでてもヒマかもね。ꉂ(ˊᗜˋ*)

お礼日時:2016/10/06 12:49

東さんのは受動的宗教心の表現。

(神仏の思いを受け止めると云う)

金剛峯寺の「生かせいのち」は能動的宗教心の表現。(神仏の思いに応えようと云う)

解約希望さんは"東さんがしっくりきて泣ける"と云っているので、その精神は受信型だと思います。
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この回答へのお礼

そおだねꉂ(ˊᗜˋ*)

お礼日時:2016/10/06 10:55

「命が私を生きている」



この境地、心境は"達観"と云えるかもしれません。
そう思ってみると、回答№1、だだじゃさんの「命の炎」の意味するところが分かるような気がします。

せっかくの命さんなんだから、困らせないように生きたいものですね。
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この回答へのお礼

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これは東本願寺の標語なんだって。
金剛峯寺は「生かせいのち」

ぜんぜん違うよね。
東さんのがしっくりきて泣ける。

お礼日時:2016/10/06 08:41

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