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「エピステーメ(ー)」と「ドクサ」について、イマイチよく理解出来ないので、わかりやすく説明していただきたいです。

「エピステーメ(ー)」が科学的な知識で、「ドクサ」は臆見のことを言うようですが、たとえば「哲学とは何か」と聞かれた場合、「理性的な思考を通じて、様々な主題について論じて研究を進める学問」と答えたら、この返答内容が「エピステーメ(ー)」で、同様の質問をされた場合、「なんか難しくてよくわかんねー学問だよ」と答えたら、この返答内容が「ドクサ」ということになるのでしょうか?

A 回答 (2件)

ドクサをひとくさり。



「哲学とは何か」
1)理性的な思考…進める学問
2)なんか難しくて…学問だよ
どちらも、ドクサではないですか。どっちも内容としては変わらんでしょう。1)はよいこちゃんの返答で、2)は正直者の返答という気がしますが。

「哲学とは何か」に対する返答として、エピステーメと云い得るには、最低でも新書本一冊分は必要でしょう。その程度で済むか!という嘲りの声を無視してね。

プラトンの使い方をまねしてというか、結果的というか、研究済という段階から見れば、
エピステーメ:科学的知見
ドクサ:臆見
あるいは、
エピステーメ:理性的認識
ドクサ:感性的知覚
という分け隔てでもよいでしょうが、

プラトンの使い初めというか、論のスタート時点、あるいは研究が始まったばかりであれば、

ドクサ:個人的思い ー> エンドクサ:世間的常識 ー> エピステーメ:目差すもの

ということではないでしょうか。即ち、「ドクサ」は、見下ろすならば「臆見」とも云い得るとしても、研究のスタートとして必要不可欠であり、それとして確実なもの、ではないでしょうか。
プラトン的上昇法ですね。で、プラトンは上昇の結果イデアにたどり着いて、足下が疎かになった訳ですが、その故事にならうと、一方向の流れでは、つまり単線では、エピステーメ=真知には到らない、云々。

これらの言葉のギリシャ哲学以来の使用法に就いては、専門家の回答を待っていただくとして、素人の見方でした。
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「理性的な思考を通じて、様々な主題について論じて研究を進める学問」だけでは、哲学の説明としては不十分です。

また、これは一般的な概説であってエピステーメー(科学的見解、知識など)ではない。さらにまた、この説明は学問一般に言えることではあるが、科学を特別説明したものであるとは受け取れない。学問としての科学には理性的な思考だけではなく、実験、実測、記号や書式の開発など、他学問には見られない独自の手法がとられるからです。それらはまさしくエピステーメー(科学的知識)であって、そのままでは一般に理解されがたいものです。
二つ目の、
「何か難しくてよく分からない学問」は、一感想として受け取ることはできるが、ドクサ(臆見、憶測など)であるとは言えない。難しくてよく分からないと答えることは、ドクサではない。当然これは、哲学の説明としてはたりえない。

エピステーメーは、科学の意であるけれど、従来の考え、常識などを否定的に見た往時のギリシャの論客に使用された経緯があるようです。ドクサにも、同じく往時のギリシャの論客が、人々や世間の持つ一般的な考えや感情、経験則を否定的に捉えて使用された経緯があるようです。現代でも同じ場面があるのかもしれない。もし、人々や個人の考えをドクサと意って否定するのであれば、それに代わる正しい知見を示さねばならない。しかし、当時それに代わるものとして提出されたエピステーメーもまた、時を経て一般化され、広く人々に理解されたならば、ドクサとして否定的に捉えうるものなのである。
 実には、エピステーメーは科学の意味であり、ドクサは憶測の意味である。いずれにも否定的なニュアンスも、肯定的なニュアンスも、与えなければ見られない。何者かが意図的に、ドクサを侮り、エピステーメーを着飾らない限りは、両者に何の軋轢も生じない。その反対も同じである。ドクサを誇示してエピステーメーを軽視するならば、そこに軋轢が生じる。

言語を用いるのに、立場の偏りを以ってすれば、言語としての本当の力は発揮されない。言いたいことだけをのべ、聞きたいことだけを聞いているようでは、その人には偏りがあると知られる。花を見ても香りまでは嗅がずに過ぎ去る人のように、栗のいがをいとうて中身を取り出さない人のように、かようの人は話によって得るものが少ない。
一方で、相手の本当に聞きたいことを述べ、相手の本当に述べたいことを聴く人には立場を超えた聡明さがあると知られる。その人は、花を見て、さらに香りも楽しみ、いがを剥がして栗の種を得る人のように、話しによっても得るものが多い。
言葉の真義を求める人は、自ら喚起する聡明さによって、自らの迷妄を超えようとしているのであるから、努力する人である。さらに、知見を求めるに相応しい姿勢を備えて、(小鳥達は木々に留まっておしゃべりをするけれど)風が木々に留まらぬように、諸々の見解はざわめきの如く聞いて心を害さず、適時に弁え知ったならば、自ら起こしたものであろうとそうでなかろうと、それらに固執すべきではありません。
 たとえ、心地よい議論が起ころうとも、議論に留まらない人々は、世をくまなく吹き渡る風の如く、知ることについて自在を得ています。
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