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武満徹の良さが理解できません。

一番有名であろうノヴェンバー・ステップスとか、テクスチュアズ、鳥は星形の庭に降りるなど、メジャーな所を一通り聞いてみたんですが、なにかこう非常にアバンギャルドというか、前衛芸術のようであり、
失礼ながら果たしてこれは音楽といえるのか?と思いました。

もちろん武満徹がすばらしい音楽家だと評価されていることは知っています。
知ってはいるのですがどこがどう良いのかまったくわかりません。

どこがどうが良いのか、世間ではどういうところが評価されているのか、教えていただければと思います。

A 回答 (6件)

ここはご質問中でも上がっている『鳥は星形の庭に降りる』に絞って、あまり一般的とは言えないかもしれない私的感想文を書いてみようと思います。

ご参考になるかどうか保証の限りではありません。

この一曲は偶然のようにはじまります。実は音楽は演奏が始まる前から始まっていたのだが、演奏の開始はわれわれ聴衆が耳を傾けるタイミングを選んでみただけだとでもいうふうに。
これはちょうど、松の梢に夜昼なく風は吹いていますが、われわれがその近くに立つときだけ松籟が聞こえてくるのと事情が似通っています。

そしてその音の連なりはメロディーを主体とするテーマを持っているわけでもなく、ということはつまりテーマとそのヴァリエイションや変形とも変容とも無縁であって、また、ある音の響きやマッスで区切られているものでもないようです。従来の西洋音楽だとここは三部形式とか、それからの逸脱とか、何らかのとっかかりがあるものですが、そういうものもないようです。強いていえば二部形式で、曲の全体は長い胴体と短い尻尾のついたトルソーのような感じ。

この曲は自然の音を模したものではありません。ミュージック・コンクレート(若いころの武満徹も一枚噛んでたはずなんですが)のような具体的な何かに即した音楽でもないようです。
一定の何かの思想なり主張なりを音に託したものでもないようです。心理劇でもなく、おそらく物語でもない。しばしばロマンティックでさえありますがロマン派の音楽でももちろんありません。
また、ドビュッシーなどフランスの印象主義音楽が感じさせてくれる覚醒させるように鮮明な感覚的な音のつながりでもありません。

人間の強い意志が働いたある統率の中にあるともいえず、そうした人間的な意志や感情をも含めた、もっと広範囲の茫漠たる世界が、たまたま切り取られた断片という形でわれわれの前に立ち現れるのです。けれどもそれは何と精緻で繊細な音の響きの連なりでしょう。

これは一種の標題音楽なんですが、作者がどこかで言っていたように、標題はその曲のいちばん外側にある枠であって、すべてはその内側で行われ、起こるのです。
この場合は「鳥は星形の庭に降りる」の枠内にあります。英語訳も大事なところで(あるいは英語の標題があって作者自身によって日本語訳されたのかもしれませんが)それは「A Flock Descends into the Pentagonal Garden」となっています。

pentagonalからただちにpentatonic五音音階を連想してしまうことを作者はひそかに期待しているかのようです。西洋音楽の基準からは特殊なこの音階も、世界規模でみれば最も広範囲に使われている音階にほかなりません。それはさておき、
flockとは何かの群れ、この場合は鳥(アホウドリか雁かスズメかはわからないが)の飛翔する一群、それが星の五角形に光る庭にintoしている(現在形)というのです。

そのintoのさまは、この曲の終る直前にそれまでの音の気分をあらためてはじまり、時間にして五秒か十秒、光り輝く世界が暗示されます。ちょうど東洋の絵画が、西洋の絵画のように絵で埋め尽くすのではなく、余白を十分に利かせて暗示させるように。予兆のようにおぼつかなげでありながら確信に満ちた暗示です。

それは限りない憧れであり同時にその成就であり、幸福の予感であり同時にその達成であり、深々と広がる寛容の世界への到達のように聴こえます。水面に落ちてくる一滴のしずくのように。
仏教用語でいえば「涅槃」というものに近いのかもしれません。


音楽は文学ではないことは重々承知しているつもりです。誤解されないように願うのですが、ブンガク的に書こうとしたのではなく、私が聴きとったと思う一曲の雰囲気をなんとか説明しようとしているだけなんです。

西洋の近代までの音楽は、たとえばマーラーやブルックナーのように、はじめはとっつきにくくても聴き馴れるに従って耳に親しいものとなります。音楽とはこのようなものであったのかと納得さえするでしょう。学校教育を通じて早くから親しみ、また周りにあるポピュラー音楽も、このクラシック音楽の富の直接の継承者であるのだから、普段聴く音楽もみな西洋発祥の音楽にほかなりません。
つまりバッハもモーツァルトもベートーヴェンも聴けばひじょうによくわかるのです。けれどもどこか中心のところがわかっていない気もする。たとえば宗教観というようなものとか。自由とか平等とか。イデーとか。

そこへいくと、武満徹の音楽は逆のことが起こるのです。
よくわからない。けれども根っこのところはとてもよくわかると。
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武満に限らず現代音楽は総じて「音楽」とは思えないのでは? 最近では中学(?)の音楽教科書に「ノヴェンバー・ステップス」が載っているらしいですが、子供たちにとっては奇怪な音楽なことでしょう。

これも「音楽」ということが分かってくれれば。

私は毎日通勤の車の中で武満全集を聴く者ですが、彼の音楽を理解している自信はありません。武満がほかの現代曲と比べてどう違うか?…違います。他の方々の曲は理が勝ちすぎて面白味に欠けるのです。「わかる」ことができる。しかし武満はわかりません。同じ曲を何回聴いても覚えられないし謎が残り続ける。わからないから惹かれる面があります。

私は武満の著書やスコアも集めている者ですが、譜面を見てもわかるものではありません。まして美文といわれる文章も鑑賞の助けになっているのか? 私はただ物好きのマニアかもしれません。しかし武満マニアを自称したところで誰もほめても感心してもくれません。ほとんどの人は食わず嫌いです。まともに聴いてもいないのに敬遠しているだけです。

もし武満の音楽が「前衛」で聴けたものではない、というのなら、是非後期の作品の鑑賞を奨めます。以下の作品を聞いてみていただき、また感想を書いてください。

「夢の時」
「精霊の庭」
「ア・ストリング・アラウンド・オータム」

これら後期のロマンチック、夢幻的な作品のおかげで武満の特に国内評価は上がったといえましょう。こうした甘く聴きやすい作品のバックボーンに、それ以前の前衛時代があったということです。
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現代演劇、現代音楽、現代絵画は、頭の思考が必要で、頭で理解するもの見たいです。

だから世間では難しいと思われてるようです。脳は、刺激を求めるので、音楽は、不協和音、複雑なリズム、難しい歌詞が多くなり、雑音化がエスカレートするが、しかし逆に、人の心は、ストレスが多くなる。まれに雑音化した音楽に、薬物のような快感を感じるマニアの人もいます。芸術、音楽に思想とか自己主張があると、脳を頭を刺激するので、論理思考芸術、音楽になり、本来の芸術、絵画の目的と、違うと思います。芸術、音楽が、心の癒しを目的にしてるならば、脳を頭を刺激しない事、頭を休める事が条件になると思います。理由は、脳が思考してる時は、脳が、人の心と自然の情緒との交流を遮断するので、心がストレスになります。脳の思考を休めて、脳波がアルファ波になると、人と自然の情緒が交流するので、心が癒されます。だから日本の伝統文化の様に、情緒を表現する芸術、音楽が必要だと思います。脳の思考は、不要で、情緒を感性で、心で感じるだけなので、人を癒し、誰にも分かりやすく、芸術、音楽の需要が多くなると思います。情緒は、人を癒し、人を育て、社会を調和に導きます。だから今の日本の芸術文化は、転換期です。西洋を手本にするのは、終わりました。いよいよ日本の伝統文化を手本にする時が来ました。現代音楽は、理解出来なくても、演歌や歌謡曲は、誰にも分かりますから。
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この回答へのお礼

僕は頻繁に音楽に癒してもらおうとします。だから音楽を聴くのに頭を使うのは苦手です。ですので情緒を表現する芸術、音楽は本当に素晴らしいと思います。

日本の伝統文化といえば、最近偶然聴いた長唄で安らぎました。西洋文化ではグレゴリオ聖歌で癒されました。

いろいろな音楽を試していきたいと思います。ありがとうございました。

お礼日時:2009/11/25 18:44

 私も、武満徹氏の音楽をいろいろ聴いてみましたが、半分以上は「?」です。


 でも、武満氏が何十年かけてやってきたことを、一介の素人がそう簡単に分かるとは思ってはいないので、そんなものと思っています。
 「武満徹がすばらしい音楽家だと評価されている」のと、あなた自身が武満氏の音楽を好きになるかどうかとは、全く関係ないのではありませんか?

 質問内容を見たところ、あなたの聴いた曲は、武満氏の極めて前衛的なものばかりですね。(とても突っ張った、よそ行き姿で最前線で戦うチャレンジャーとしての武満氏の一面ですね・・)
 武満氏は奥の深い作曲家ですので、その他にもいろいろな顔を持っています。

 初期の「弦楽のためのレクイエム」は、既に聴かれていると思いますが、ひたむきな音楽への思いに打たれませんでしたか?
http://www.hmv.co.jp/product/detail/2817706

 武満氏のユーモアにあふれた合唱曲で、「明日ハ晴レカナ、曇リカナ」「○と△の歌」(いずれも武満氏自身の作詞)、「死んだ男の残したものは」(詩は谷川俊太郎氏、これは森山良子さんも歌っています)などはとても好きです。
http://www.hmv.co.jp/product/detail/1262173

 ポピュラーシンガーの石川セリさんは、武満氏のお気に入りでした。(井上陽水氏の奥様ですが)
http://www.hmv.co.jp/product/detail/645765
http://www.hmv.co.jp/product/detail/1244203

 「ギターのための12の歌」ではビートルズの「イエスタデイ」を含むポピュラーソングを編曲しています。こういう曲もお好きだったのですね。
http://www.hmv.co.jp/product/detail/2638449

 テレビドラマ「波の盆」の音楽は、本当に感動的です。(私はこのドラマ自体は見ていないのですが)
http://www.hmv.co.jp/product/detail/763968

 武満氏の絶筆となったフルート独奏のための「エア」は、簡素な中に充実した思いがこめられいて感動的ではありませんか?
http://www.hmv.co.jp/product/detail/402006

 音源になっているかどうか分かりませんが、NHKで1990年頃放送された、音詩「ファミリー・トゥリー(系図)」も、谷川俊太郎氏の詩と、映像と、そして武満氏の音楽とで、とても感動的だったと記憶しています。

 簡単に好き嫌いの烙印を押さずに、いろいろと聴いてみることをお勧めします。

 1曲でも武満氏の曲が好きになれば、「武満徹の音楽は分からない」などと十派一絡げで「1」か「0」か、という必要はなくなると思います。1曲でも好きになれば、立派な武満ファンになるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

1曲でも好きになれば武満ファンですか。そうですね。考えてみれば僕の好きなショスタコーヴィチもチャイコフスキーも、全ての曲が好きというわけではありませんでした。

数多くの武満作品において僕は、一部、それも特に前衛的な曲を聴いて彼を「意味がわからない音楽を書く変人」と決め付けてしまっていたようです。

紹介頂いた曲は全て聴きます。僕は武満ファンになれるのかな。楽しみです。

ありがとうございました。

お礼日時:2009/11/25 18:35

私もさっぱり分かりません。

無理に理解する必要も無いと思っています。心に響かないものなど聞いても仕方ありません。現代音楽の時代は、音楽の空白時代だと思っています。

これまで、中世・ルネッサンスからロマン派に至るまで、クラシック音楽は口で歌えるメロディーが中心の音楽でしたので、誰もが楽しめたのですが、いわゆる現代音楽になって、無秩序な音の並びや口で歌えないような強引(?)な和声進行の音楽になって、これまでの「音楽」 とは全然違う質のものになってしまっていると思います。

中世→ルネッサンス→バロック→古典派→ロマン派と音楽は変化していきましたが、それは音楽の趣味が変わったり、リズムが変化したり、和音が進化したものです。ところが現代音楽は、いままで音楽の本質と言うべきものであったメロディーまで事実上なくなってしまい、もはやこれまでの音楽とは違います。なので、一般に受け入れられるものではないと思います。

このように言うと、マーラーの例を出してくる人がいます。「私の音楽は将来理解される日が必ず来る」とかなんとか言ったそうで、しかもそれが現実のものになったというのです。

でもマーラーの音楽は、和音などが難解ではあるものの、いままでの「音楽の定義」に合致した歌える音楽です。歌えない現代音楽とは全然違います。

なお現在では、これまでの現代音楽は音楽としておかしいのではないかと考える著名な人が増えて来て、歌える音楽に戻りつつあるようです。
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この回答へのお礼

僕も同意見です。

ただ武満徹を良いという人がいるということは、今のところ理解できていませんがやはり素晴らしい音楽家なんだと思います。

現代音楽がこのまま生き残っていくにしても廃れるにしても、せっかくそういう音楽があるのですから少し楽しんでみようと思います。

ありがとうございました。

お礼日時:2009/11/25 18:28

武満徹に限らず、それが現代音楽(現代のクラシック音楽)ってことですよね。


現代音楽も生まれてからもう長いです。前衛芸術も時と共に‘前衛’じゃなくなり定番になります。クラシックにおける現代音楽も、もう‘前衛’‘最新’だのと呼ばれなくなって久しいように思えます。むしろ過去のイメージすら受けるくらいです。


まず基本に立ち返り、単純に‘音’と聴けばいいのではないでしょうか。鳥のさえずりや水の音、あるいは日常の機械音に心惹かれる・・・音楽とは本来そういうところから始まっているのではないでしょうか。

ディアトニックと機能和声にガチガチに縛られた音楽(例えばモーツァルトのような)が良いとは、自分はちっとも思えないですし、それが音楽の全てを語っているなんて絶対思うべきではないと思います。
zazencrash自身、もしかしたらそれに縛られてしまっていませんか? 音楽とはこういうもんで、その枠から外れたものは音楽とは思えない・・とか。

「表現する」という事はどういう事なのか・・あれこれ思いめぐらしてみるのもいいものです。
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この回答へのお礼

既存のクラシック音楽こそ正統、あとは邪道という考え方は少なからずありました。

単純に音として捉えてみるということを実践してみたいと思います。

ありがとうございました。

お礼日時:2009/11/25 18:24

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