太宰治「人間失格」

はじめて読みました。
あまり本など読んだことがないのですが、文章の持つ雰囲気、特徴的な言い回しなど、
うまく表現できませんが、はまってしまいました。
何度でも読みかえしたい衝動に駆られています。
こんな雰囲気を感じられる他の本も読んでみたいです。
皆さんのお勧めを教えて下さい。
太宰治でなくても結構です。
ちなみに太宰治の他の作品も読んだことがありません。

A 回答 (1件)

 


 0.さらば、文学 ~ わたしの読書歴 ~
 
 太宰作品で、あわせ読むべきは《櫻桃 194805‥ 世界》です。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/card308.html
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19480619 応答忌 ~ 桜桃忌と白百合忌 ~
 
 1.つぎの人たちについても、すこし知っておきましょう。
 
♀山崎 富栄 戦争未亡人 19190924 東京   19480613 28 /玉川情死~《愛は死とともに》
 太宰 治  作家    19090619 青森 東京 19480613 38 /玉川情死/籍=津島 修治~《桜桃》
 田中 英光 作家/漕艇 19130110 東京   19491103 36 /太宰治の墓前で自殺/光二の父
 
 2.わたしは、中学二年のとき、友人の母上と姉上に教わりました。
 
── 「もう日本文学など森 鴎外をすこし読むだけでいいんですよ。
外国の文学をたくさん読んで、ご勉強なさい」
「まずは、フロベール、ね」 かたわらの百合子嬢も言う。
── 《客太郎 ~ サロン・ド・ボヴァリー ~ 20001224 虚々日々》
 
 3.そして、青年期・壮年期・塾年期に、つぎの大作を読みました。
 
 ロマン・ロラン《ジャン・クリストフ 1903-1912 France》
 メルヴィル《白鯨 1851 America》
 エッカーマン《ゲーテとの対話 1836-1848 Germany》
 
 4.さらに、晩年にいたって、ようやく文学に対峙したのです。
 
── そこで利根川教授は、すこぶる興味ある事実を述べた。
「わたしの研究室では、来年の課題を“文学”と決めることもできます」
 これには、作家とノンフィクション作家も、黙りこんでしまった。
 利根川教授は、ノーベル文学賞作家が“化学”というテーマでは小説
を書けないことを、ずばり指摘してしまったのです。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4149869.html​ (No.3)
 理系文学待望論 ~ さらば、余りに文系的な文学談義 ~
 
 5.書を捨てて、作家になろう。
 
── 「本を読む人と書く人がいる。私は書くほうだ」
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/B000 …
── コールドウェル/田中 融二・訳《作家となる法 1965 至誠堂新書》
 
 Caldwell, Erskine  19031217 America  19870411 83 /~《Tobacco Road,1941》
 沼田 茂 作家・翻訳 1926‥‥ 東京 小樽 19980512 76 /自殺/籍=田中 融二
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3358924.html (No.3)
 
 6.あなたはなぜ本を読むのか?
 
──「人は、それぞれ《人生》という題名の長編を書いている」あるいは
「誰もが人生という題名の長編を書いている。── シェーファー万年筆」
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4992129.html (No.2)
 
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
櫻桃、さっそく読んでみます。

お礼日時:2010/04/11 08:45

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Q太宰治の「人間失格」の内容は?そして、TBSドラマ「人間失格」との権利関係は?

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Aベストアンサー

題名そのものには「著作権」が発生することはありませんし、内容は
太宰とは全く関係ありません。クレームをつけられる根拠はないんで
すが、トラブってる印象を世間に与えないために妥協したんでしょう。
そもそも太宰って1948年に死んでますから、作品の著作権はすべて消
滅しています。「人間失格」も青空文庫に収録されていますので無料
で読めますよ。

参考URL:http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/card301.html

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先日、太宰治の人間失格を読んでなんとも言えぬ感情を味わいました。
しかし巻末の年表を見て本編以上の衝撃を受けました。
予備知識まったく無く読んだもので太宰作品も教科書で走れメロス、富岳百景の二作しか読んだ事がありませんでした。
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そしてこの小説を書いた直後に太宰治は人妻と心中しています。
そこで質問があります。もちろん皆様自身の考えで結構です。
なぜ太宰治は人生の最後に自分の自伝的な小説を書いたのでしょうか?
また人間失格で主人公は幸せとはいかなくても人生に絶望したり未来が見えないと言った終わり方ではありませんでした。
ではなぜ太宰治は死を選んだのでしょうか?
それとこれも心中の直前に書いた桜桃という小説についても意見をお願いします。
自分は太宰治を数作しか読んでなく、こんな質問をする資格はないかもしれないですがどうか教えてください。

Aベストアンサー

ANo.5様、御立腹ですね。。。でも私個人的に、こういう人も大好きですね、分かりやすいし、御気持ちには親しみ感じるんです。(笑)
まあ私自身もし男性だったら、「なんで、こういう鼻に付くヤツがセンセイセンセイって呼ばれて、そのうえ女にモテんだよ、こんちくしょう!」って思ったかも。(笑)
私個人も元々この作家に対しては好悪両面の印象を持っていました。私の父親が、ちょっとこんな感じの自堕落さを片面に持っていて、子どもの頃から嫌悪していましたし、自分自身に引き付けて共感を感じるところもありましたし。
でも、ずい分前に新聞でだったと思います、太田治子さんだったでしょうか彼女の生前の母上の思い出話のなかで、太宰先生のことを或る関係者に向かって語られたおりのことを述べておられたんですが、やはり相当の勉強家、努力家でいらっしゃったとの由。
そこで考えてみたんです。
「境界性ナントヤラ」か何か知らないが、もしも彼が、こうした屈折した内面を抱えていなかったら、彼の美質として数えられるところの「勉強家」「努力家」という面は、どのようなかたちで結実したのであろうかと。おそらく、こうした独特の作品世界には結び付かなかったであろう。
「勉強家」「努力家」という美質を備えている人は世のなかに、いくらもいる。同様に「屈折した」人も「境界性ナントカ」とやらいう人も、たくさんいる。
しかし、それぞれの質を持っているというだけでは彼独自の作品を産み出す契機とはならなかったに違いない。やはり彼なりの美質と、それとは逆と見做され得る質とが合わさってこその「太宰の世界」なのです。或る意味、彼は自分の「憎むべき」面をも上手に利用し得た人であると言うことができるでしょう。

さて私たちのいかほどが彼のように、自分の相反する両面から成り立った、時を越えて残る作品なり業績を残すことができるでしょうか。
彼は或る意味「やり手」なのです。「『走れメロス』のネタ元エピソード」に見られるように「自堕落さ」さえ武器にした(笑)そして本当に「自堕落」なだけのニンゲンは作品など残すこともできません。

なお「待つ身が辛いかね。待たせる身が辛いかね。」というあたり、やはり「パーソナル ディスオーダー」特有の感覚が窺えるように思います。 自分に対する憐憫の情が強いのでしょう。
ところで私個人は「待たせる身」のほうが或る意味、辛いのじゃないかと思います(笑)
私は太宰作品を読み始めた学生の頃から彼に対しては非常に「演技性の強い人」という印象を持っていました。まさに『道化の華』といったところでしょうか。
たとえば音楽のように突如、旋律が閃いて、それを写しとるといった正統的な?芸術活動とは違って、自らネタを拵え練り上げて作品に仕上げているというやりかたなわけですね。
ですから彼を取り巻いた女性たちは彼に作品の材料を提供した、命を懸けてモデルを務めた、とも言えるわけで(笑)だから彼の作品には死のにおいがプンプンする。死の魅惑にとり付かれていた若い日の私が引き寄せられた大きな理由の一つでしょうか。
もちろん、たいした才能もない者が才子ぶって実際に周囲の者を傷つけてまで何かの作品を作り上げようとしたなら、それは反発必至です。作品としての価値が低いのであるなら、傷を負わされた者にとって何の意義もない負でしかないからです。それは人道的な面においては特にそうなりますが、非難を招くのみでしょう。そこは詰まるところ、その「作品」に対する個々人の評価如何にもよるわけですが、尚且つ評価する側の力量も問われてくるわけですね。

でも、それだけじゃない、彼の作品には、やはりどうしようもなく滑稽味があるんですよ。そこが自分を憐憫してやまぬ、ただのナルシシズムに、どっぷり浸っているだけの凡庸なニンゲンと違うところだとも思うんです。ただ自己憐憫に浸っているだけのナルシストの言い訳だったら、それはタイクツでヘドが出るだけですけれど。
太宰先生の場合は芸術の奴隷にして商売上手、ってとこかな?

参考Urlは、このカテゴリで或るかたからの御紹介により知りましたが、芸術家の浅ましさ執念深さ、どうしようもなさが、よく描きだされていると思います。そして、これは作家の力量が問われるところですが、やはり、この作家の人間観察の辛辣なまでの鋭さ、性格描写の厚みと巧みさとを感じさせると思います。結局この力量がない者が無理くりつくった作品だと底が浅くて滑稽なだけのものしか出来上がらないと思います。

そんなに長い作品ではありませんので一度読んでみてください。

画家のモネが最初の婦人を亡くしたとき、その死の床で、刻々と変容していく彼女の相貌を憑かれたように描き続けたというエピソードを思い起こしました。

参考URL:http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/304_15063.html

ANo.5様、御立腹ですね。。。でも私個人的に、こういう人も大好きですね、分かりやすいし、御気持ちには親しみ感じるんです。(笑)
まあ私自身もし男性だったら、「なんで、こういう鼻に付くヤツがセンセイセンセイって呼ばれて、そのうえ女にモテんだよ、こんちくしょう!」って思ったかも。(笑)
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Q角川文庫の松山ケンイチの限定カバーの人間失格

こんにちは中2のものです。
自分は読書感想文のために人間失格を読んでいたのですが、読み始めてみると難しくて読むのを断念してしまいました。
しかし、角川文庫の松山ケンイチさんの限定カバーの人間失格は小中学生にも読みやすいように文字組みを変えているそうです。
人間失格は途中で読むのは断念してしまいましたが、文字組みを変えているので読みやすいかなと思って読みたいのですが、文字組みを変えていない人間失格を読むのを断念してしまった私でも読みやすいでしょうか?
文字組みを変えた人間失格を読んだ方お教えください。

Aベストアンサー

もう書き終えてしまったかな?と思いながら、私も(既読でしたがネタで 笑)松ケンカバーの『人間失格』を購読しましたので参考までに回答します。

まずは、お尋ねの「文字組の違い」による読みやすさについてですが、

正直、今回の松ケンカバーの『人間失格』を読んで、「特別読みやすい」とは思いませんでした。
変な言い方ですが、「普通」だと思います。まぁ、既読作品でしたので「読みやすさ」を気にすること自体なかったわけですが。

単純に、文字組(や字体・仮名遣い)が「読みやすさ」の目安であるならば、個人的には、小畑健(デスノの人ですね)装画版の『人間失格』(集英社文庫)の方が、読みやすい気がします。
ふりがなは角川の方が細かく付いてるなと思いますが、集英社の方が、漢字遣いが微妙に少ない(例えば「すこぶる」は、角川では「頗る」と漢字表記。集英社はひらがな)し、フォント文字組も集英社の方が見やすい気がします(好みの問題かな)。

というわけで、「文字組が変わった角川文庫だったら読みやすいか」については「普通。あえて言えば集英社がおすすめ」という感じです。


で。
少し疑問に思ったことがあるのでお尋ねします。
質問に、「読み始めてみると難しくて読むのを断念」とありますが、
その理由は、
(1)字体や仮名遣いが「旧」だったから難しくて読めなかった。 のか、
(2)内容が難解で、話の意味が判らなかった(理解できなかった) のどちらだったのでしょうか、

もし最初に読み通せなかった理由が、(1)ではなく(2)だった場合は、文字組は関係ないですよね。

実は、私も初めて『人間失格』を読んだのは中2のときでした。とりあえず読み切ったものの「何これ?」と意味が分からずじまいで、そこから放置すること3年。「はぁ、なるほど」と思って読めたのは、高3の夏でした(そして感想文も書きました)。
なので、読める時期ってあるのだと思います。今おもしろく感じられなく(理解できなく)ても、思い出したように挑戦すると、はっとする時が来る…ような気がします。
今回読めなかった理由が(1)であれば、一度書店で集英社版の『人間失格』をめくってみてください。(2)が理由であるならば、No.2の回答者の方がおっしゃるように何度も読んでみたり、時期を変えて読んでみることをお勧めします。まぁ、感想文を書かれることを考えるとムリにとは言えませんが…。


長くなりましたが、少しでも参考になればと思います。

もう書き終えてしまったかな?と思いながら、私も(既読でしたがネタで 笑)松ケンカバーの『人間失格』を購読しましたので参考までに回答します。

まずは、お尋ねの「文字組の違い」による読みやすさについてですが、

正直、今回の松ケンカバーの『人間失格』を読んで、「特別読みやすい」とは思いませんでした。
変な言い方ですが、「普通」だと思います。まぁ、既読作品でしたので「読みやすさ」を気にすること自体なかったわけですが。

単純に、文字組(や字体・仮名遣い)が「読みやすさ」の目安...続きを読む

Q太宰治 人間失格について

 太宰治の人間失格についてある本に、堀木とヒラメは永遠の悪人として造形された。というようなことが書かれていたのですが、堀木はともかく、ヒラメはどうして悪人なのかよくわかりません。私の読解力不足ですが、よろしければどなたか、見解をお願いします。

Aベストアンサー

> 堀木、ヒラメの、「俗っぽさ」でしょうね。

そうですね。
そうして、この俗っぽさが、太宰の思想にとっての「悪」なんです。お金などは些末なことなんです。

では、視点を変えて、「善」は何なのかを考えてみます。

『駆け込み訴え』はお読みですか。
これはイエス・キリストを裏切ったユダの告白、という体裁で書かれています。一気に語りおろした、という文体で、一気に読めるのですが、なかなか深いものがあります。

ここで描かれるキリストの「正しさ」というのは、非常に立派な、非の打ち所もない、強いものです。ほかの弟子たち、凡庸で、従順で、鈍い、言ってみれば「世間」を象徴するような彼らにとっては、その「正しさ」も、崇める対象でしかありません。

ユダはもうひとりの「葉蔵」です。

イノセントな心のままキリストに近づき、救いを求めます。ところがキリストの「正しさ」はユダに対しては、何の救いともならない。それどころか、逆に、正しく、強いがために、彼のイノセンスを踏みにじる方向で作用します。

ここではキリストが「善」で、ユダが「悪」という、一般的な通念を、太宰はひっくり返しているのです。個人の持つイノセンスを踏みにじるような「正しさ」というのが、真の意味で「善」なんだろうか。むしろ、イノセンスというのは、弱く、脆いもので、そうしたものであるからこそ、まるごと救われなければならないのではないか。

こうした図式は、一貫して、太宰の多くの作品に見て取れます。

『人間失格』のなかにも、「キリスト」は出てきます。

> 検事は四十歳前後の物静かな、(もし自分が美貌だったとしても、それは謂わば邪淫の美貌だったに違いありませんが、その検事の顔は、正しい美貌、とでも言いたいような、聡明な静謐の気配を持っていました)

この検事は、主人公の擬態を見抜きます。
もうひとり、非常に興味深い「竹一」という登場人物が出てくるのですが、彼に関して説明しようとすると大変なことになるので省略しますが、彼も「聖なるもの」、一種のキリストの変奏であるといってよい、とわたしは思っています。

ともかく、ヒラメや堀木が「悪」を象徴するものとして、そうして検事(と逆転した形での竹一)が「善」を象徴するものとして、主人公をはさんだ形で、対極に現れているわけです。
主人公のイノセンスは、「悪」によって傷つけられますが、「善」によっても傷を負う。

繰りかえして言います。この「善」も「悪」も、いわゆる常識的にわたしたちがふだん考える「善」と「悪」とは異なるものです。
常識に照らし合わせて考えただけでは、堀木やヒラメが「悪」であるのなら、主人公はもっと悪いんじゃないか、ということになってしまいます。

主人公が体現しようとしたもの、それは、人間の持つ、純粋な心であり、無垢な心なんです。そうしたものは、何の力も持たない、汚染されやすいものであるがゆえに、主人公はなんとかそれを守ろうとした。
それを汚し、破壊しようとするから「悪」なんです。
そうして、この「悪」の対極にあるはずの「善」によっても、救われない。
主人公をめぐる「善」-「悪」というのは、こういう構造にあると考えるとわかりやすいんじゃないでしょうか。

で、ついでに書いておくと、その主人公に救いの道を開いてくれるのが、彼を丸ごと受け入れようとする女性たちなんですね。

> 堀木、ヒラメの、「俗っぽさ」でしょうね。

そうですね。
そうして、この俗っぽさが、太宰の思想にとっての「悪」なんです。お金などは些末なことなんです。

では、視点を変えて、「善」は何なのかを考えてみます。

『駆け込み訴え』はお読みですか。
これはイエス・キリストを裏切ったユダの告白、という体裁で書かれています。一気に語りおろした、という文体で、一気に読めるのですが、なかなか深いものがあります。

ここで描かれるキリストの「正しさ」というのは、非常に立派な、非の打ち所...続きを読む

Q太宰が「人間失格」をとおして主張したいことは?

読書歴が未だ短い男性です。
太宰治の「人間失格」についてご教示お願いします。
1.太宰は自叙伝とも言われている「人間失格」をとおして、どのようなことを主張したかったのでしょうか?
2.また、「人間失格」を読んだ方は読書後、どのようなことを感じましたか?
以上、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

「人間失格」を中学の頃読んで痛く感動し、その後も太宰に傾倒し、一時は「自分も作家になろう」と思ったものです。

その小説を読んだ直後に感じたのは、「俺とそっくりだ。俺のことを書いてるみたいだ。」

さて、何年か過ぎ大人になって思うのは、「俺のことを書いている」と錯覚させるのは、作家の意図ではなかったのか、そう思わせる作品を書きたかったのではないかと言うことでした。

別のところで太宰は言っています。「面白かったら読めばいい。面白くなければ止めればいい。」

彼は、文学イコールエンタティンメントとしか考えていなかったと思います。「何を主張したかったのか?」小説を高尚な文学と考えるとそんな疑問も湧くでしょうが、ラジオ・テレビ・インターネットのない時代の暇つぶしの道具と考えて大きな違いはないと思っています。「主張がない小説」は面白くないなら、嫌々読んで欲しいとは作者自身考えていません。

思うに、津島修治(太宰治の本名)が現代に生まれていたら、決して作家を志望いなかっただろうと思います。もっと、世の注目を浴びる職業=タレントとか放送作家とか、政治家を志望するだろうと思います。

「人間失格」を中学の頃読んで痛く感動し、その後も太宰に傾倒し、一時は「自分も作家になろう」と思ったものです。

その小説を読んだ直後に感じたのは、「俺とそっくりだ。俺のことを書いてるみたいだ。」

さて、何年か過ぎ大人になって思うのは、「俺のことを書いている」と錯覚させるのは、作家の意図ではなかったのか、そう思わせる作品を書きたかったのではないかと言うことでした。

別のところで太宰は言っています。「面白かったら読めばいい。面白くなければ止めればいい。」

彼は、文学イコ...続きを読む

Q太宰治『人間失格』の擬人法

太宰治『人間失格』に「おい! とんだ、そら豆だ。来い!」という箇所があります。ここで換喩が使われているのはどうしてなんでしょうか?また、どうしてソラマメに擬人法を使っているのでしょうか?

Aベストアンサー

おそらくこういうことを聞いておられるのではないのだろうと思いながら、回答します。
ご質問が典拠があるものでしたら、それを明示してください。

手元にある佐藤信夫『レトリック感覚』を見てみると、換喩に関しては、アンリ・モリエの『詩学とレトリックの辞典』から引用されています。

---p.144からの引用---

換喩とは、「あるひとつの現実Xをあらわす語のかわりに、別の現実Yをあらわす語で代用することばのあやであり、その代用法は、事実上または思考内でYとXを結びつけている近隣性、共存性、相互依存性のきずなにもとづくものである」

-----

つまりものごとのあいだに類似関係を認めたものが「隠喩」であるのに対し、隣接関係を認めたものに対して働く比喩が「換喩」ということです。

この『人間失格』の場合、脈絡は

「腹がへったなあ」という堀木に対し、主人公は「いま、したでヨシ子がそら豆を煮ている」と答えます。ふたりは議論し、やがて腹がへった堀木がそら豆を取りに行く。
そこから堀木の「おい! とんだ、そら豆だ。来い!」という表現が生まれてくる。
つまり「そら豆を煮ているかと思ったら、とんでもないことになっていたぞ」という意味がこの言葉にあらわれているわけです。

ここにおける換喩は、まず「そら豆」という一語で「そら豆を煮ている」という行為全体を現わしている、というものがあるでしょう。

さらにここではもうひとつ、換喩には「原因と結果の隣接性」という関係を見て取ることができるでしょう。
「そら豆を取りに行った」→「とんでもない光景を見てしまった」
これは「そら豆」と「とんでもない光景」の類似による隠喩的な関係ではなく、原因と結果という隣接的関係である換喩のはたらきと見ることができます。


また「擬人法」(活喩)というのは、換喩の系列に属するものではなく、隠喩の系列に属するものとされます。

・「村は寝静まっていた」

という表現は、換喩ですが、ここでは「村」を擬人化しているわけではなく、その村の家々とそこに住む人々を指しているわけです。それを「村」という一語で示すことによって、村全体がしずまりかえった様をあらわしている。その表現と
・「ラジオが語りかけた」
のように、「ラジオ」を擬人化している表現のちがいがおわかりでしょうか。

ここでの「そら豆」は、「そら豆」を人間に喩えているわけではないと思うのですが。
もし回答がずれていたら、補足要求で。
その際、この箇所が擬人法であるというなら、その典拠をお願いします。

おそらくこういうことを聞いておられるのではないのだろうと思いながら、回答します。
ご質問が典拠があるものでしたら、それを明示してください。

手元にある佐藤信夫『レトリック感覚』を見てみると、換喩に関しては、アンリ・モリエの『詩学とレトリックの辞典』から引用されています。

---p.144からの引用---

換喩とは、「あるひとつの現実Xをあらわす語のかわりに、別の現実Yをあらわす語で代用することばのあやであり、その代用法は、事実上または思考内でYとXを結びつけている近隣性、共存...続きを読む

Q生活保護者は人間失格だと思います?

生活保護者は人間失格だと思います?

Aベストアンサー

少なくとも不正受給者に関しては人間失格です。
この教えてgooにも、生活保護受給していると開き直っている者がいるが、
そう言う者も含めていいだろう。

Q太宰治の『人間失格』における、フィクションの要素

以前からこのカテゴリーにおける太宰治に関する質問を読んでいたのですが、意見として『人間失格』は遺書代わりの作品ではなく、死んでしまったのは境界性人格障害による自殺未遂の繰り返しで不意に死んでしまったというのがありました。

明らかな自伝ならば、内容は「自伝」ということで片付くと思うのですが、そうでないならばこの作品は一体何を描こうとしているのでしょうか?
現に主人公の葉蔵は薬物中毒や自殺未遂、生い立ちなど太宰自身に依存していると思うのですが、彼自身の生涯とは違ったフィクションの部分もありますよね?

ぼくがこの場をお借りしてお伺いしたいのは、具体的なフィクションの部分がどこかということと、この作品で何を描いたかということです。

僕自身いま中学3年のもので、繰り返し読んで考えてみたのですがいまいちわからず・・・。
ご回答のほうどうかよろしくお願いします。長文失礼いたしました。

Aベストアンサー

自伝はドキュメントであり
小説はフィクションです。
私小説は小説に含まれます。
小説は娯楽読物であり遺書の代わりではありえません。

「具体的なフィクションの部分がどこか」
基本的にフィクションですよ。
そもそも、小説にとって作者本人がどんな人間かは
どうでもよいのです。そんなの楽屋話であって、
舞台裏を知らなければ理解できない作品なんておかしいでしょう。
作品はそれ自体独立しているからです。
読解力のない人が裏話にこだわってわかったようなことを
言うんですよ。

「この作品で何を描いたか」
そういう雰囲気が好きな読者が読んでる最中楽しくなるように、
というコンセプトで構成した作品であり、
何かを描くことを目的としたものではありません。
あなたに作品が理解できないのは単に好みが合わないだけで、
劣っているわけではありません。


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