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結局人生ってなんなんでしょう。人が生きるって?(多数のご意見お願いします)

本っ当に訳わからなくなりました。

例えばこのような例があるとして(実話だったりしますが)

人物A:とにかく自分に利益をもたらさない人間には非情。自分(だけ)を守るためならどんな卑怯で冷酷な手段もいとわない(そうさせた相手が悪いと開き直る)自分に無関係な人間に親切にすることは有り得ない。自分に有益だと思う相手に対してのみいい顔をする。嘘つき放題だが自分は立派なクリスチャンだと思っている(クリスチャンは嘘を付かないと当人から聞いた気がする)

人物B:とにかく男女問わず誰にでも親切。親切だと思ってやっているというより、そうしたくなる性分だと思う。その分たくさんの人から慕われているが実際当人が困ったことに見舞われても、当人が他人に助けを求めるのを好まないこともあり、どんな苦労も自分だけで背負い込む。その癖他人の相談ごとにはものすごく親身になって心配する。神を信じていないときっぱり言うが(無宗教)とてもクリスチャンに近い物の考え方をする。

前者は何でもいつでも自分の思ったとおりにしたいようにし、困ればすぐに誰かを頼り邪魔な人間を無下に扱い、ごり押しでも結局自分の思い通りにことが進む。

後者は自分のしたいことも思うように出来ず、常に苦労を背負い込み放題。それでもたとえ通りすがりの人であろうと常に親切。

傍目から見ると、どう考えても理不尽に思えるのですが、どうしてこうなっちゃうのですか?宗教って、道徳って結局無意味だと思わざるを得ないのですが。

カルマ?前世?
そんなのがあるかないか、今議論したって始まらないです、結局わからないんだから。前世で行いがよかった(として)人は、どう不道徳したって前世で悪い行いをした(かもしれない)人よりいいってことですか?
死んだら地獄へ行くとか天国へいくとか、じゃあ現世で生きているのは死んだ後のためだけですか?だったらちょっといいことをして、さっさと死んだ方が楽でいいじゃないですか。長く生きれば生きるほど汚れていきそうだし、地獄行きになる確率は増える一方。それとも試されてるってことでしょうか?じゃあ人生って結局テストですか?結果は死後待ち?

もうなんかぜんっぜんわかりません。
何を信じて、何のために生きていくのか。
ほんと、人って何のために生きてるんでしょうね。つらくて不安なことのない人なんて、どんなに恵まれていたっていないでしょう。なんで死ぬまでずっとそうなのに、それでも生きていようとするんでしょう? 頑張った分報われるとも限らないし、むしろ報われなかったり自分の努力じゃどうしようもないことであっさり不幸になったり、それまでの苦労が水の泡になったりするのに。不思議です。なんで、皆生きてられるのか。

結局人間も動物の一種で弱肉強食のセオリーで生きて行かなきゃなんないんだよ。っていうのも余りにも悲しすぎます。人としてよく生きるってじゃあ結局たわごとだということでしょうか。私自身立派な人間にはほど遠いけど、でも、どんな卑怯な手を使ってでも生きたもん勝ちって、そんな人生を生きて結局死んで、だからそれでどうだったわけ?って思うんですけど。いやそれよりそもそも大脳皮質なんていらなくて、動物の本能だけで生きてた方が幸せだったんじゃないかと。それが、悲しいかな人間は余計なことを考える能力を与えられてしまって、それで弱肉強食じゃ余りにも哀しすぎるから、宗教や道徳があって、でも結局それらを無視して生きてる人でも、いやその方が幸せになれて?

頭の中がクエスションマークでいっぱいです。
カテが正しくないかもしれないけど、倫理とか哲学とか宗教論とかの範疇でなくって、ごく日常的なこととして、このことをどう解釈していいのか、お考え聞かせて下さい。

混乱してるので、わかりにくい文章ですみません。
宜しくお願いします。

A 回答 (12件中1~10件)

少なくとも、私にとっては人生に意味はありません。

意味があると強く思っている人に怒られそうですが…。

昔の人はいろいろなことを言ってきました。
「三千年を解く術をもたない者は
 闇の中、未熟なままに
 その日その日を生きる」とか

ただ、幸せとか理由とか意味とか考え出すと私も訳がわからなくなってきます。
でも、考えたり悩んだり、悲しくなったり楽しい時間を過ごしたり・・・できます。

生きていたくなくても、生きています。矛盾してますが、現実ですね。

受け入れ難い現実が日々、目の前に広がっています。

今から死ぬまでに如何に、この現実を少しでも受け入れられんの?と思い、私は生きています。

あ、前世とか、死後とかないですよ。少なくとも今は。

そして、人生とは消費です。
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この回答へのお礼

ご回答どうもありがとうございます。

たくさんの格言をありがとうございました(babafoo10様のお言葉も含めて)

>「三千年を解く術をもたない者は~

そのくらい困難なことなんですね、生きる意味を見つけるということは。
人生の答えを出すには人生は短すぎるって・・・。
なんか非道い(苦笑)

>でも、考えたり悩んだり、悲しくなったり楽しい時間を過ごしたり・・・できます。

>生きていたくなくても、生きています。矛盾してますが、現実ですね。

>受け入れ難い現実が日々、目の前に広がっています。

>今から死ぬまでに如何に、この現実を少しでも受け入れられんの?と思い、私は生きています。

すべて格言のように聞こえます。
なんだか悟りを聴いたようです。お釈迦様もbabafoo10様のような方ではなかったのではないかとさえ思います(本気で)

>そして、人生とは消費です。

なんだかこの一言が全てを語っているような気がします。
一年一日一時間一秒・・・私たちは刻々と自分の持ち時間を使い続けているのですよね。
体の細胞はどんどん生まれ変わり、でもいつか必ず細胞分裂をやめる日が来ます。
一瞬たりとも時間も自分も以前のままでいることはありえない。

わかっていることなんだけど、なぜかそれを認識する機会があまりにも少ない気がします。なぜなんでしょう、その事実に面と向かうことが怖いのかな。

>少なくとも、私にとっては人生に意味はありません。

その言葉の裏にとても深いお考えが感じられました。

なんだか変な例えなんですけど、babafoo10様のご回答を戴いて、
自分が汗だくで汗をぬぐうためのティッシュをバッグの中を引っ掻き回して必死に探しているとき、通りすがりの人にポンと、とても綺麗なコットンガーゼのハンカチを差し出されたみたいな、そんな気分を味わいました(わけわかんないですね;)

どうもありがとうございました。

お礼日時:2010/07/04 20:09

paniiick様こんにちは。



 たまたま私も同じ問いを日々考えており、まだ質問を締め切っていないようでしたので失礼させていただきます。

 すこし乱暴ないいかたですが、私は人生に意味はないと考えています。この世の様々な事柄に意味などあるでしょうか。理由など所詮は考えることを知った人間の後付けであると思います。

 人間も地球に生きる動物の一種にすぎません。 生まれて、死ぬ。 そのやむことのないサイクルの中に存在しているだけです。

 人生になにかしら意味をつけるならそれは「種の保存」です。人に理性や思考があるのも「種の保存」過程における進化、より良い種を残し続けてきた結果ではないでしょうか。


 人間の行動のおおよそは本能に支配されています。生きて種を残すことにです。生きるためには食べなければなりませんし、安定した食糧確保のために集団をつくり 分業社会をつくりあげてきました。他の動物と何も変わりません。規模の違いです。今も国家という集団同士でエネルギー確保のために躍起になって争っています。人間はライオンがまだ生きてているシマウマの肉を食べる様子を残酷だと騒ぎますが、このような動物のほうが生命維持の必要量を知っている分 私は理性的だと思っています。

 そして規模の大きな集団には支配が必要です。宗教が各地で自然発生するのは人間が集団で生きる知恵のようなものではないでしょうか。

 存在する社会の規模がが大きいほど、本来人間が持つ本脳からくる欲求を抑えなければいけません。たとえば雌はより良い遺伝子を残すため 強い雄を求めます。一人の男前で社会的地位もあり性格もいい男性と結婚したい=種を残したいと考える女性の欲求を満たすと いわゆるハーレムができあがります。良い種を残すためにはよいのですが、社会としては不平等です。先進国と呼ばれる国が一夫一婦制なのも本能による競争を和らげ かつ男性一人の持つ生産性を高めるためかと思います。

 社会が本能を抑え込んで成り立っているという例をあげるときりがないのでここでやめますが、無意識の抑圧を長年にわたって続けてきた人間の脳が「より理性的に生きること」を人間にインプットしたのでしょう。

 文章にするとあまりに味気ないですね・・・

 今私たちの目の前にある現実。「それは人間として生きている」ことです。

 質問文のAさんは欲求に素直に生きていて、それが人間の作り上げた現代の社会的道徳からみると見苦しいのです。大昔なら自分の生産エネルギーを利益にならない人間(家族や生産共同体)に注ぐのは 自分の生を脅かしかねませんからね(縄文時代などの生活を想像してみてください・・)

 Bさんはより理性的で現代的な方だと思います。万人の助けになることで欲求が満たされているのではないのでしょうか。今の日本では生命を維持していくためのエネルギーは少なくてすみますから、他に注ぐことも欲求のひとつになり得るのかもしれません。


 最後に人間が本能的に恐れる闇と同じように、死も恐怖の対象です。本能にとっては最大の恐怖かもしれません。ですから自分の存在が消えてなくなる不安を解消したいために天国やカルマ輪廻転生の思想などの「死のその先」を創りあげ、それが支持されるのでしょう。
 
 今みえるすべてを受け入れるのは難しいですし そんな必要もありませんから、弱肉強食のセオリー=悲しい と悲観的にならず、長い営みの中で誕生した生命の奇跡を感じつつ楽しく生きましょう。

 最後まで読んでくださった方、私の非常に個人的でつたない文章にお付き合いいただき感謝します。
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この回答へのお礼

kurimahama様、ご回答下さりどうもありがとうございました。
お礼が遅くなり申し訳ありません。

いつも質問をさせて頂くときは大抵すぐに締め切るのですが、この質問だけはもっといろいろな意見を聴いてみたいと思い、締め切るのをためらっていました。とはいえ、もう回答は来ないだろうと半ば思っていたので、新しいご回答を戴けて本当に嬉しいです。

人間は本来動物の一部であり、その生存本能に基づいて進化しつつ、自らが作った社会制度と本来持つ欲求との調整ために法を作り、またその他の本能と折り合いをつけるため宗教的思想を後付した・・・とかなり乱暴ではありますが、このように解釈致しました。

本当におっしゃるとおりですね・・・。こう考えてまうと確かに全て辻褄が合います。

ライオンとシマウマのお話ですが、私も同感です。満腹なライオンは例えどんなにおいしそうなシマウマが目の前を通り過ぎても襲おうとはしません。人間でだけです、もっともっとと言ってむやみに欲しがるのは。本能というより、もう本能も壊れて暴走してるのでは、と思うときがあります。

人物A、人物B共に自らの欲求に従っているだけであり、ただ人間が後付した道徳観に照らし合わせてどう見えるかが違うだけ、ということなのですね。一般的な見方をしたら人物Aは狡猾で(ずる)賢く現代社会を上手く生きている、となり、人物Bは不器用で要領が悪く損な生き方をしている、となりそうですが、それも結局は人間の勝手な感傷に過ぎないのだなあと思うと、妙に納得してしまいます。

>弱肉強食のセオリー=悲しい と悲観的にならず、長い営みの中で誕生した生命の奇跡を感じつつ楽しく生きましょう。

つい悲観的になってしまっていましたが、こういう捉えかたもあるのですね。本能的に生きる=無情 と思わず、動物として生を全うしているだけ、と思えば、確かにそれは誇りにすら値得ることなのかも知れません。

大変素晴らしいお考えを披露して頂き、新しい視点を得ると共に大変参考になりました。
まだ締め切らずに於いてよかったです。本当にどうもありがとうございました。

お礼日時:2010/07/24 22:25

ビックバンでなぜ宇宙ができたのですか?



と同じ質問をするくらい、意味のない質問です。



ビックバンは起きちゃったのだから。
あなたは生まれちゃったのだからさ。


普通に生きるもよし
くさって生きるもよし
楽しく生きるもよし
非凡に生きるもよし


あなたの人生
赤の他人から「こういう人生をあなたは送りなさい」
とでも言われたいのですか?


want to~に従うこと
have to~は無視です


それがあなたらしく生きるということだと思うのですが
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この回答へのお礼

ご回答どうもありがとうございます。

>あなたは生まれちゃったのだからさ。

なんだかとても納得してしまう言葉ですね。

『have to~』があまりにも多すぎて、『want to~』を考えることすらなかなか出来ずにいます。そういえばいつもいつも『have to~』を優先させてしまっていました。
まるで『have to~』があるうちは『want to~』をしてはいけないみたいに。
そうですね。もっと素直に自分の『want to~』に従えばいいのに。なぜかそれが今とてつもなく難しいことのように感じます。
自分の『want to~』を軽視することなくもっと見つめてみようと思います。
それが、私らしく生きることの第一歩ですね。

余談ですが、『ビックバンで宇宙ができた』という考え方はクリスチャン的考え方に真っ向から対立するらしいです(某クリスチャン談)なぜならクリスチャン的には万物を創ったのは神だから。人間も動物も地球もすべて神様が創って下さったのだから、というのですが、私個人的に疑問なのが、なぜビッグバンを起こした或いは創ったのが神だという考え方にはならないのか、ということなんです。そうすればすべて丸く理屈が収まるのに。ちなみになぜビッグバンが発生したのかは科学的にも解明されてないのだそうです。だから、ほら、やっぱりそれこそ神様のみわざじゃん、とか思うのですけれどねえ。
すみません、『ビックバン』ということばを見てつい連想して話が逸れてしまいました。

ご回答どうもありがとうございました。

お礼日時:2010/07/13 23:13

観覧が遅れましたが、折角なので再度コメント致しました。

(笑)


最後の方のご質問に対しての私なりの見解です。


自殺するのは結局は自殺を選んだ当人の責任ー剣が弱くて剣
の強い人に殺されたのは剣が弱かった人の責任。これはつまり暴力による強者の
支配を容認していると思うのですが、そう解釈していいでしょうか。


>この国が資本主義社会である以上は、全くその通りの社会だと思います。
直接的な暴力は、今の時代ではおっしゃる通りに、過去の時代よりも圧倒的に少なくなっているのが今の日本国だと私も思います、そして、その代わりに間接的な暴力とでも言うのでしょうか?
精神的な暴力とでも言うのでしょうか?
そのどちらにしてみても、人間が動物の1種である以上は、完全に暴力や差別は無くならないと私は感じております。
例えば、過去の時代においても、相手側が凶器を何も持っていないような場合にでも、問答無用で折衝を行っていた時代が長く続いていましたよね?


強者と弱者が同じような社会を作り上げる? 例えば? 共産主義?
それは、過去の歴史においても理想論だけで長く続いた時代はありません。

弱者が強者に変わってしまう、強者が弱者に変わってしまうと、自分の立場でしか物事を見れなくなってしまうのが人間という動物の性質だとも思います。
なぜならば、人間には「欲」があるからだと思うのです。
「欲」をコントロールする為の「知恵」や「法律」だとも思います。


競争の意識を少なくさせて、弱肉強食の社会ではない、もっと理想に近い社会を作ろうとしても?
それは、今の時代でいえば「ゆとり教育」みたいになってしまいます。

人間は、甘やかされて生きていると、その時だけは確かに楽なのですが、現実の社会に出てみたら?
おそらくは、精神的にも負けてしまう人間になる確率が跳ね上がってしまうとも思うのです。

そして、あくまでも私はこの世界、特に先進国と呼ばれている国になればなるほど弱肉強食の間接的な部分での影響は多くなり、避けては通れない社会だとも思います。

相手が剣の達人であったとしても、自分が剣の心得が全く無かったとしても、それでも生きて行く為には戦わざるはおえない場合もあったと思いますよ?
それでは、そのような相手とは、どのように戦えば良いのでしょう?
それを考えるのが「知恵」の部分だと私は思います。

自分の人生なのですから、自分でその答えは探して行かないとなりませんよね?
いかにして、自分が負けない人間になって行くのかをね?

あとは? ヨーロッパ方面の社会みたいに?
国全体が一般国民の指導を大きく取って、それでもって、強者と弱者の「差」を今よりも小さくさせて行く事が仮に出来れば?
この日本も少しは改善された国になって行く可能性もあるとは思います。

国民の意識改革をさせる為には、個人個人のレベルではなくて、国全体でそのような指導を取らなければなりませんから、そのような国にこの日本が将来的なる事に期待をしております。
日本人の団結力は、私はとても強いと感じておりますので・・・。
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この回答へのお礼

またまたお礼を読んで下さってのコメント、ありがとうございます。
あと、すみません。”>”の使い方が私はww555ww様と全く逆になってしまってます。読みづらくて申し訳ありませんが、そのように解釈してやって下さい。


>人間が動物の1種である以上は、完全に暴力や差別は無くならないと私は感じております。

そうですね。人間がもともと動物の一種に過ぎないという事実の前には法律も宗教も理性も完全に人間を拘束(いい意味で)するには無力なのですね・・・。こう考えると残念ですけど、それは既に歴史が証明していることでもありますし、受け入れるしかないのかもしれません。それでも人間はそうできると信じてずっと努力してきたんですよね。せめて努力したことに意義があると思えばまだ救われるかも知れません。


>弱者が強者に変わってしまう、強者が弱者に変わってしまうと、自分の立場でしか物事を見れなくなってしまうのが人間という動物の性質だとも思います。

哀しいことですね。人間は記憶したり学んだりすることが出来るというのに。いえ、人間だけでなく動物だって出来るはずなのですが。「欲」はその能力にさえ、限定を与えてしまうのですね。


>競争の意識を少なくさせて~現実の社会に出てみたら?

うーん、正直「ゆとり教育」というのを知らない世代なので(苦笑)よくわからないのですが、つまり義務教育を受ける年代の段階でのみ競争の意識を少なくさせて、実社会は全く今のままということでしょうか。そして社会に出た後結局もとの社会の仕組みに従わせるなら、それは全く意味をなさないと思います。


>どのように戦えば良いのでしょう?
>それを考えるのが「知恵」の部分だと私は思います。

なるほど、ww555ww様は力+「知恵」をお使いになるのですね。これは新しい見方だと思います。大変参考になります。


>強者と弱者の「差」を今よりも小さくさせて行く事が仮に出来れば?

これは究極の答えだと思います。そうなれば本当にいいですね。そしてそれがなかなか容易に実現出来ないからこそ、今まで宗教や法律などでなんとかカバーしようとしてきたのかもしれません。


>日本人の団結力は、私はとても強いと感じておりますので・・・。

そうなのですか?恥ずかしながら私自身このようなことはあまり聞いたことがないのですが。
私の今までの認識では日本人は《他の人より目立ったことをしたがらない》《他と同じような行動を取りたがる》ことはあっても、団結力が強いとは思ったことないです。というか、日本人としての意識が弱いというか、《自分は○○人なんだ!》という認識を持つことが他国の人に比べて少ないような気がします。
そしてただ無難に流れに身を任せるのが美徳と思っているような。そして稀に強い意志で何かをしようとした個人や集団がいたとしても、どちらかといえば、異端視もしくは傍観されていたような傾向があるように思うのですが。
一般日本人の団結力と言われて思い浮かべたのは、農民一揆ぐらいです(笑)


>この日本も少しは改善された国になって行く可能性もあるとは思います。

本当に。そうなったら素晴らしいと私も思います。


たくさんご意見を聞かせて下さってありがとうございました。
私の狭い認識なりにレスポンスさせて頂きましたが、もし全然間違っていましたら申し訳ないですが指摘してやって頂けると嬉しいです。

再々度のお書き込み、どうもありがとうございました。

お礼日時:2010/07/10 22:47

我々を形づくっている物質に、「目的」はありません。


しかし、その「無目的=エントロピー増大」は淘汰となり、二次的に進化を導きます。
「いや違う!」と主張する事は可能ですが、厳しい生存競争の中で、生き残るために努力しない個体の遺伝子が次世代に伝わり、種の形質となる事はなく、進化は常に「生きる事」を目的とするよう導くのです。

一方、どのような行動も、本質的には任意=意志の充足であり、「意志の充足じゃない」というのも一つの意志として、精神的充足の追及という方向性から逃れることはできません。
そのようにして、生きる事の本質的目的は、人生を通算した充足量の最大化(生理的拡大×欲求の強さ×それを「人生通算での最大」にコントロールする認識力×その達成度×それを把握する認識力)に収束します。

「精神的充足感のため」というのは、刹那的な快楽主義に帰結するのではなく、最大限の大きな目的、最大限の愛と、最大限の認識を兼ね備えたものになるのです(短絡的な快感の帰結は麻薬だが、それが最大充足でないのはご存知の通り)。

であるならば、人が生きるのは、物質的豊かさのためではなく、精神的充足感のためであり、人が働くのは、お金をもらうためではなく、助け合い=愛のためです。
生物として、「生きること」が唯一の目的であるが、社会生命=助け合うために集まっているものとしては、働くことが生きること。

しかし今、そうした「他人を助ける」=愛のために働いている人が、どれほどいるでしょう?
人がとらわれているのは、“お金(や、その源泉としての出世)”という虚構の価値であって。
原始共産制の助け合いから、組織が分業化&拡大する上で、人の意識の社会性を発達させずに、お金や権力といった“馬車馬の目の前のニンジン”で、他律的に社会行動をとらせる道をとったのです。

お金は、本来助け合うために集まったはずの社会において、自己チュー的な意識のまま社会行動をとらせるための“矯正具”として発達したものなので(社会生命として生きる事である労働(助け合い)を、お金をもらうために嫌々働く)、当然、自由意志を束縛する機能があります。
本来、社会的生命として助け合うために集まっている人々をして、弱肉強食のジャングルに変える、悪魔のツール。

本来それは、分業=助け合いに於ける“感謝のしるし”であるにもかかわらず、いつの間にか(助け合っているはずの人々と)それを奪い合い、お金をもらうために仕方なく働くようになってしまっているのだ。
(その錯覚の端的な例が、取引きに於いて、役に立つものをもらう=助けられている方ではなく、手あかで汚れた紙切れ(お札)をもらう方が、お礼を言う奇妙)
その結果としての“自己チュー”な意識において、死は絶対的な敗北となり、人生は必ず敗北に尽きるものになってしまう。
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この回答へのお礼

まずお礼が大変遅くなりましたことお詫び致します。

大変深い洞察力に感銘を受けました。
これはきっとpsytex様が常日頃から独自に考え抜かれた真理なのですね。

>~人が生きるのは、物質的豊かさのためではなく、精神的充足感のため

納得します。きっと、本当は誰もそうなのですよね。ただ多分、ほとんどの人は今目の前のものを処理することに精一杯で、それが本当は己の『精神的充足感』のためだということに気付くことすら出来ないでいるように思います。

『お金』に対するお考え方、大変興味深く拝読しました。
そうですね、本来なら物々交換で始まった相互補完を円滑にするための便宜的なものであったはずが、本来の目的を失い、それを得るために他と争うまでになってしまった・・・。
『お金』とは本当は『感謝のしるし』でなければならなかったのですね。そしてそれが交換である以上、お金を受け取る方も、渡す方もどちらも同等であって、お互いに感謝しなければならないはずなのに、なぜか『お金』を受け取る方がより喜びを表さなくてはならなくなった・・・。
このような矛盾を矛盾と気付かず、そうやって『物質的豊かさ』のみで留まってしまった人間はどんどん『精神的充足感』を得辛くなっているのかもしれません。

>死は絶対的な敗北となり、人生は必ず敗北に尽きるものになってしまう。

面白い見解です。確かに、誰もが必ず死んでしまうというのに、なぜか、『死』は他の誰かにのみ起こり得ることであるような言い方、考え方をする人が少なからずいるように思います。まるでようやく自分にそれが起ろうとした時、《ああ自分はなんてツイてないんだ》とでも言うのじゃないかと思ってしまうくらいです。そういう人達はきっと、どう生きるか、より、長く生きる、ことにのみ重点をおいているのでしょう。psytex様のおっしゃり方を借りれば、『精神的充足感』より『物質的豊かさ』に価値を置いているのだと思います。


とても深いお考えで、おっしゃりたいことを全てを完全に把握できたか正直自信はないのですが、今現在私が感じたことを書かせて頂きお礼とさせて頂きました。


本当にどうもありがとうございました。

お礼日時:2010/07/10 21:50

お釈迦様のままで居たかったのですが、追加回答させていただきます(笑)



>悲しいかな人間は余計なことを考える能力を与えられてしまって

私は余計とは思いません。
考える、感じることが人生を生きられる唯一の手段だと思います。
考え、悩み、苦しみ…そして、少し希望が見え隠れするからこそ生きていくのでしょう。

人生の羅針盤は思考の中にあると思います。

弱さも強さも人間が持っているものですね。
人の上に人を作らず。
勝ちも負けもないのに勝ちに価値を付けて、人間の弱さをさらけ出す。

てなことを思いました。

人生とは何か?善悪とは何か?が混在しているようですね。そして、宗教。

私はちょっと違う観点から自分の意見を言わせてもらいます。

私たちは自由な個人にして下さいと誰かにお願いしたわけではありません。
しかし、私たちは自由な個人で在るのです。そして、その自由のために私たちは自分で何もかも決めるように死ぬまで運命づけられています。
ずっと永遠な価値も基準もない。
私たちがどんな決断をするか、どんな選択をするかが、とてつもない重みをもってくる。
人間は自分がしたことの責任から絶対に逃れられない。
仕事だから仕方がないとか、どう生きるべきかは世間の期待に沿うより仕方がないとか、言ってはいられない。
そんなふうにして、人格や個性を失った大衆の一人になってしまう者は自分というモノから逃げて、自分で自分をだまさなくてはならない。
しかし、人間の自由は黙っていない。
私たちに自分自身で何かをするよう真に実存して本物の人生を送るように強いているのだ。

とサルトルという人が言ったそうです。

私は人生や人間、生死についての問いを考えをしている時にこそ私が生きていることを実感しています。


みなさんの回答を読んでいるうちにもっともっと語りたくなりました。
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この回答へのお礼

お礼が大変遅くなりまして申し訳ありません。

わあ、お釈迦様、再度ご登場ありがとうございます(笑)
私にとってはbabafoo10さまはやっぱりまだお釈迦様です。

『余計なこと』
そうですね、私も本当は余計なこととは思いたくないです。こう言ったのは、つまり結局人間も動物の一種であり単に弱肉強食のセオリーで生きていくしかないのなら、もういっそのこと大脳皮質=人間が他の動物と違う部分であり、理性であり思考する部分 なんていらなかったんじゃないかって、自虐的に表現してしまいました。

>人生の羅針盤は思考の中にあると思います。

思考するからそこが人間なんですよね。でも思考しても結局、人間の動物である部分は乗り越えられないのでしょうか・・・。
ところで、そうそう、『羅針盤』です!NO.3の方へのお礼のところでこの言葉が咄嗟に出て来ず、なんだったっけとずっと考えていました。思い出させて下さってどうもありがとうございました。

>人生とは何か?善悪とは何か?が混在しているようですね。そして、宗教。

おっしゃるとおりです。そしてbabafoo10様が指摘して下さるまで、自分でも何がそんなに自分の中で引っかかっているのかよくわかっていませんでした。

>私たちに自分自身で何かをするよう真に実存して本物の人生を送るように強いているのだ。

サルトルという人は名前を聞いたことはあれど、どんな人なのかさっぱり知識がないのですが(恥)もし本当にこの方が言われるように、人格や個性を失わることでしか、或いは自分をだますことでしか生きられない今の世の中であっても、それでも常に何かが本来の自分であるように働きかけてあるのであれば、それならば、やはり思考することが出来る人間というものが少し素晴らしく思えてきます。そして願わくばそれが『良心』と呼ばれるものに近いものだと良いのですが・・・。

>私は人生や人間、生死についての問いを考えをしている時にこそ私が生きていることを実感しています。

素晴らしいことだと思います。そしてきっとbabafoo10様は充実した生を送っていらっしゃるのだと思います。人によっては多忙すぎたり、自分の目の前にあることに精一杯で、『人生や人間、生死について』考えることもなく、或いは忘れてしまって、人生を終える人もいるのではと思います。自分に余裕(金銭的な意味ではなく)があってこそ、出来ることなのだと思います。

>みなさんの回答を読んでいるうちにもっともっと語りたくなりました。

本当に皆さん(babafoo10様も含めて)、とても深いお考えを持ってらっしゃって、お話をうかがわせて頂いて大変嬉しく思っています。
どうぞもっともっと語って下さい(笑)

再度のお書き込みどうもありがとうございました。

お礼日時:2010/07/10 15:14

補足しておきました。



当時はいくらでも簡単に飢えで人は死んで、些細な理由で殺されて、それが当たり前だったんですよね。ただじゃあ、今の時代は違うかというと、そうでもないような。つまり、例え食べ物がそこらで簡単に買えるとしても、金銭的に余裕がないひとは添加物や農薬たっぷりの安い物を買わざるを得ず、それが癌や他の病気にかかりやすくしますし、物理的に人を殺さなくとも、出世争いで他者を蹴落とすなどして蹴落とされた人はどうなったのか、精神的に病んだかもしれないし、収入やポストが落ちて堕落した人生を送らざるを得なくなったかもしれないし、自殺したかもしれない。これもある意味『殺人』或いは『暴力』ではないかと。

>私もその通りだと思います。
人間社会でも資本主義の社会では特に弱肉強食です、ある意味では動物の社会と似ているとも思います、暴力などの具体的な凶暴さではなくて、間接的な弱肉強食の社会とも言えるのかもわかりませんね。

ですが、他人を蹴落とす、精神的な病気になる、自殺をする、それらの事柄は全てが自分自身の行動です、何処が異なるかと言えば、他人の直接的な暴力で命を落とす確率だけは低いと言えるかと思います。

資本主義の国は競争の社会です、他人から蹴落とされる、それに伴い病気になる、自殺をも考えてしまう、ある会社が儲かれば、ある会社は倒産をしてしまう。
それは、この社会に生存をしている以上、避けては通れない道だとも思います。


でも、1つだけ言えるのは、それは誰もが同じだという事です。
仮に、自分自身の健康や生活が安定をしていても、それとは反対に、自分自身の健康や生活に苦しんでいる人達もたくさんの人達が今を共に生きています。

そして、自分自身が健康や生活に苦しんでいたとしても、そうではない人達も存在をしているのです。
今を生きているという意味では、それは、どうあれこうあれ、皆が同じだとも言えますよね?


自分が生きている期間、悪いことをしていると、地獄に落ちるかもわかりませんよ?
来生には、もっと悪い人間になっているのかもわかりませんよ?
死んだら針の上を歩かされるかもわかりませんよ?
だから、今の人生をきちんと真面目に、悪い事はせずに生きて行きましょうね! そのような?
昔の仙人や僧侶と呼ばれていた人達は、やはり、とても賢いと思います!

まともな宗教は、その教えによって、人を駄目にしてしまう教えはほとんどうたわれてはおりません。
そのような意味では、私は無宗教ですが、特別宗教に加わっている人達の事を差別しているわけでもありません、自分がそれで良い考え方が身に付くのであれば?
それも、私は選択の1つだと思います。


とりあえず、明日、道を歩いていてもどこからか鉄砲玉が飛んで来て、撃たれて死なないだけ、私はそれだけでも今は幸せな時代だと感じます・・・。
あとは、人間が精神的にとても弱くなりすぎている社会だとも思います。
他人から蹴落とされても、精神的な病気になった人の負け、自殺を考えてしまう人の負け、自分自身が負けていても誰も助けてなんかはくれませんよね?
でも、それは、誰もが同じことなのです。
だからこそ、どんな事柄が起きたとしても、絶対に負けない気持ちが1番大切だと私は感じております。
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この回答へのお礼

お礼を読んで下さり、また再度書き込んで下さってありがとうございます。

そうですね。確かに今現在の時代に於いて『他人の直接的な暴力で命を落とす確率だけは低』く、自殺をする等の『行為は全てが自分自身の行動』と言えるのですが、これはつまり時代が『現代社会』だからなのだと思います。

つまり、これが昔の時代、例えば人を簡単に剣で殺せる時代だったとします。まず気に入らない、或いは自分の望みの妨げになる人を剣で殺すことによって排除しようとします。または欲しいものを得る又は奪うため、剣による暴力でそれを実行します。もちろんこんなことは現代には通用しません。『人を殺傷することはいけないこと』は道徳上当たり前のことであり、また法的にもそうなっているからです。またレッテルの問題もあるでしょう。

だからといってそれでは現代人が昔の人のような考え方すらしなくなったのかというと、そうではないと私は思います。剣が使えないから他の何か-現代人が使って問題のない物に変わっただけでははいでしょうか。『物理的な殺人、暴力』から『間接的な殺人、暴力』へです。回答者様がおっしゃっているとおりの『間接的な弱肉強食の社会』です。

ですから、昔から伝わる宗教の時代錯誤的な内容では、例えば『人を殺してはいけない』等、そんなの現代人には当たり前でほとんどの現代人は人を実際に殺してはいませんから、その宗教に於いて彼らは皆善人となりうるわけです。ところがこれをもし現代風に解釈してみたらどうでしょう。ほとんどの人は善人になり得るのでしょうか・・・?

そういう意味に於いて、宗教は確かに昔の時代の人々の為に生まれたものかもしれないですが、じゃあ今の時代には必要がないのかというと、結局人間の本質がたかだか数千年で変わらない以上(或いは人間である限り)やはり必要ではないかと思います。ただ、解釈の仕方に問題があるだけで。

そんな昔の人向けの解釈をそのまま真に受けて、人を殺したことがないから自分は善人だと思い込んでいる、そして『間接的な殺人』をどうどうとしている、昔の封建社会となんら変わらない、倫理もへったれもなくもろ弱肉強食のセオリーで生きていながら自分は信心深いと思っている、そんな人間が多い今、これは或いは昔の時代よりタチが悪いのかも知れません。(質問中の人物Aもこれに含まれると思います)

回答者さまがおっしゃっている
>他人から蹴落とされても、精神的な病気になった人の負け、自殺を考えてしまう人の負
>け、自分自身が負けていても誰も助けてなんかはくれませんよね?
>でも、それは、誰もが同じことなのです。

というのは上記の剣の例えで言えば、
殺されないためには、剣術を学んで強くなればいいわけですが、皆が皆同等に剣を扱えたわけではなく、ある恵まれた人はちゃんとした剣の達人から剣術を教わることができるでしょうが、ある人は自力で覚えないといけなかったり、或いは剣を得ることすら出来ないひとだっていたでしょう。そんな不平等の中でも、剣による強者、弱者で全てが決められていたんだと思われます。
生まれた境遇、環境が違う以上、精神力の強さも個人ではどうにもならないこともあると思います。自殺するのは結局は自殺を選んだ当人の責任ー剣が弱くて剣の強い人に殺されたのは剣が弱かった人の責任。これはつまり暴力による強者の支配を容認していると思うのですが、そう解釈していいでしょうか。

ごめんなさい、ちょっときつめな書き方をしてしまいました。

>とりあえず、明日、道を歩いていてもどこからか鉄砲玉が飛んで来て、撃たれて死なない
>だけ、私はそれだけでも今は幸せな時代だと感じます・・・。

こうおっしゃってる回答者さまのとても平和的でほのぼのとしたお人柄がうかがわれて、微笑ましくさえ思います。

>どんな事柄が起きたとしても、絶対に負けない気持ちが1番大切だと私は感じております。

そうですね。こうすることは何より大切だと思います。ただどのように『負けない』のか、それは結局個人の考え方によるのかも知れません。

たくさんのこと一緒に考えて下さって、ご意見をお話して下さって本当にどうもありがとうございました。
もしよかったらまた書き込んで下さいね。

お礼日時:2010/07/08 00:03

人生について問う程無意味な事はないと思います。




こうしたい、あぁなりたいという信念は大切だとは思いますが、決して『生きる為』にそうするのではなく、『どうせ生きるなら楽しく生きたい』というだけの事です。

私は天国や地獄なんてないと思います。死後は『無』。前世も来世もないと思う。

例えば人の物を盗った。なんでいけないか、理由が言えますか?『いけない事はいけない』、それでは納得させられないから、『悪い事をしたら地獄に落ちる、だからいけない』みたいな、脅しとしか思えません。


人は天国に行きたいから良い事をするんじゃありません。死んでから地獄に行きたくないから悪い事をしないのではありません。


また人物Bは『人の為に』生きている訳ではありません。人の為になれる事が『自分の為』なのです。そういうと、偽善者扱いになりますが、責任感の強さは人それぞれで、自分の気持ちを圧し殺す事で人の為になるなら…とそれは自分の納得、満足だと思うんです。

どちらが正しい、どちらが楽しい、なんて考えるより貴方が貴方でいる限り、貴方らしく生きたらいいだけの事なんじゃないかな。


生きる事を問うには、まだまだ貴方も私も若すぎる。自分が死ぬ時にその理由がわかる、それまではどれだけ考えても結果なんて出ない。


私はただ、自分の死に際は笑っていたい。沢山悪い事もしただろう、きっと良い事もできただろう、でも、すべてひっくるめて『こんなに楽しい人生、まだまだ生きていたかったなぁ』、と思えた時、人生はなんだったのかが見えてくるのだと思います。


なぜ生きるか、を考えるよりも、ささやかな幸せの瞬間を探した方が、時間も人生も有意義だと思います。
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この回答へのお礼

お礼が大変遅くなりまして申し訳ありません。

私も実は天国や地獄、前世や来世は信じてないです。というか、あるなしに関わらず結論が出せない以上今考えても無意味だと思っています。いくつかの宗教の中で死後の世界が語られている割りに、死後は『無』と思っている人はけっこう多いのかもしれないですね。

>納得させられないから、『悪い事をしたら地獄に落ちる、だからいけない』みたいな、脅しとしか思えません。

確かにそうかもと思っています。脅し、或いは慰め・・・。今つらくてもきっと死んだ後で報われるから、と今のつらい気持ちを緩和させる。または子供向けのおとぎ話の大人バージョンともとれるかも知れません(物語に戒めを含ませる意に於いて)

>人は天国に行きたいから良い事をするんじゃありません。死んでから地獄に行きたくないから悪い事をしないのではありません。

尤もだと思います。皆が皆、こんなふうに思っていたら、きっと宗教も法律もいらなかったのでしょうね。

>また人物Bは~

そうですね。おっしゃるとおり人物Bは決して善行をしようとか思ってしているわけではないんです。それでもそれはそれで素晴らしいことだと思っています。偽善者といえば、人物Aは正にそれだと思います。

>どちらが正しい、どちらが楽しい、

結局人物Aも人物Bも『自分がしたいように生きる』という意味において、同等だということですね。そうですね・・・。そう考えればそうなのかも知れないです。

>貴方らしく生きたらいいだけの事なんじゃないかな。~
>なぜ生きるか、を考えるよりも、ささやかな幸せの瞬間を探した方が、時間も人生も有意義だと思います。

自分の人生がどうだったかなんて、死ぬときにならないと、或いはもしかしたらその時でさえ答えは出せないのかもしれませんね。ささやかな幸せ・・・ささやか過ぎることならいくらでもあるのですが(笑)いやなことも一杯あってついそっちの方に多めに意識が向いてしまいます(笑)質問の人物Aと人物Bとの比較による疑問も、結局そこから派生したものだったと思います。なんか空しいですよね、こう考えると。ちょっと意識を別の方向に向けてみます。

お礼が遅くなりましたこと重ねてお詫び致します。
どうもありがとうございました。

お礼日時:2010/07/07 22:05

かんがえすぎだなあー。



わたしは単純人間だから、自分の人生や生きる意味なんて
簡単なぐらい。

やりたいことをしたいから、生きる。
明日食べたいものがあるから、生きる。
行って、見たいものがあるから生きる。

自分の信念を曲げず、死ぬ間際に後悔しない生き方。

それだけ。

どんなに卑怯で、楽だなーと思う人がいても
自分は決して、同じことできないわけ。
だってさ、自分がイヤだなーって思うようなこと
自分でやったら自己嫌悪間違いない。
そんな不器用が、自分って理解してるし。

そういう生き方の中で
ああ、人を助けたいって思ったらするし
卑怯な手を使ってまでも・・ってときがあるのであれば
するでしょう。


宗教は100%意味がないとはいいきれないが
使い方を間違っている人が多いと思う。
信じればいい、じゃなくて
どう解釈し、実行に移すかが大事と思っている。
(別に何かの信者なわけじゃないが)
じゃないとただの逃げさね。

この回答への補足

こちらの補足欄をお借りして皆様へ・・・。

皆様、それぞれとても深いお考えの基に大変すばらしいご回答をお寄せ下さいましてありがとうございます。ひとつひとつじっくり考えつつお礼をさせて頂きたいと思いますので、すみませんがレスポンスが遅くなりますことを前もってお詫びさせて頂きます。

本当に皆様、ありがとうございます。
後ほどお礼欄にて個別にお礼を述べさせて頂きます。

補足日時:2010/07/06 21:15
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この回答へのお礼

お礼が随分と遅くなり申し訳ありません。

>自分の信念を曲げず、死ぬ間際に後悔しない生き方。

>それだけ。

それだけって(笑)
『死ぬ間際に後悔しない』ってこれはとてつもなく難しいことだと思います。
私もそうしたいとは思っていたんですが、実際そう思いながら死んでいけるひとなんて本当に少ないだろうなと思いました。それだけ強い意志が必要なんでしょうね、きっと。
こんな風に言うと、また考えすぎーとおっしゃられるかも知れませんが。


>どんなに卑怯で、楽だなーと思う人がいても ~

回答者さまはとても正直でなおかつとても強い方なんでしょうね。
そんな方ばっかりだったらいいのに、とつい思ってしまいます。

>宗教は100%意味がないとはいいきれないが
>使い方を間違っている人が多いと思う。
>信じればいい、じゃなくて
>どう解釈し、実行に移すかが大事と思っている。

正におっしゃられるとおりだと思います。
最初の質問の内容に戻りますが、
人物Aは自分はクリスチャンだと公言し、自分もそう思っている。
が、行動が全く伴っていない。
人物Bは無宗教だと公言しているが、行動している内容はかなりクリスチャン近い。

こういう意味で真のクリスチャンはBではないかと・・・。

だからといって、私はBに、『あなたはクリスチャンよね』とか、『考え方が近いからクリスチャンになれば』と言うつもりもないんです。宗教って人数やなんかで競い合うものじゃないんですから。無理にグループに分けたり、印をつける必要なんてなくて、だからそのままでいいと思うんです。

ただ人物Aはどうなのかなあ、と。クリスチャンと公言することで自分は『善人』というイメージを持たせつつ、或いはそれを利用して平気で人を欺く。嘘をつく、或いは嘘は『言わない』が、言葉巧みに故意に誤解をさせる=これって立派な嘘だと思うのですが、当人には嘘を付いてる自覚がない=自分は何の非もない善良なクリスチャンだと思っている。

卑怯なことをして全く自己嫌悪を感じない、個人的には一番嫌いな例です。
せめて回答者さまのように自己嫌悪を感じて、それを背負いつつそれでもなお卑怯なことをしたいなら、まだその生き方を尊重する気にもなれたと思います。

すみません、お礼の欄なのに個人的な感情が入ってしまいました。

>じゃないとただの逃げさね。

これは私自身とても重く受け止めたい言葉です。
この宗教の考え方に同意=信心だと思っていましたが、行動が伴わなければ、結局は逃げ口上、或いは現実逃避なのですよね。
肝に銘じます。

どうもありがとうございました。
お礼がこんなにも遅くなりましたこと重ねてお詫びいたします。

お礼日時:2010/07/07 00:50

人生人それぞれ、他人に人生の何たるかを求めたって、まとまるわけがありません。


質問の内容を見ていると、自分が生きる道も人の受け売り。幸せの判断も人との比較。

当分に切っても隣のケーキは大きいし、となりの芝生は青い。
自分がどう生きたいのか、どう生きるべきかです。
それも、自分はなにを選択するか・・・それだけです。
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この回答へのお礼

お礼が随分遅くなってしまい申し訳ありません。

>自分が生きる道も人の受け売り。幸せの判断も人との比較。

うーん、そうお思いになりましたか。
鈍くて申し訳ありませんが、どの点がそう思われたのか、具体的に言って頂けませんでしょうか。本当にすみません。

>それも、自分はなにを選択するか・・・それだけです。

そうですね。つまり汚い卑劣なやり方をすることを選ぶのも全然アリということですね。
私が幼稚すぎるんでしょうか。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2010/07/05 22:44

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