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大学の課題で「子どもの考える力」の現状について調べています。

私個人としては、最近、指示待ち、つまり、自分で考えようとしない子どもが増えている(考える力が弱まっている)ように思っているのですが、どう思われますか?

昔の子どもと比べて、今の子どもの思考力について…など、意見や感想をお聞かせください。

また、差し支えなければ、「子どもの考える力」を育てるために取り組んでいることや成功例&失敗例、気を付けていることなど、教えてください。

宜しくお願い致します。

A 回答 (8件)

最近、ある心理学の教授と話していて知ったことがあります。


私が「ゆとりの子(わが子)は、分数が何であるか、まるでわかっていない」
とグチったのですが、教授の言うに、
「ゆとり世代は大学生になっても分数が苦手。うちの学生たちもそうなの」
なのだそうです。

「思考力低下」のひとつのファクターとして「ゆとり教育」のことを書きます。


小学校で分数を教えるとき、
「上と下をひっくりかえす」とか、「上同士、下同士で計算する」とか、
やり方だけを教えてドリルでイヤというほど叩き込みます。
掛け算の時は掛け算だけやる、割り算になったら割り算だけ、
だから計算は速くなったように見えるのですが、
一年くらいたって、割り算と掛け算ごちゃまぜで問題を出すと、
「何算にはどのやりかた」というセットを忘れていて、
結局ちっともできない。
そうなったとき、「分数とは『1』を分割した数(分母)と、断片の数(分子)だ」
という認識がないので、自分で処理できなくなるのです。

驚いたことに、我が娘は中学3年に至り、
連立方程式に入ってから、初めて「ひとつの考え方として」ツルカメ算に出会いました。


あんた、食塩水とか、トンネルと鉄橋とか、花壇のレンガとか、つるかめ算とか、
やったこと、ないの?!
―――そんなもん、知らん!

教える側としては、「理屈がわかる年になれば、カンタンにわかること」だから、
論理的な思考法を、中学に先送りしたのかな?なんて思いました。
(自治体の教育委員会によって、違うのかもしれませんが)

今、子供に数学の「カッコの外し方」を説明しようとすると、
いくら簡単に話しても、ついてこれません。
「面倒な話」と思った瞬間、頭がスルーに切り替えてる感じです。(性格もあります!)

(2×3+6)2(2乗)を説明するのに、

(ジャガイモ×タマネギ+カレー粉)の2乗は、
ジャガイモ2個とタマネギ2個とカレー粉2個、じゃないの!
カッコでくくってあったら、それはもうカレーライスになってるの!
だから、カッコの2乗は、カレーライスの2乗なの!

それで解るからナサケナイ。


これで私にわかったことは2つあります。

1.小学校の4~5年でやった論理的な問題は、
  幼い頭に、確実に論理思考することを訓練していた。
  (オトナになれば簡単にわかる話、というのは、小学校の前段があってのことだった)

2.理解させる前に、何がわかっていないかを先回りしないといけない
  (この場合、カッコとは何であるか(箱とか器とか)が解っていない。
   説明の工夫が必要だ)
  同様に、分数であればおそらく、分母とはどういう状態を指しているか、が解らない。
  そうすると、記号をいじくるだけで、正解を当てればラッキ、となって
  「やり方の記憶」に終始してしまう

ということでした。


もう一つのファクターとして、「何が何でも」という要求がないです。
昔の子は、モノがないから、やりたいことをするには、工夫しなければできなかった。
いろんなものが手に入らないから、「やりたいこと」がハッキリ見えた。
今は、それがダメなら別がある…
結果、「何が何でも」、工夫して手にする必要をあまり感じていない様子。


ご参考になれば。
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半世紀近く昔にこどもだった者ですが、昔も今も「考える力」がある子もいればない子もいて、特に今の子の「考える力」そのものが弱くなったとは思いません。

(指示待ちの子が増えている=「考える力」が弱くなったとは考えません)

大きく変わったのはむしろ子どもを取り巻く環境(社会)が、「考えなくてもすむ」ようになったことだと思います。昔は何か分からないことがあれば、自分で書物などを読んで調べるか他人に尋ねるかしかありませんでしたが、ネット時代の現在ではちょっと検索するだけで様々な知識が得られます。またネットだけでなく、あらゆる分野で「マニュアル」「ガイド」の類がゲームの「攻略本」にいたるまでそろっています。

ただしここで危ういのは、いくらネットを検索して他人が書いていることを閲覧しても、それは自分で考えたことにはならないということだと思います。もっと言えば、他人が書いていることもその人が自分自身で考えたことではなくて、別の人が書いたことをコピーしただけかもしれません。さらにその別の人も…、と考えると「一犬虚に吠ゆれば万犬実を伝う」(一人が虚言を言うと、多くの人々がそれを真実として伝えるというたとえ)おそれも増大していると感じます。

また何でも他人と同じようにしないと安心できない傾向も社会全体に強まりつつあるように感じます。私が就職した入社式の記念写真を見ると背広の色は紺(濃淡もあります)、黒、茶、グレーと様々でしたが、最近の新入社員は黒っぽい色のスーツばかりです。リクルートスーツ信仰(?)が社会人になっても生きつづけているのでしょうけれど、これが子どもの世界にまで広がっているとすれば、少なくとも「考える力」を増す方向ではなく、気になるところです。
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この回答へのお礼

staratrasさん

回答ありがとうございます。

たしかに、「考えなくてすむ」時代になった気がします。
私も考えない大人になってしまわないように、気をつけようと思います。

とても参考になりました、ありがとうございました。

お礼日時:2010/12/07 07:34

私も高校生でまだ子供ですが気になったので…



最近思うのが『先生の言いなり』と『他人の事考えてない』です
かつて先生が『(テストの日)課題を集めている時同時進行で掃除すると効率がいい』とおっしゃっていたのですが正直邪魔極まりない(課題を集めるとき掃除してる人が邪魔になる)
で誰ひとり気付かない どうにかしてる

後『被爆講話のお礼に核兵器に対する考えを書いて』と生徒に言われ
『そんなもの無くなる訳がない』と書いた人に対し
『やり直し』と生徒が書いて返してきたひとがいまました
確かにお礼だから不適ですが偉そうだし大体暗に俺の意見に従え、正しいのは俺みたいな思考回路
やめて欲しいです

こんなところでしょうか 考える力というと
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この回答へのお礼

hk208さん

回答ありがとうございました。

現役高校生も何かしら感じているのですね。

「被爆講話のお礼」が「核兵器に対する考え」というのは、正直、難しい気がします…
「講話を聞いての感想」で良かったのではないかと思いますね。

お礼日時:2010/12/04 10:11

今から10年以上前ですが、私が教育学部で学んでいたころがちょうどゆとり教育ブームでした。


ある講義の中でもゆとり教育の素晴らしさを皆がアホらしく話し合ってました。
私は最後まで理解できず、反対の姿勢を貫き、その単位を落としました…(←何か問題点ズバズバ言ったら「そんなことを話し合う場ではない」って落とされたねん…)
んで、それから自分で塾を立ち上げ塾長やってます。学校教育と違い、詰め込みをさせるのと必要な競争を実らせることが重点ですね…
「昔と比べて考える力が低下したか?」というと、質問が大きすぎて定義のないままのぼんやりとしたものになりますが、勉強面で言うと、10年前・20年前と比べて低下を感じるけれどもさほど変化はしてないと思います。(もちろん国際基準でいう学力はモロに低下していると感じます。)
「考える力」の低下を私たちに感じさせているものは、学校・家庭・地域における教育構造の変化でしょうね。その弊害といえる子どもたちのモラルの低下(親も!)・生活習慣の悪化は年々顕著にあらわれています。(実際ひどいもんですよ…)
ゆとりは休みを増やし、授業時間を減らしただけにとどまり、勉強習い事をしている子どもたちとそうでない子どもたちの学力格差を余計に生み出しました。
その中で子どもたちの主体性・積極性・独創性が学校教育の中で表面化しなくなったことは言えるでしょう。
(本音をぶっちゃけると、そんな主体的思考をもつ子どもは昔も今も40人に1人だよ…)
ただし、昔は「あれっ」と思ったことを深く掘り下げて考える前に次の段階に進まなければならなかったことに対し、今は「あれっ」と思う量と範囲が少なくなりました。だから(不可能に近いが)統計調査とってもさほどの変化は見られないと思います。
子どもたちが自らを「オレたちゆとり世代だしっ」と格付けしてるのをきいてると「感じる」んだけどね…
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この回答へのお礼

jukucyomicさん

回答ありがとうございます。

なかなか子どもの「考える力」についての統計資料が見つからず、困っていました。
実際、塾長という立場から子どもと接しておられるということで、参考になりました。

お礼日時:2010/12/04 11:43

安易な発想かもしれませんが、


子どもの生活を取り巻く環境の条件として、
自分で考える必要性が低いっていうことはないですかね。
考える必要があれば、考えざるを得ないと思うので。
急ぐ必要ないのに急いで行く人って少ないですよね。
こういう、必要かどうかということに左右されるのは、
今も昔も変わらないんではないかと想像します。
簡単ですがもしも考えるヒントになれば・・・
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この回答へのお礼

minumtehさん

回答ありがとうございました。
参考にさせていただきます。

お礼日時:2010/12/04 11:17

昨今の風潮を見ていれば「考えることを放棄した大人」が自分たちが望む世間にしようと「考える力」を子ども達から奪っているように感じます。



例えば私が過去にした質問でスーパーなどの身体障害者用駐車スペースに使われているマークを扱った背景には、私自身が足に障害を持つ障害者でたまたま具合の悪い時にそのスペースに車を停めた所、ベンチに座っていた親子連れと思われる子どもさんの方が「あの人、車椅子に乗っていないのにアソコに車を停めたよ。」すると父親らしき人が「本当だ間違っているね。」と答えているのを耳にしたことが発端でした。

その後、直接ではないにしろ「障害者駐車スペースにチャラチャラした格好の若い女性が車を停めた。ケシカラン。」(障害者はチャラチャラしたファッションを楽しんでは駄目なのか?)、「黒塗りの高級車が障害者スペースに停めた。トンデモナイ。」(障害者は高級車に乗っては駄目なのか?)、「障害者スペースに車を停めて元気そうに歩いていた。ユルセナイ。」(歯を食いしばり『普通』に見せようと障害者が歩いては駄目なのか?)といった想像力が欠如したとしか思えない意見を述べる大人を多く見てきました。

こういう車椅子をモチーフにしたマークを見れば「車椅子使用者だけ優先」と考える大人であれば歩道を示す青い標識を子どもに「カワイイ女の子がいれば手をつないでいい道路」と教えるでしょう。

そして、DQNネームと言って個人の名を笑いものにする流行にいたっては本来は恥じるべき「読書量の少なさ」「無知」「想像力欠如」「知らないものは教えを請うべきとは考えられない自身」を揃え持った側がなぜか『自分達は正しい』と愚かにも思い込んでいます。

世間の大多数である自分たちが作った『普通』や『一般』が全てにおいて正しいと信じ、その枠の外にいる者は否定し、糾弾し社会から排斥しようとする思考でブランド物や高級車、酒、タバコ、ギャンブル等目立っていて叩けば『普通』の人たちから支持される。

そんな大人が作った社会で子どもは何を考える機会があるでしょうか。

タバコを灰皿がある場所で吸う大人、歩きながら吸ってポイ捨てする大人。

両方存在するのが自然な人間社会であると私は考えます。

目立った少数派は叩いてよしと大人たちから学んだ子ども達は大人が口にするDQNネームをクラスで見つければ素直に大人に従ってイジメの標的にします。
それなのにDQNネームという言葉を使って喜んでいる大人の論の中に「そんな名前付けられると子どもがいじめられて可哀相」なんてのが普通にあるのが現在の風潮ですね。
子どもにイジメを推奨しているのが自分だという簡単なことにまで考えが及ばなくなっているのです。

コトはDQNネームだけに留まらず「ランドセルの色が違う」「親が日本人でない」「親が喫煙者なので服がタバコ臭い」こんなところまで親である大人の持つ『生ヌルい』正義を学んだ子どもたちにとっては排斥の的となります。

個人が独自に考えればそれは「少数派」になる危険性を秘めています。
だから考えてはいけない。
マスコミと群れの『常識』に従っておけば安心できる。

街で見かける新車のほとんどがハイブリッドか軽自動車、花見帰りの酔っ払いも競輪新聞読みながら歩道で紫煙を上げている労働者も見かけない、歩いている大人はスーツ姿かしまむら、ユニクロファッションばかり、大人が望んだこの社会で子ども達は「考える力」を奪われたと考える方が自然だと思います。

「考えない子ども」の方が「正しい」大人たちにとって都合がいいですし。(笑)
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この回答へのお礼

cucumber-yさん

回答ありがとうございました。

たしかに大人が原因ではあると思います。

実際、私の身近でも、子どもに質問している内容をその親が先に答えてしまうということがたびたびありました。本来、子どもが自分の言葉で表現すべき機会を、親が奪ってしまっていたのです。

「考えない子ども」の方が大人にとって、扱いやすい(こんな表現するのが正しいのかわかりませんが)。
けれど、その「考えない子ども」が将来の日本を支えていくと思うと、不安で仕方がありません。

お礼日時:2010/12/04 11:01

 一時期、問題となった「ゆとり教育」が、子供の学力低下に繋がってしまったという理由で、来年度の指導要領改定から、見直されることになったそうですが、私は、「ゆとり教育」の失敗の最大の原因は、その意味を履き違えたこと、すなわち「ゆとり教育」を「子供を甘やかす教育」「子供に楽をさせる教育」と解釈してしまったことにあると思います。


 「ゆとり教育」は、本来、一方的に教える事柄を少なくした分、子供たちが、自ら考えなければならない事柄のウエイトを高くする、つまり、子供がある程度苦労する教育でなければならなかったと思っています。
 たとえば、円周率は「3」でも良いと、学校で教えたとします。それに対して子供は「本当に3で良いのだろうか、そもそも円周率て何なのだろうか」という疑問を持ち、それを学校の図書室や、地域の図書館などで調べる。そして、高校や大学では、嫌というほどレポートの提出を求められるが、それをもっと低年齢の、小学生の段階で求めるようにする。それが本当の「ゆとり教育」と思います。
 それを、どう間違えたのか「円周率は3でいいんだ」という教育にしてしまい、子供たちが、それ以上自分で考えることをしなくなった。
 何でも自分で考え、疑問を持ち、そしてそれを自分で調べる。子供のうちから、そうした習慣を身につけておかなければ、大人になってから、大変困ることになります。
 結論として、子供の思考力低下は、「ゆとり教育」の履き違えにあると思います。
 ただ残念なのは、こうした「履き違え」に、大人たちが気づかないままに、元の「詰め込み教育」に戻そうとしている点。これでは、残念なことですが、思考力のある子供、将来、社会が求めているような子供は、育たないと思いました。
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この回答へのお礼

blue5586pさん

回答ありがとうございました。

「ゆとり教育」については私も内容を聞いてビックリした覚えがあります。
現在学生ではありますが、ゆとり教育前の世代であるため、「ゆとり教育」の実情をあまり知りません。
ただ、円周率のこと、電卓使用のこと、授業時間のことなど、私が知っている限りでは、「頭を使わなくなる」というイメージです。

子どもを育てていく大人自身が、考えを改めていかなければならない、そんな気がしました。

お礼日時:2010/12/04 11:16

どう思われるか?との問いに対する答えは持ち合わせていませんが、感じたことがあり書き込ませていただきます。



考えようとする"意思の強弱"についての事、純粋に"思考能力"の事、それぞれ別問題だと思います。
また、立派な思考能力を持った人達でも、考えを表明する事を"臆さない"パーソナリティと、"臆す"パーソナリティと、性格的な違いからも表面に現れる結果は変わるでしょうし。
ひとくくりに結論に導かず、細かく調査できれば、意外な結果が出てくるかもしれません。

子供に対しても、部下に対しても、彼らの成長度合いを知る意味から、また成長させる機会作りの為、よくよく彼らの話は聞いてあげなければいけない、と日ごろから思っています。
が、私も人の子、その時々の感情次第では、ぞんざいな対応になる事も。
で、そのあと一人後悔…。
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この回答へのお礼

jmk-coさん

回答ありがとうございます。

質問が大まか過ぎましたか…
「考える力」の捉え方が多様にあることを気付かせていただきました。

お礼日時:2010/12/04 10:32

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