痔になりやすい生活習慣とは?

僕は変な所を想像してしまいました。
実際水はどこから滴るのでしょう?

教えてください。
よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

国語大辞典(小学館)には「水」の項の小見出しに


「水の滴(したた)るよう…きわだって美しいさまの形容。特に、女性や役者などの美しいさまにいう語。」
「水の垂(た)るよう…・刀剣や具足類などのみずみずしく美しいさまにいう。・人の顔や肌などのみずみずしく美しいさまにいう。」
とありました。思うに、日本刀などの金属的なつややかさが滑らかな水面などを連想させたのではないでしょうか。そこから人の顔にも適用されたのでは?
また、水の滴る「よう」ですから、あくまで形容であり、実際に滴るのではなかろうと思います。
No.5の方の記していらっしゃる柳亭痴楽のギャグは、上記の辞書にあるように、「水も滴るいい」の後には「女・役者」などが来るべきところに、「男(しかも痴楽のあの顔で)」を持ってきたその落差が「客が笑う」ところだったのでは、と想像いたします。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
あやうく、No.1の回答で納得してしまうところでした。

お礼日時:2003/11/07 20:15

結論から言いますと、どこからも滴りません。

(独断です)

古典関係では、「水も滴る(いい男・女)」の用例はないと思います。ということは、比較的新しい用法ではないでしょうか。
意味からすると、「つやつやと美しい」という意のようで、とすると、同じ意味の「瑞々しい(みずみずしい)」があります。

で、私見では「瑞々しい」→「水々しい」→「水も滴る」と変化したと考えます。そしてそれは落語家あたりから発したのでは、と。「瑞々しい」にかけて「水も滴る」と言ったとき、たぶん笑いがとれたのでしょう。

たしか「痴楽綴り方教室」のまくらに、「柳亭痴楽はいい男、水も滴るいい男」(ここで客が笑う)というのがあったと思います。
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もとは


「蜜が滴るいい男」が 水になったようです。

で 蜜は 甘いマスクから 滴るようです。

参考URL:http://www.beyond-boundaries.info/Faq/0003.html
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この回答へのお礼

顔に蜜を塗ってたんですね!すごいですね!

お礼日時:2003/09/02 13:35

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Q水もしたたるいい男、女って

水もしたたるいい男、女っていう意味を教えてください。
語源は何から来ているのですか?
なぜ、「水もしたたる」なんですか?

Aベストアンサー

日本人の美学の問題だと思いますが、生活慣習の変化によって、現代人には理解しがたい表現がたくさんあります。(緑の黒髪・・つやのある美しい黒髪、はそのひとつ)

昔の人は「水もしたたる美男美女」に実感があり、ため息をついたのでしょうが、現代の我々は広辞苑を引いたり、教えてgooに質問したりする無味乾燥の言葉になっているわけです。

水は人間にとって常に身近にありながら貴重なものなので、水を使った表現は数多くありますね。水くさい、水もの、水をあける、水に流す、水をさす等。これらの表現は第一義(文字通りの意味)とは別に第二義がありますが、辞書を引かなければ分からない世代が増えていると考えられます。

Q【雨もしたたるいい女の意味】

慣用句でしょうか。雨もしたたるいい女という言葉を聞きました。
雨がしたたるの意味もよくわからないし、したたったところでなぜいい女なのかもわかりません。
ご存知の方がいらっしゃいましたら教えて頂けるとありがたいです。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

雨っすか。水じゃなくて?
「水も滴る」だったら、「瑞々しく魅力にあふれている様」だけっども。

Q『水も滴るいい男(女)』の『も』

気になりだしてから、頭から離れません。
下らない内容ですが教えて下さい。

美男美女(艶々しい人)に対し使われる、『水も滴るいい男(女)』という慣用句について。

『水も』というのは、他に何か滴るんでしょうか?

水でさえという意味であれば、『(何かに対し)水は滴らない』という対の常識や認識又は慣用句が存在するかしたんでしょうか??

でなければ『も』に意味はなく、『蜜が滴る~』が『水も滴る~』と単純に変わっただけでしょうか?

Aベストアンサー

「水の滴(したた)る」なら、生き生きした花のように、本来は顔(かんばせ)が瑞々(みずみず)しくも際立って美しい女性や役者、また前髪の美少年を形容する言葉でしょう。
ところが、「水も滴る好い男」となると、同類の言い方ですが「も」の付く分だけ強調が加わり、だからこそ逆に皮肉のトーンが混じりだし、それを役者や美少年以外の、その程度の「男」に用いることで、一層嫌味やまぜっ返しの意味が強めらられるでしょう。

強調と詠嘆の係助詞「も」は、確かに類似の物事を提示するのが特徴ですが、「夜も更けた」など同類の暗示や背景を持たないで用いる場合にはそれと明確にしない含みを持たせた婉曲表現になります。更にそれを以て、「猿も木から落ちる」「紙も神も見放した」といった、代表的な事柄を仮に示す用法があります。しかし、この例のように大抵は極端な提示に走っての強調を、延いては皮肉や当てこすりを表わす用法になりかねません。
「…でさえ」といった用法としては「水も漏らさぬ警戒ぶり」などがあります。

「どうでエー、俺様の利休鼠のこの着こなし。水の滴る艶姿ってエもんだぜ。」
「おきやがれ。なんでエ、水も滴る溝(どぶ)鼠ってざまじゃアねいか。水どころか汗が滴ってるだけだアね。」

「水の滴(したた)る」なら、生き生きした花のように、本来は顔(かんばせ)が瑞々(みずみず)しくも際立って美しい女性や役者、また前髪の美少年を形容する言葉でしょう。
ところが、「水も滴る好い男」となると、同類の言い方ですが「も」の付く分だけ強調が加わり、だからこそ逆に皮肉のトーンが混じりだし、それを役者や美少年以外の、その程度の「男」に用いることで、一層嫌味やまぜっ返しの意味が強めらられるでしょう。

強調と詠嘆の係助詞「も」は、確かに類似の物事を提示するのが特徴ですが、「夜も更け...続きを読む

Q目処(めど)と目途(もくと)

目処と目途の使い分けについて教えてください。
送り仮名に違いがありますか。
PC辞書で「めど」の変換を探すと目途が入っているのもありますね。
これは明らかに誤用ですよね。

Aベストアンサー

めどはやまと言葉ではないでしょうか。もしそうなら漢字は当て字であり、どちらが正しいというものでもなく、世間で一般的にどう使い分けされているかということに過ぎないと思います。

広辞苑ではめど(目処)もくと(目途)と分けて記載されているだけで説明がなく
不親切です。朝日新聞社の漢字用語辞典では、めど(目処、目途)とあり、私のPCでも、めどで両方が転換できます。

解決のめどがつくとか、目標達成のめどが立ったなどと使われるので、
ものごとがその完成、実現にちかずいたということを意味し、目標とは若干ニュアンスが異なると思います。目標は高くとは言いますが、目途(目処)は高くとはいいませんね(この部分は蛇足です)

Q「充分」と「十分」の使い分け教えてください

題名のとおりですが、どう使い分けるのか知りたいです。

たとえば、「私はじゅうぶん満足した」のときは、十分でいいんですよね???

どちらをどう使い分けるのか教えてください。

Aベストアンサー

そもそも【十分】と【充分】は別のことばです。

国語辞典では「十分」も「充分」も同じこと、を踏まえてのご質問と見うけます。
私は、事務的文書では「十分」に一本化していますが、私的文章では、両者を使い分けています。情緒的な差という人もいますが、語の本来の意味は異なります。
☆「十分」「充分」の意味が混同される原因は(推測です)、
 ・漢字本来の発音の違いが日本語では区別し難いため、便法で漢字音を決めた。
 ・旧かな遣いの時期は区別がし易かったが、新かな遣いになり混同を助長。
 ・漢字の学習の底が浅く安易になった、即ち本来の意味に注意を払わない。
☆この二つの文字の違いは何か?
【十】:1・2・・・・・・と来て数が満ちる。
  原意:古代に枝や縄の結節で数字を示した方法の延長が現在の字形。
     九が数の窮まった値として縁起よく、重視されてきた。
     更に9+1は十分大きい ⇒ 数が足りている状態。 
  ☆数詞、段階を踏むデジタルな思想です。
【充】:満ちる、満たす、余すところなく、担当する、埋める。
  原意:長い、高い から 成長した大人、肥満、肥大、振る舞う、 
     などを意味するようになり、現在に至っています ⇒ 充ちる(満ちる)。
  ☆基本は動詞、切れ目なく満ちる、満たす、果たす、アナログ的思想です。
【分】:実は、発音も意味も一意でないのです。
  【十分】の発音はshi2fen1   【分】fen1の意味は 部分、分割したもの など。
  【十分】の発音はchong1fen4 【分】fen4の意味は 成分、本分、職責 など。 

さて、お尋ねのこと「私はじゅうぶん満足した」はどう書くか。
 ・単純に量的に満たされたならば【十分】。
 ・心または腹が充足感を以って(徐々に内部から)満たされた場合は【充分】。
    としたいところです。
  
【充】については以下の用法で感覚をつかんで下さい。
 充電・充填・充足・充実・充溢・充血・充ちる(潮が、悪意に、月が、刑期がetc)
ついでに、
  「十分ご説明をいただいて、充分満足いたしました」のごとき用法も。

いまや、【十分】【充分】を使い分けるか否かは個人の好みです、読む人の感性に合わなければそれまでのこと、自己満足の域を出ません。いずれにせよ、公式文書や事務的文書では、好悪を捨てて、国語辞典を標準とするに越したことはありません。

そもそも【十分】と【充分】は別のことばです。

国語辞典では「十分」も「充分」も同じこと、を踏まえてのご質問と見うけます。
私は、事務的文書では「十分」に一本化していますが、私的文章では、両者を使い分けています。情緒的な差という人もいますが、語の本来の意味は異なります。
☆「十分」「充分」の意味が混同される原因は(推測です)、
 ・漢字本来の発音の違いが日本語では区別し難いため、便法で漢字音を決めた。
 ・旧かな遣いの時期は区別がし易かったが、新かな遣いになり混同を助長。
...続きを読む

Q「わかりづらい」  と  「わかりずらい」

「わかりづらい」  と  「わかりずらい」
漢字にすると(判り辛い、解り辛い)なのかと思います。

「わかりづらい」が正しいとおもって使っていたのですが、
最近「わかりずらい」もよく目にします。

二者択一だったら皆様はどちらを使うべきですか?

アドバイスを頂きたいと思います。

Aベストアンサー

goo 辞書より

づら・い 【▽辛い】
(接尾)
〔形容詞型活用([文]ク づら・し)〕動詞の連用形に付いて、その動作をすることに困難を感ずる意を表す。…にくい。
「老眼で辞書が見―・い」「読み―・い本」「無愛想で話し―・い」
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%A4%C5%A4%E9%A4%A4&jn.x=24&jn.y=14&kind=jn&mode=0

ずらい
検索結果に該当するものが見当たりません。
キーワードを変更して再度検索をしてみてください。
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%A4%BA%A4%E9%A4%A4&jn.x=29&jn.y=11&kind=jn&mode=0

私は辛い(つらい)→づらい、と考えて「づらい」を使っています。

参考URL:http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%A4%C5%A4%E9%A4%A4&jn.x=24&jn.y=14&kind=jn&mode=0

goo 辞書より

づら・い 【▽辛い】
(接尾)
〔形容詞型活用([文]ク づら・し)〕動詞の連用形に付いて、その動作をすることに困難を感ずる意を表す。…にくい。
「老眼で辞書が見―・い」「読み―・い本」「無愛想で話し―・い」
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%A4%C5%A4%E9%A4%A4&jn.x=24&jn.y=14&kind=jn&mode=0

ずらい
検索結果に該当するものが見当たりません。
キーワードを変更して再度検索をしてみてください。
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%A4%BA%A4%E9%A4%A4&jn...続きを読む

Q「ご連絡いたします」は敬語として正しい?

連絡するのは、自分なのだから、「ご」を付けるのは
おかしいのではないか、と思うのですが。
「ご連絡いたします。」「ご報告します。」
ていうのは正しい敬語なのでしょうか?

Aベストアンサー

「お(ご)~する(いたす)」は、自分側の動作をへりくだる謙譲語です。
「ご連絡致します」も「ご報告致します」も、正しいです。

文法上は参考URLをご覧ください。

参考URL:http://www.nihongokyoshi.co.jp/manbou_data/a5524170.html

Q「~してはる」は敬語?それとも京都弁?

以前、友達と話をしていて少しバトルになった話です。
大阪ッ子の主張は(私もですが)「~してはる」は敬語なので
例えば、「先生が作りはってん。」みたいに話してます。
けど、京都ッ子は「お父さんが作らはってん。」と言うんです。
私からすると身内に尊敬語をつかってるようで、
すごい違和感を感じるんですが、
私だけではなく大阪の友達は敬語だと言う人は多いです。実際どうなんですか?
私のなかで「~はる」をつけるときはかなり尊敬語なんですが・・・
他にも「髪の毛が伸びはんねん。」と言う人もいました。おかしくないですか?
これが京都弁なんでしょうか?

Aベストアンサー

 「~はる」という表現方法は大阪、京都でともに敬意を表す尊敬表現として使われているようです。ただ、両者の間には使用法における若干のニュアンスの違いのようなものがあるようです。
 大阪では「~はる」は基本的に尊敬表現であり、相手への敬意を示す最も一般的な言い方です。
 一方、京都でも「~はる」は基本的に尊敬表現ではありますが、その使われ方が大阪に比べるとやや複雑なようです。京都で最も敬意の程度が高いとされている表現方法は、現実に日常生活の中で使うか使わないかは別としても、「おいでやす」、「おくれやす」などに見られる「お~やす」で、これは純粋に相手への敬意を表した尊敬表現です。「~はる」は「お~やす」に比べると敬意度が低く、また、京都では自分の側、つまり自分の身内に対して「~はる」を付ける言い方も存在し、この場合はその身内に対して敬意を表していると言うよりも、話し手が聞き手に対して自分とその身内との親密さ、親近感を伝えている表現という方が適切なようです。ただ、話している本人としてはあまりそういったことを意識せずに使っている場合が多いようです。また、tawdaさんがおっしゃっているように第3者に関することを話し手が聞き手に意見を求めているような場合に使われる「~はる」は、やや皮肉混じりの意味合いで使われることが多いようです。また、人間以外の物や動物などに使われることもあり、その場合も話し手が聞き手に対してその物への愛着を示したり、あるいは意見を求める、その物への注意を促す時などに使われるようです。
 このことは恐らく大阪と京都が歩んできたそれぞれの歴史や文化の成立過程の差で現れてきた違いだろうと思います。大阪と京都のことばに共通していることは、相手に対する「気配り」の表現方法が豊富であり、全体的にYES、NOをはっきりさせるような言い方を好まず、曖昧にぼかしたり、単刀直入に表現することを避けたりして、相手を傷つけないでおこうとする柔らかさがあります。その一方、ことばの中に多くの意味が含まれていて、後でゆっくりじんわりとこたえてくるというところがあります。肝心なところをぼかしながらも、実は事の本質をついているのです。大阪のことばは歴史的、文化的に商人気質の色が強い庶民的な言葉なので、相手に細かく対応して、相手の機嫌を損ねないように微妙に使い分けをしながらも、相手に対して分かりやすいことばが好まれてきたために、「~はる」の使い方もほぼ尊敬表現の一本で通されているものと思われます。一方、京都では一口に京都のことばと言っても、もともと御所ことばと町方ことばの差別化があり、また町方ことばも室町商家のことば、西陣の職人ことば、祇園花街のことばなどの複雑な区別があったため、「~はる」の使い方も大阪に比べるとより複雑な人間関係の中で多様性を持つに至ったと思われます。

 「~はる」という表現方法は大阪、京都でともに敬意を表す尊敬表現として使われているようです。ただ、両者の間には使用法における若干のニュアンスの違いのようなものがあるようです。
 大阪では「~はる」は基本的に尊敬表現であり、相手への敬意を示す最も一般的な言い方です。
 一方、京都でも「~はる」は基本的に尊敬表現ではありますが、その使われ方が大阪に比べるとやや複雑なようです。京都で最も敬意の程度が高いとされている表現方法は、現実に日常生活の中で使うか使わないかは別としても、「...続きを読む

Q「いずれか」と「いづれか」どっちが正しい!?

教えて下さいっ!
”どちらか”と言う意味の「いずれか」のかな表記として
「いずれか」と「いづれか」のどちらが正しいのでしょう???

私は「いずれか」だと思うんですが、辞書に「いずれか・いづ--。」と書いてあり、???になってしまいました。
どちらでもいいってことでしょうか?

Aベストアンサー

「いずれか」が正しいです.
「いづれ」は「いずれ」の歴史的かな遣いですので,昔は「いづれ」が使われていましたが,現代では「いずれ」で統一することになっていますので,「いずれ」が正しいです.

Q人間は考える葦である とは?

ふと頭をよぎったのですが、、
「人間は考える葦である」とはどういう意味なのでしょう? また誰の言葉なのでしょう? 簡単な質問ですみません。 よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去しました。
  
  残された膨大なメモを元に、パスカルが計画していた著作に似たものを編集することも考えられたのですが、とても、それは無理なので、断片集として、計画のまとまりや、内容の関連性などから、おおまかに断片メモを整理してまとめて、一冊の本に編集したのが、『パンセー』です。当然、パスカルの死後出版されましたし、内容は、緩やかなつながりで、長短の断片文章が並んでいる構成です。従って、本のなかの文章はパスカルのものですが、本は、パスカルの「著作」とはちょっと云えないでしょう。ほとんどできあがっていて、足りない部分などを、他の文章で補ったりして、計画通りかそれに近い本を作ったのならともかく、当初の計画とは違う、「箴言集」か「随想集」のような本になってしまっていますから。
  
  それはとまれ、「葦」が弱いものの代表として人間の比喩に取り上げられているのは事実ですが、何故「葦」だったのか、という疑問が起こります。例えば、「人間は考える蟻である」とか、「人間は考える蝶である」とか、また「人間は考えるクローヴァーである」とか、幾らでも考えられます。
  
  これは、誰かの説明であったのか、わたしが勝手に考えたのか記憶がはっきりしないのですが(おそらく誰かの説明です)、人間が「葦」であるということの比喩は、ナイルの河畔に生える葦は、強い風が吹くと、弱いために、すぐしなって曲がってします。風に抵抗できない。いや抵抗せずに、しなって敗北するのである。しかし、その他方で、偉大な樫の樹などは、風が吹くと、しなることはせず、抵抗するので風に勝利するが、しかし、繰り返し風が襲って来た時、何時か強い風に倒され、根元から折れてしまうのです。しかし、賢明に自らの分を知る「葦」は、風が吹くとそれに身をまかせてしなり、逆境のなかで、一見屈服したように見えるが、しかし、風がやむと、徐々に身を起こして行き、再びもとのなにごともない姿に戻って微風に揺れているということが、人間への「比喩」の意味だったはずです。
  
  少しの風が吹くとしなり、風の前屈して曲がるが、風が去ると、また元のように立ち上がる。人間とはこのように、自然や運命の暴威に対し無力であるが、それに従順に従い、そして暴威をくぐり抜けて、また元のように、みずからの姿で立ち上がる。自然界のなかでたいへん弱く、簡単に風にしなるが、柔軟性があり、運命にも暴威にも屈しない。そして何よりも、「考えることができる」すなわち「精神を持つ」ことで、ただ、自然の力、暴威として、力を無自覚に揮う風に較べて、遙かに賢明で、優れた存在である。……このような意味の比喩ではなかったかと思います。
  
  この葦の比喩は、パスカルという人がどういう人だったかを知ると、パスカル自身のことのようにも思えて来ます。パスカルは、四十に満たないで亡くなっています。彼は、少年の頃から神童と言われたのですが、病弱で、一生、病気や身体の苦痛とたたかいながら、思索し実験し、研究し、晩年は、修道院に入って信仰生活を送ることを決意して、自分自身でも、そのことについて、悩み考えつつ、世を去りました。パスカルは、自分に襲いかかる不条理な病や、身体の不調などと、「たたかう」というより、それを受けて耐え、病の苦しみのなかで思索や研究を続け、「精神」において、自然が与えた病の暴威などを、乗り越えて生涯を送った人だとも云えるのです。
  
  暖めた流動食でないと、喉を通らないというようなこともしばしばあったということは、解説書などには必ず記されているはずです。弱々しい「葦」のように、襲って来る風に身をまかせつつ、思索した精神、それがパスカルなのでしょう。パスカルは「人間とは、運命に従順であるが、しかし、精神で、運命に抵抗し、不屈の意志で、思索することで、運命や自然の暴威を乗り越える自由の存在なのだ」という意味で、この言葉を記したのではないかとも、思えるのです。
  

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去し...続きを読む


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