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一般に理性的というのは良い意味で使われますが、
理性が暴走すると非常に危険ではないかとおもうのです。
たとえば、

・戦争
・行き過ぎた資本主義や能力主義

などは理性の暴走と呼べないでしょうか。
いわゆる必要悪といわれるような考え方もです。
また、このサイトでも時々見かけますが、

・なぜ人殺しはいけないのか
・どうして自殺してはいけないのか

これなどは感情の欠落であり、理性によって自滅する典型のようにおもいます。
捨て犬を見つけて保健所に連絡する理性、かわいそうだと思い拾って帰る感情
これも理性的に殺し、感情的に生かす例かと思います。
そう考えると感情とは理性に対するブレーキとしての役割があるのではないでしょうか。

A 回答 (6件)

かたいことを言えば、まず、理性と感情の定義が必要な気がします。


そうすれば、No1及び、No2さんの回答が shift-2007 さんの「意図」とずれる回答となる可能性は少なかった気がします。

とはいうものの、文脈から質問者様の「意図」を読み取り言葉を定義し論を主張する回答者の努力も大事かと思います。

そこで、shift-2007 さんの意図を考え推定しながら定義してみます。

理性:言葉による物事を思想的に決める性質。
   相手の立場に立たない、相手の心を考えない性質。

感情:相手の立場に立つ思いやりの様な心。
   (ヒステリーは、感情の暴走かと思いますが、shift-2007さんは、
    相手の立場を思いやるという点に重きを置いている感じがするので、
    自らの感情だけを考える事を今回は考えないこととします。)

そうすると、理性とは融通性がない感じがします。
現実の状況と思想との間のズレが大きくなることもあるでしょう。
ズレが大きい時、暴走といっても良いかも知れません。

感情は、相手の立場、状態により自らの内に生じる心は変化することになります。
当然臨機応変に変化し、暴走は少ない気がします。

論を進めてみます。
じゃ、どうしたら、思いやる心をを育てることが出来るのでしょうか?
相手の心を思いやるのは想像力の問題でしょうか?


養老孟司さんは、「教養とは他人の心が解ることだ」と言っています。
相手の心が分からず知識のみが身につくことを、教養が身につかず鼻につくとも言っています。
手厳しいという感じがしますが・・・

さらに論を進めて、教養を身につける方法について考えたいと思っていますが、
これが、簡単ではなく行き詰まっています。
教育や育った環境が大きく関係している気がするのですが、突き詰めるには、問題を細分化して考える必要性を感じます。
一つのテーマになる程、難しく大きい問題だと思います。




中途半端ですみません・・・


養老猛 wiki 以下の思想・発言の項目に、「教養とは・・・」とあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%8A%E8%80%81% …
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

kunobouさんは大人ですなー。
理性と感情は車の両輪だろうと思います。
互いにけん制しあいながら前へ進むのでしょう。

「教養とは他人の心が解ることだ」
私の先生は自分を知ることが知恵の始まりだと言いました。
自分という人間を知ることは、結果的に他人を知ることになるのでしょう。
ならば、他人の心を理解するためには自分の心を理解するということ。
己を知ることが教養の始まりということでしょうかね。

お礼日時:2011/01/23 22:47

理性の暴走とかそう言う問題では無く、理性とか感情の問題でなく、方向性の問題でしょ。


良い方向に向かえば、どちらがどちらでも問題なく、悪い方に向かえば、これまたどちらがどちらでも問題ありきと言う事で。

戦争は、欲望と言う感情が、理屈と言う理性を使って引き起こしている、現象何でないの?まあ、他にもめんどくさい理由もあると思うけど、怨恨とか、だけど怨恨も感情か?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

理性が方向性を間違うとえらいことですよということですね。
理性的だからといって絶対善ということではないですよということですね。

お礼日時:2011/01/27 19:53

kaitara1ですが、理性による判断は、理性が道具であるというより主体そのもののように思ったので欲は理性から生まれると思いました。

仮に動物に人間の理性を与えても環境を破壊するようなことはしないように思います。動物には理性を受け付けないほど強い肉体的主体性があると思います。つまり本能によって理性の暴走は完全に抑制されえtしまうのではないかと言うことです。理性の暴走を抑えるのは感情よりも本能であはないかと思いました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

私の感じるところでは、理性、感情、本能すべては主体にはなり得ないだろうと思っています。
いわゆる精神的なものが主体ではあるのですが、それ自体には何の属性も持っていないのではと想像しています。
ただ理性、感情、本能それぞれの視点からみた場合、本能が理性の暴走を止めているということはあると思います。本能はある種のバランス感覚に優れているようですから。

お礼日時:2011/01/25 09:25

興味深い話題だと思います。

私は人間特有の欲があなたの言われる理性の暴走に相当するのではないかと思います。たとえば名誉欲とか金銭欲のことです。所有欲あるいはこれらの欲に関係した嫉妬を含めていずれも自殺につながることからも人間特有の理性の暴走ではないかと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

理性はどちらかというと道具(手段)としての役割が大きいと思います。
欲が理性を利用しているというのはあると思いますね。
理性的というのは道徳的という意味も含んではいますが、その道徳というのも人の数だけありそうなので鵜呑みにするわけにもいきません。
地獄への道は善意で舗装されているなんて皮肉もありますから気をつけたいものです。

お礼日時:2011/01/23 22:54

質問者さんは言葉の魔力の罠に嵌ってしまっているので混乱しているのだと思います。

貴方の使った「理性」を貴方の文章の第一行目以外では「理屈」と置き換えてご覧なさい。もっと判り易くしたいなら、貴方の使ったら、それを「屁理屈」と置き換えてみる。ほら、驚くなかれ貴方の質問の答えが自ずと出てくるでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/01/23 00:04

戦争は、「過度な理性の産物」ではなく、自国さえ繁栄すれば良い(グローバル化しているのに)、庶民の苦痛より政治体制(自己の利権)を優先する、といった、自己チュー化、強欲など、理性の不足によります。


(『かわいそう』と思うのも感情なら、あらゆる争いの根底にあるのも感情です)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

億単位の最新兵器を使い何万人もの人を殺すことが感情にできるでしょうか。

お礼日時:2011/01/23 00:09

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