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A 回答 (1件)
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No.1
- 回答日時:
フィヒテとヘーゲルは、両者ともドイツ観念論の大家で、前者から後者への影響、後者の前者に対する言及は、多岐にわたるので、yuzu88さんの関心を的中しないかも知れませんが、私の知るかぎりにおいて回答させていただきたいと思います。
まず、アイデンティティですが、これは社会学や心理学で言われるような「自己同一性」とはちょっと違います(社会学や心理学での用法は、論理学や哲学での含意を踏まえていますが)。これは、「同一性」と訳され「あるものが自分自身と同一であること」、あるものが自らの持つ諸々の性質を変化させつつも自分自身であることを変えずにいること、を意味します。
フィヒテの哲学において、特にこのような同一性が見出されるのは、『全知識学の基礎』第一命題「自我=自我」です。細かな議論は色々あるのでしょうが、ごく当たり前のことを述べていることに変わりはありません。フィヒテは、この自我について、自分でないものに巡り会っていく過程で様々なことを成し遂げる、という仕方で対象の認識もまた行うとして、カント哲学において「理性が対象を規定する働きとしての理論」と「理性が対象を実現する働きとしての実践」との曖昧な区別を一元化し、実践理性、あるいは、能動的にはたらく自我を原理に人間の理性の在り方を説明して見せました。
このようなフィヒテの自我は、様々なことを成し遂げはしますが、抽象的で自分自身の機能においては何の変化もありません。その意味では、人間の理性の在り方が永久不変であるということにも通じるでしょう。
これに対し、ヘーゲルは、自我というものを、ただ単に漠然と能動的にはたらくものとして、抽象的に捉えるのではなく、具体的に何かを意志する自我として捉えるべきだと主張しました。ヘーゲルによれば、具体的に何かを意志するのでなければ、現実に能動的なはたらきをなすことができないからであり、現実に能動的なはたらきをなすということは、具体的な何かを意志するということに外ならないからなのです。
このような、ヘーゲルの説く自我は、あるときはこれ、またあるときはあれ、といった様々なものを意志し一様ではありません。かようにヘーゲルの考える自我は多様な仕方で現実の世界の現れるため、その同一性を保てずにいるように思われます。しかしながら、漠然としたまま具体的に何も意志していない自我は、結局何も意志していないのに対し、具体的なあれこれを意志する自我は、自由を享受しています。そしてこの自由こそ意志の本質であり自由を実現していてこそ意志は意志でいられるのです。それゆえに、ヘーゲルは、千変万化する自我こそが自分自身に対し同一であり続けることができる、という自我の同一性を説くのです。
以上のことは、ヘーゲルの『法哲学講義』の第5節から第7節およびその聴講生のノートに見られます。
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