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よく云われる言葉に「人はその文字通り、お互いが支え合っているから人(人間)なんだよ」があります。
しかし私が思うに、人は本質的に争う生き物であり、その争い本能を互いの知性理性が抑制する事で均衡が保たれいる様が先の支え合っている状態に見えるものと思うのです。

人類は絶え間なく戦争を繰り返して来ていますし、人里離れた田舎でさえも裁判所があります。

活字の『人』のノは互いが頂点で五分に支えていますが、これはあくまでも理想であり、人が書く『人』のノは左側が上で右側が下に位置するものです。つまり人は何らかの力関係なりがありどうにか均衡が保たれている現実を暗示していると思えます。

そこで質問です。
そもそも人は何故争うのでしょうか

A 回答 (16件中1~10件)

漢字の原型である亀甲獣骨文字では、人という字は一人の人間を


模したものとされています。ですから、支えあうのでも支配するのでもなく、
人という字はそもそも一身独立し、ただ一人で立っているのです。


そして、自身の独立を疎外する他人が現れたとき、
人は自らの足で立つために、争うのです。


ここで克己も争いではないか、と思われるかもしれませんが、
これは単に人が人としての自己の統合ができていないだけで、
自らの人としての基軸が複数ある状態、つまりは、
内側に他人を抱えているだけなのです。


争いとは、単純なものではありません。
もちろん暴力や搾取といった形を取る場合もあるでしょう。
しかし、まったく逆の、非暴力や慈善という形を取っても、
他人の基軸に反するそれは、まごうことなき他人に対する闘争なのです。



自ら立とうとするかぎり、つまり争う限り、それは人であり続けるし、
争いは全く誇るべきことである、と私は思います。

そして立ち上がることをやめたとき、隷属を選んだときに、
つまり人は何らかの力関係なりがありどうにか均衡が保たれている状態を
現実と定義したときに、争いは終わります。


立つことをやめたそれは、もはや人という字ではなくなるでしょうね。

この回答への補足

人は自己内に争い
人は自己外と争い
その内外の均衡が保たれてはじめて立つ、といえるのかも知れませんね
「人は立つために争う」と。

人のノは自身の内外に於ける基軸を表しているのでしょう。
この場合、人を国歌に置き換えると解りやすいですね。

そうすると、事実上争いを前提放棄する憲法9条が何を意味するか、考えただけでも空恐ろしくなります。


皆様回答ありがとうございました。

補足日時:2013/07/22 18:45
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

> ・・・人という字はそもそも一身独立し、ただ一人で立って いるのです。
これは初めて学びました。考えてみれば当然ですよね。この世の人は誰一人同じ者はおらず、一人一人が独自の意思を持っているわけですから。

> 他人の基軸に反するそれは、まごうことなき他人に対 する闘争なのです。
表面上の動静に関わらず、基軸の違う独立人(基軸が同じ独立人は有り得ないが)同士が交わり接するときは争い乃至摩擦が不可避なのも道理としてよくわかります。

> 立ち上がることをやめたとき、隷属を選んだときに、 つまり人は何らかの力関係なりがありどうにか均衡が 保たれている状態を現実と定義したときに、争いは終わります。
この隷属を受け容れる習性こそが人間社会に安定を齎している(社会を機能させている)のかもしれませんね。法や道徳倫理感という怪物に隷属することでこそ。

お礼日時:2013/07/16 23:49

NO.7 です。



深刻な補足を頂きました。
>回答後段、知性について、知性の発達こそが人間を社会的動物足らしめていると思いますが、私は、先の闘争本能とはまた別に知性が、俗に言われる「悪知恵」に代表されるよう、余計な争いを引き起こしているとも思えるのです。勿論知性が本能を制御し人を社会化適応させてはいますが。
そうすると、人間は本能(先天的)・知性(後天的)いずれの面からも争いを好む生物であるといえないでしょうか?


私は、知性は本来生存本能の補完としての道具(のひとつ)として人類に現われたもので、よくいわれることですが、それ自身は善でも悪でもない、中性的なものでしかないとおもいます。ですから知性を善く(上手に)利用するのも、悪知恵 として用いるのも当然ありえることです。問題は 悪知恵 の発現がどこから現われるかです。それはやはり人間存在の根源を見なければ分からないことで、目先の「金を儲けたい」とか、「偉くなりたい」とかいう動機はすべて生存本能からきていると私は思います。そのために必要があれば邪魔な他者を殺めることになり、その経過で闘争が発生するのでしょう。闘争は避けられる場合もあり、これは知性の存在が重要です。避けられない場合が深刻です。直近の問題は感情の制御が可能かどうかだと思われます。知性が積極的に闘争へ向かう場合、なにか途中で計算違い(ある意味自傷的行為)が起ったのではないかと考えるべきでしょう。特に日本が憲法9条を持ってからは。

ご参考になれば。
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この回答へのお礼

補足への回答ありがとうございます。

私自身が質問本文で知性が争いを制御抑制するもの、といっておきながら補足では知性が争いを助長しているのでは?と、相反する事を主張していますが、このQ&Aやり取りを通して変化してのものに付き御容赦願います。

>知性が積極的に闘争へ向かう場合、なにか途中で計算違い(ある意味自傷的行為)が起ったのではないかと考えるべきでしょう

知性のエラー現象といえますね。人間は過ちを犯す生き物であるが故の宿命と思えますすが、そのエラーを起こさないためにも知性を日々究極まで磨き上げて、知性による本能支配(シビリアンコントロール)を確たるものにする必要がありますね。

お礼日時:2013/07/20 22:20

天国の住人ではなく、地獄の住人だから争うのではないでしょうか。


状況または、心の中が地獄なのでしょう。


争いの内容は、

1 生存・安全のため

2 欲望・私利私欲のため

3 自分の正義のおしつけのため


だと思います。

どの理由で争うかは、
状況と、その人間の程度によるように思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

地獄の住人故ですか。なるほどですね。
赤子がこの世に生まれてくるとき泣くのは、この世の辛さ=地獄状況を本能的に知っているからという話を聞いた事がありますが、人間社会はある意味地獄そのものなのかも知れません。

地獄であるからこそ「生きるというのは大変な事なんだよ(某愚痴ボヤキ名将語録)」となるのでしょうね。

お礼日時:2013/07/20 21:45

 普通に思い通りにいかないからだと思います。

無論思い通りに行かなかったからってなんでもかんでも争いという手法で解決してる訳ではありませんが、争う事でしか手当が見当たらないという状況になるとそうなってしまうのです。
今のエジプトなんかそうなんでしょうけどイスラム教徒優遇で物価上昇賃金低下という以前より治安は悪くなるという最悪のシナリオが反政府市民にはあるわけです。基本ムスリム同胞団がイスラームであるという側面からイスラム教信者が特に優遇されるようなシステム作りをしたというのがそもそもの異常性なのですが優遇されない人からすると「ふざけるな!」となるわけです。これが不当でないなら納得もしようものがあまりにも不当すぎて腹立たしいのですよ。この 不当+異常性→精神的経済的打撃→暴動 となる訳です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました

お礼日時:2013/07/19 01:02

#11の者です。



>利益面以外のあらゆる観点から争いは継続されるように思えますが

「利益」というのが、たとえば経済的利益などであれば
おっしゃる通りですが、この文脈では、総合的な生きる
ための条件においてですので、それに反する動きは
淘汰される事により、その動きは消えます。
(それを守ろうとすればその種自体が淘汰される事で
生態系全体の方向性は維持される)
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この回答へのお礼

補足への補足説明ありがとうございます。

究極のグローバル化が人類の争いに終止符をうつ、なる論大変興味深いです。
先のグローバル化による国家間における戦争無用化については掴めますが、究極のグローバル化からの争い終結ついては、理論的には理解出来ますが、正直な処、明確なイメージは掴めていない現在の私てす。
究極のグローバル化、その段階にまで進化した人類は、今現在我々が有する人の概念とはまた違う概念の種として存在する新種の生物かとも思えます。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/07/17 15:34

人類が全体として強くなる為に、種族内の争いにて弱肉強食・適者生存のメカニズムを実践していたのです。



人間という種の中での争いがなくなって、種が切磋琢磨されなくなると、他の種にとって変わられるのが生物界のおきてなのですが、はたして人間という種は何時まで君臨・繁栄できるのでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

> 弱肉強食・適者生存のメカニズムを実践していたのです
生存のための闘争本能ですね。これはもう地上の生物の宿命でしょうか。

その系統の争いが無くなるならば、その時人類はその生を終焉へと向かわせる事になるのかも知れませんね。

お礼日時:2013/07/17 00:57

人間に限らず、自然界のほとんどの生物は弱肉強食であり、


争う事が自然です。
そもそも物体は、放っておくとランダムに動き、ぶつかり合う
ものであり、生物も存続単位として発生した段階では互いに
同等な機能を持ち、同種内であっても競合するものです。
そもそも、その競合が淘汰として進化の原動力なのだから。

ハチ、アリなどは、遺伝的に個体機能を分業化し、集団で1つ
の生存単位=社会生命化しており、人類は生後の経験により
反射行動ではない意識的な行動の多様化を可能にし、分業
=助け合いとしての社会行動を可能にしたのです。

ただし数百年前までは日本国内でも県単位で戦争していたし、
工業化と流通の発達による市場の拡大によって県単位の
自立性は失われたとはいえ、まだ国家間での戦争は絶えません。
しかし現在、さらに産業や経済、情報のグローバル化は進み、
戦争による土地や資源の確保の益より、損失の方が大きくなり、
もはや戦争を肯定するのは利己的な政治家だけです。

更なるグローバル化において、個体が体内の細胞のように
緊密な一体的生命性を成せば、個体の利益は社会全体の
順調な営為に依存するようになり、利己と利他は一致する
ようになり、自ずと争いはなくなる。
「東京は本店経済で1人だけ儲けている!」といって、静岡が
東京に攻め込む、などという事が考えられないように(かつては
同様の内戦が続いていた)。

この回答への補足

回答ありがとうございます。

前段部の、生存闘争本能からの争いならびに後天的に獲得する助け合い行動、についてい異論御座いません。もっともだと思います。

> 個体が体内の細胞のように 緊密な一体的生命性を成せば、個体の利益は社会全体の順調な営為に依存するようになり、利己と利他は一致するようになり、自ずと争いはなくなる
御提示の推論、利益面では一致をみるかも知れませんが、果たして利益面の解決で争いが消滅するでしょうか?利益面以外のあらゆる観点から争いは継続されるように思えますが…

補足日時:2013/07/17 00:48
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人は恐れがあるから争うんです。

支配しなければ支配されてしまう。人が人になる前から植え付けられた間違った考えです。人は単一の個体では生きられないんです。だから助け合うしかないんです。逆に言えば人は人を助けるためにある。また人は助けられるためにある。そうやって感謝したり喜ばれたりしてお互いに進化するのが本来の生き方だと思います。少なくともそうでなければ進化の歴史は無かった、今頃絶滅していたかも知れません。それが争い合う生命体になってしまった。それは人間が過去の辛い経験によって生き方を決める生き物だからと言えます。騙された人は2度と騙されたくないと思うように過去のいろんな苦痛が人間をだんだん生きにくい物に変えたのです。助けようとして近づけば疑われます。もしも人が人を助ける事に喜びを感じて助けられた事に心から感謝して世界が喜びと感謝で一杯になったら戦争も犯罪もない世界が出来るのに。でも必ず逸脱する時があります。友達に貸したお金が返って来ないとか。それを相手の言い分を聞いてじゃあそのうちでいいやと思うのは助ける事に見えるかも知れませんけど、相手の逸脱を容認する事は将来的に助けている事になりません。今は恨まれても10年に感謝されるというのが本当に助けている事になるんだと思います。人に誠実であろうとするなら人の不誠実を許すべきではないです。それをきちんと主張出来ないでストレスを抱えて不幸を招いたり、絶対に人を信じなくなったり物事に向き合わず人のせいにして自分を守る。これが全ての争いの元です。

この回答への補足

回答ありがとうございます。
>感謝したり喜ばれたりしてお互いに進化するのが本来の生き方だと思います。
> それは人間が過去の辛い経験によって生き方を決める生き物だからと言えます。
つまり、人間は本来争いを好まず善行を当然行動とする生き物(いわゆる性善説?)であるが、学習能力想像力、すなわち知性を有するが故に争ってしまう、ということでしょうか。
それとも、最終段で述べられている論を加味するならば、知性の磨き運用が不十分な為に争いが起こるのでしょうか。個人的には、知性が如何に効用するかは双方次第と思いますので、やはり知性が争いの基になるケースが優勢かと思われます。

とある調査結果では、原始社会において人は幸福度が最も高かった、というのも出ており、知性の発達が争い増大→幸福度減少を招いている、という論理も成立するかと思えます。

只、原始社会以前から受け継がれている(と思われる)闘争本能による争いの因子も無視出来ないのではないでしょうか。

補足日時:2013/07/17 00:18
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動物的な本能に支配されているからだと思います。


命が危なくなれば、食料が尽きれば、居場所が損なわれれば、全ては生存への欲求に基づく本能の起動によって、勝者と敗者にわかれる闘争を生じるのだと思います。
したがって、争う理由は、人間精神が、未だ動物としての本能を勝ることに少ないからだと。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました

お礼日時:2013/07/16 22:33

>そもそも人は何故争うのでしょうか



貴方の言う
>人は本質的に争う生き物であり、その争い本能…

に私も賛成します。本能とは種としての長い歴史の内で合理的な理由があってそうなったものでしょう。つまり生物的な生存欲としての闘争本能で、主として感情がそれを担っているようです。より有利な種の生存条件を求めて他の個体は皆敵である(特に同性の個体において)ということでしょう。それが家族単位になっても、部族単位になっても闘争の動機は同じだと考えられます。

あと、蛇足として
>人はその文字通り、お互いが支え合っているから人(人間)なんだよ

人間は社会的な動物であるといわれます。主として知性がこれを受け持っているようですが、これも真、上記も真であるとするなら、やはりどこかで折り合いをつけねばなりませんが、闘争本能のほうが生物的な長い歴史があるだけ根強いということでしょう。

この回答への補足

回答ありがとうございます。

回答前段「生存欲としての闘争本能」由、これはもうその通りだと思います。人間が社会的動物として社会を形成する以前から脈々と受け継がれる闘争のDNA。これを遺伝子レベルから排除する(消滅させる)のは実質無理でしょうね。将来科学の発展がそれを可能にした場合は不明ですが…。

回答後段、知性について、知性の発達こそが人間を社会的動物足らしめていると思いますが、私は、先の闘争本能とはまた別に知性が、俗に言われる「悪知恵」に代表されるよう、余計な争いを引き起こしているとも思えるのです。勿論知性が本能を制御し人を社会化適応させてはいますが。

そうすると、人間は本能(先天的)・知性(後天的)いずれの面からも争いを好む生物であるといえないでしょうか?

補足日時:2013/07/16 22:32
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