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よく云われる言葉に「人はその文字通り、お互いが支え合っているから人(人間)なんだよ」があります。
しかし私が思うに、人は本質的に争う生き物であり、その争い本能を互いの知性理性が抑制する事で均衡が保たれいる様が先の支え合っている状態に見えるものと思うのです。

人類は絶え間なく戦争を繰り返して来ていますし、人里離れた田舎でさえも裁判所があります。

活字の『人』のノは互いが頂点で五分に支えていますが、これはあくまでも理想であり、人が書く『人』のノは左側が上で右側が下に位置するものです。つまり人は何らかの力関係なりがありどうにか均衡が保たれている現実を暗示していると思えます。

そこで質問です。
そもそも人は何故争うのでしょうか

A 回答 (16件中11~16件)

No.2です。


補足請求、ありがとうございます。

>どうして目先に囚われ利己の暴走を抑制出来ないのでしょうか?

>本質を見失って、目先に囚われたとき争いが起きます。
ということです。
見失うのは忘れるからです。

良くも悪くも人は忘れていきます。
自分は人間だから、ついつい忘れるという自覚を持ち
日々感謝を忘れないことです。

自分というものを理解して、忘れないように勤めなければ「当たり前」として
傲慢になるのもまた人間です。

自分を姿を日々チェックして、内面のコンディションを保つように努力した人だけが
いい状態に保たれ、いい人生を送れるのです。

昔から、山のように当たり前のこととして言われていることですが
今の時代、実際にやっている人って、そんなに多くはないと思います。
人間のベースになってる基本を大切にすることですよね。

忘れれば、人生ごと総崩れです。
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございます。

>良くも悪くも人は忘れていきます。
なるほど、確かに忘れますね。実際自分も学生時代習った教科内容かなり忘れていますし(笑)。
>人間のベースになってる基本を大切にすることですよね
はい。一度学習したからといって日々の復習を怠っていてはすぐ忘れてしまいます。寸断無き自己研鑽が必要不可欠と感じる今日この頃です。

お礼日時:2013/07/16 22:14

わがままとわがままがぶつかり合うから。

そして未熟さと蒙昧さから何がわがままかを的確に判断することが難しいから。わがままがぶつかり合う世の中では安心して暮らすことができません。その結果円滑な自己発現からの社会貢献という適材適所の協調体制への流れが阻害され、社会としてエントロピー増大のエネルギーに負けて‘閉塞・衰退・退廃‘の地滑りに飲み込まれる危険性が増大します。そうならないために、自由なわがまま以前の‘社会的動物として避けて通れない前提条件‘をわきまえることが大切になると私は思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>わがままとわがままがぶつかり合うから。
利己ですね。人間誰しも利己的なものを有していると思いますが、問題はそれを如何にコントロールして自己を社会貢献へと繋げるかですね。そのためにも社会的動物としての特権ともいえる知性の磨きを怠ることなく高めていかなければならないと私も思います。

お礼日時:2013/07/16 22:08

 こんにちは。




 哲学としての けんか をしなさ過ぎるからでしょう。

 けんかを知らないから ようしない。

 よって 後先を考えないあらそいのほうへ何故か導かれる。

 ★ 争い本能を互いの知性理性が抑制する事で均衡が保たれいる様
 ☆ この見方が 言ってみればよわい。

 知性理性がまづけんかをする。結論が出るまで議論する。

 そうしていれば――《抑制》などというものは糞くらえです――
 おだやかな生活の共同性を成り立たせて行けるでしょう。
 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>哲学としての けんか をしなさ過ぎるからでしょう。
確かに最善の解決法なり結論が出るまで妥協せずにとことん議論するという方はあまり見かけませんね。
特に我々日本人は出来るだけ角が立たないよう丸く丸く収めようとしますから。

知性を究極まで磨き上げるならば争いも相当収まると思います。

お礼日時:2013/07/16 22:01

「人はなぜ争うのか」


まあよく言われるのは、競争して強くなったり、優れたものが生み出される原動力になっていたりとするなどの説は、黙っていても安易に聞こえて来そうですね。
でも実は、もっと進化した価値に辿り着いた者たちは、競争そのものを愚かな事として認知するようになります。
いつもこの地球のどこかで、銃弾が飛び、テロに怯え、商売敵をあの手この手でやり込め、他者の明日に関しては無関心、更にはそれをも利用して自分の益を貪る隠れた合法悪の横行、そうした教えを義務教育中からも敢行させているような粗末極まりない教育の動機など・・・とんでもないような愚思想愚行為の追行に人類は日々暇がありません。
そうしたことがなくなり、お互いの明日の安心の約束と安心の実現を希求し具体的行動をもって具現しあう存在の日常の方がどれだけ優れ尊いことか。
今のような争いの世を、薦めたり目指したりしている宗教はほとんどなく、あったとしてもそうしたものは胡散臭く思える直感を人間は持ち備えています。
争うより、お互いが支え合っていく状態の方が、実は難しいのです。
つまり今の世は単に「安易な楽な方を採っているいるだけ」というわけです。
幾ら頭が良い人でも、能力を総動員して結果的にそうするのなら、人類の成長の足を引っ張っているだけで、隠された悪の思想ですし愚以外の何物でもありません。

この回答への補足

回答ありがとうございます
「安易な楽な方を採っている」ためですね。
しかし楽な方を選択するのは人間の本質ではないでしょうか。
現在洗濯板で洗濯する人はほぼ見かけませんし

補足日時:2013/07/16 21:57
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本質を見失って、目先に囚われたとき争いが起きます。



多分、ほとんどの人は「平和」や「健やか」や「安全」や「安心」などは大切に思うところでしょう。
それを忘れて「自分が楽しい」「自分が嬉しい」のみを優先させたとき、争いになります。

金がたんまり欲しいがあると、搾取や騙すこともいとわない。
を選んだとすると、根本にある平和や安心や平等などが壊されますから。

多くの人に喜ばれる仕事からの、金銭入手という平和的解決を図るやり方を選べば
戦争などの争いにはならない。

与えて得るより、奪い取ることを望んだときに争うわけです。

家庭崩壊も国家崩壊も、争いによって壊れていくのは同じ原理ですね。
子育ても愛情表現より点数を稼がせるやり方は、子供の時間と自分の考えを深めるチャンスを奪ってますね。

何だか崩壊している子供が増えたのは、そんなことかと思いました。


揉め事が多いところをじっくり見ていくと、奪い合ってることが見えてくると思います。

この回答への補足

回答ありがとうございます
正に、御指摘の大切なものを優先させることよりも利己的姿勢を選択する在り方、そこが要であると私も思います。
どうして目先に囚われ利己の暴走を抑制出来ないのでしょうか?

補足日時:2013/07/15 16:38
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支えあうことが本能ではなくて、基本的には共感することが本能であると思います。



争いも一人では競争することもなく、より深い共感のために、争うのだと思います。

争った後でも、お互いアドバイスとかして話し合いますよね・・・だから。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました

お礼日時:2013/07/15 16:25

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