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神社とお寺の違いが、友人などにも教えてもらったのですがいまいちよく分かりません…
教えてもらい、今私が思っている違いを以下にまとめます。
私が勘違いしている点のご指摘をお願いします。

神社
・神道(日本独自のもの)
・神様がいる(実在はしない(目には見えない?)もの。例外もあり)
→神様にご利益をいただける様にお願いする
→命がある間のために手を合わせる場所
・教義がない

お寺
・仏教(外から入ってきたもの)
・仏様などがいる(実在する人)
→手を合わせることで極楽へいけるように徳を積む
→命がなくなってからのために手を合わせる場所
・宗派、教義がある


よろしくお願いします…!

A 回答 (5件)

私の理解がどこまで正しいかはわかりませんが、とりあえず以下の通りに理解しています。



神社
>神道(日本独自のもの)
私も同様に理解しています。

>神様がいる(実在はしない(目には見えない?)もの。例外もあり)
実在した方も居られると私は把握しています。
天神様として知られる菅原道真公や応神天皇や神武天皇、また一説では日本書紀や古事記により意図的に架空のおとぎ話的神話にされてしまったものの、実際その中に登場する神々は実在した方々という意見もあるようです。

>神様にご利益をいただける様にお願いする
そういう見解もあるかとは思いますが、御利益信仰ばかりでなく、淡々と神恩感謝の祈りを捧げる事こそ本来の姿ように思われます。

>命がある間のために手を合わせる場所
言い換えますと現世利益を求める場所という事を言われているのでしょうか。これについてはそうとも言えないように思います。信仰の意義は人それぞれですし。

>教義がない
私も同様に理解しています。

お寺
>仏教(外から入ってきたもの)
私も同様に理解しています。

>仏様などがいる(実在する人)
仏様の他にも観音・地蔵・虚空蔵・薬王・薬上、等の菩薩様や仏教を守護する帝釈天や四天王、鬼子母神など数多の神々が信仰の対象となっています。また、各宗派の宗祖(日蓮・空海・最澄・法然・親鸞など)も宗派毎に祀られています。

>手を合わせることで極楽へいけるように徳を積む
極楽浄土は阿弥陀仏が居られる浄土であり阿弥陀信仰をしない例えば日蓮宗などでは霊山浄土に生まれ変わる事を祈るものと承知しています。

>命がなくなってからのために手を合わせる場所
これは神道同様に一概には言えないと思います。現世利益を求める人も居れば後生善処を祈る方も居られると思います。例えばお寺では「商売繁盛」「学力増進」「病気平癒」「交通安全」「家内安全」などの現世利益を求める御祈祷をされるのが分かりやすい例です。

>宗派、教義がある
私も同様に理解しています。


いずれにしましても、御利益信仰とは本物の信仰ではなく、信仰の入り口に過ぎないものと私は思います。本来、信仰とは淡々としたもので、日々生かされている事への感謝であったり、己の至らなさを悔悟反省し、また人格の向上を誓うものだと私は思います。それが人それぞれに神社であったりお寺であったりするものなのではないでしょうか。
ですので御利益別に神道と仏道とを理解するのは誤った見方のように思われます。
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神道は日本古来の信仰です。


神社の原形は地鎮祭で見られる「ひもろぎ」です。つまり鳥居はもちろん、境内も狛犬もお宮もありません。
最初に出来たのは境内で、その次が鳥居、次が拝殿です。だから大神神社や諏訪大社には神殿はありません。
神社、つまり建築物は飛鳥時代、つまり仏教伝来後にその影響を受けています。従って鳥居の有無以外には、基本的には呼び名が異なるくらいで殆ど一緒です。例えばお寺の『楼門』が神社の『随身門』という具合です。

神とは大陸の言葉で「人事を超えた力の存在」を表します。従って神道の神は一つではありません。
天地の創造主はもちろん、自然霊、祖霊、精霊の全てを「神」と呼びます。
仏教は悟りを開いた者が仏になるという思想です。外国の研究者には仏教を宗教ではなく思想だと主張する人もいるそうです。つまり人間の到達点であるので基本的には全て実在です。ただ、創生期にヒンズー教や道教など多くの神を、思想と共に取り込んできたので、非実在の存在も少なくありません。(天部の神々など)
神道の神もまた、一時期取り込まれました。

本来神道は個人的な祈願をするものではありませんでした。
感謝が第一で、これは基本的に今も変りませんが、豊作を願う事から次第に個人的な祈願もするようになりました。
仏教でも、特に密教では祈願を盛んにしていますね。加持祈祷もその類です。

死生観もお互いに強く影響しているのでどっちがどっちとは言いにくいですが、神道でも古来より祖霊を祭ることから死後も手を合わせますし、逆に仏教における読経は生きている自分の為に挙げているという意見もあります。
つまりこれを「法施」と言います。自分の悟りの為に経を読むと陰徳が積まれます。その陰徳を死せる人や他の人に分け与える事を「法施」といい、御布施の一種です。陰徳を人に分け与えるとそれが大きな陰徳となって自分に戻るのです。これが「情けは人のためならず」の基の考え方です。

教義の有無は大きな違いですね。仏教だけではなくキリスト教徒も違います。
教義と教祖がない事を以って神道は宗教では無いということも出来ます。
ただ、ずっと無かった訳ではありません。教義ではないですが、明治時代に神道を道徳と捉え、教育の場に入れた事がありました。これの基礎を復古神道に求めたので、復古神道=教義と考える人もいますし、昭和28年くらいからこの動きも活発になっています。
さらに明治時代、道徳神道の道に失敗した政府は教義を持たない神社神道にしましたが、これに反発した人達が分裂して団体を起こしました。これが教派神道と呼ばれるもので、神道にも教義のあるものがあります。
じつは出雲大社や宇佐八幡も教派神道でした。つまり神道は一つじゃないのです。

あまり詳しくは書けませんが、もう少しい理解するなら、岡田米男著「神社」、鎌田純一著「神道概説」、三橋健 編著「神社のしくみと慣習・作法」、神社本庁研修所編「わかりやすい神道の歴史」などを参考にしてみてください。(ただし上に書いたように、これらは神社本庁といいう“一宗教法人”の立場になった見方ですので注意が必要です)
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こんばんは



 #1の方が述べられているのは全般的に同意。


 最近、「ちょっと勘違いな事をやっているなー」といった光景を目にしましたので、念のため。



 礼義として、


     「寺」=基本的に願い事をするところでは有りません。「先祖の霊に対し供養を」する所。
      参拝の際、手を合わせる

      宗教により、「経典」が異なる。「南無妙法蓮華経」「南無阿弥陀仏」など

     
      基本的に「拍手」はしない      
      
      何かの「ご利益」があるといわれる「寺」であれば、願い事をする事が出来る。

      質問者様の問いに「日本独自のもの」と有りますが、たとえば「アラーの神」など、
      
      「神」の概念は、さまざまに有りうる。







      「神社」=「神を敬い、願い事をしても良いところ」
 
       参拝の際、「二礼 二拍 一礼」など、決めごとが有るが、基本的に「拍手」する所が寺       とは違う。


       「参拝の方法」が違ったからといって、「神様」に手を合わせ、「礼」をすれば、神様は        怒らないないと思います。

       
       
       例外が有ると思いますが、一般的に参拝の方法は「拍」の有る無しが異なります。


       参考まで

     
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少し勘違いがあるようです。



神社=神様ではなく、仏教と同じく過去にその道を極めた方を崇拝する場所です。お寺との違いはほとんどが天皇家に由来する人であること。

有名な靖国神社も明治天皇の由来。幾多の戦争の犠牲者などを祭っているのは承知の通りですし、その傘下に地方の護国神社があります。

宗教ですので結婚式や葬式もおこないます。ただ、一般では初詣や受験、就職でお祓いを受けたりお願いしたりなので正規の扱いを受けていないだけです。そのような観点で見ればキリスト教などのほうが解りやすいでしょう。基本は同じなんです。

お寺で行うのは葬式だけではありません。明治、大正の時代はお寺でお祭りや結婚式もあったと聞いてます。分けて考える必要はありません。それぞれが異なる宗教なのです。そして宗教、宗派を超えてお祭りするのは日本だけです。いい例がクリスマス。
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そんな難しく考える必要はありませんよ。

余計ややこしくなります。

神社は「天照大神」「八百万(やおよろず)の神々」「地域の氏神」様を祀る所

お寺は「そのお寺の本尊(仏像)」を祀る所(薬師寺なら薬師三尊像、法隆寺なら釈迦三尊像)

これで良いんです。
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