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皆さんはキリスト教についてどう思いますか?

私は家族が元々クリスチャンホームだったので、幼い時から教会に行っていました。
学校とかで「キリスト教ってどんな感じ?」とかめっちゃ聞かれました(*3*)

自分としては神様がいない世界が全く分かりません…。

以前に遊び人の彼氏と付き合って、自分がクリスチャンというと「愚かだ」とブログに←書かれました。
自分は、人とのコミュニケーションが苦手だし、なぜか暗いとかよく言われちゃうしとにかく第一印象は良くないかも…;
人間としてまだまだなんですよね。
最近通っている精神科で「アスペルガー症候群」と診断されたり。この病気は過去のことが忘れられない障害?でもあるのですが…。
だから別れた後も、どうでもいい元カレのことを思い出してしまいます(>_<)

今まで、友達づくりをサボってきてしまったのもあるのですが…。

でも教会にはクリスチャン仲間がたくさんいます!!
家族だけではありません。

小さいころから大人しくて、どうやら脳にも少し障害があり…な私ですが教会の人はそんな私を受け入れてくれます。
社会的にはまだまだなんですよね。
だからどうしても「変わった暗い子だ」と思われてしまう…×
その結果、変な男にも引っ掛かりましたーッ(>_<)

でも、やっぱ神様は信じ続けて行きたいし
「大切なきみ」とか「生まれてきたのは神様の計画」という聖書の教えに救われてきました 泣

「死」ということを思う時に、やっぱり死んだらどうなるんだろうな??というのは率直にあるし人間が考える最終論だと思うんですけど
やっぱり、信仰を持って天国へ行ける!自分は救われてると考えると安心します(/_;)

周りからは
自分の考えと持てとか言われます;
21歳になりますが、中身がまだまだ未熟なので…。

こんなクリスチャンだったら不信感持ちますか??
ちなみに、生粋のプロテスタントでモルモンとかエホバではありません!!
聖書の中に「世の中でも弱いものを」と書かれていますがその通りだと思います。
私のことですよね…(笑)

A 回答 (13件中1~10件)

私はHNからも判るように基本的にカトリックです。


“基本的に”と書いたのは考え方の違いから少し距離を置いているからです。
だからましてプロテスタントの貴方とは少し考えが違うかもしれません。

キリストは天国の門を自らの為に開く為に、生きている今を過ごしなさいと言いました。
その基本は「信じきる事」です。洗礼さえ受ければ天国に入れるわけじゃありません。
私はむしろ洗礼を受けている者の方が茨の道を歩いていると思っています。なぜか。
洗礼を受けているという事は善悪の分別があるということです。洗礼を受けていないのは善悪の区別が付かないのです。
善悪を知っている大人が罪を犯したなら、それは同じ罪でも分別の無い子供より重いという事は判りますか?
だから、洗礼を受けたなら分別をもっていると判断されるので、そのように勉強しなければなりません。だから茨の道なんです。

ではどうすべきか、天国に入れる心身を持つように努力する事です。
身体が弱い、心が弱い事を自覚しているのは素晴らしい事です。でも、間違えないで下さい。
弱い事がいい事ではなく、自分が弱いという事を知っている事が素晴しいのです。
キリストが貧しいものは幸いだといったから貧しい事がいい事なのではありません。
貧しい事、弱い事を知っていれば豊かになろう、強くなろうと努力できます。
そのことに気付かせてくれた事を神に感謝すべきです。神に感謝できる自分が幸せ者なんです。
強いものや豊かなものは時にその事を自覚しません。更に大きな力や富を欲します。つまり神に要求しかしません。だから感謝する事も知らない不幸なものなのです。
貧しいなら富んで人に施せるようになりたいと思うべきです。弱いなら強くなって弱いものを守れるようになりたいと思うべきです。
例え失敗を繰り返しても努力する事。それが天国の門に近づく方法なのです。
詰まらない男に引っかかったなら、なぜそんな男に魅かれたのか、なせそんな男を捕まえてしまったのかを考えて、二度とそうならないように努力する事です。

プロテスタントは知りませんが、カトリックでは告白の祈りに際して「思い、行い、怠り」を罪だと言います。
今の状態に甘んじている事は“怠り”でしかないのです。しかし決して成果を以って善としている訳でもありません。努力する事、成果の為に嘘や偽りの無い事が最も尊い事なのです。
天国に入れるか・・・そう考える事が未熟だといえるでしょうし「信じきって居ない」でしょ。

私も過去に何度も挫折しました。その結果、私は自らの手で天国の門を閉ざしてしまいました。
だから私はその大罪において天国とは無縁でしょう。でもそれでも一人でも多くの人に知って頂きたいと勉強をし続けています。
貴女は量子力学をご存知ですか?もし知らないなら、貴女は量子力学について何か語れますか?
理解する努力もしないで語っている。宗教を否定したり馬鹿にしている人はそういう人を言います。
貴女が量子力学者の中に入って「あなた方は愚かだ」と言っても相手にされないでしょうね。
だったら、キリストの事も理解しない、或いは見当違いの知識しか持たずに何か言う者を相手にする必要も無いはずです。
「自分自身を持て」そういうのは簡単ですが、要するに自らの無知も知らずに知った振りをするような者を完全無視できるような深遠を持ちなさいということなんです。

まずは人生という勉強の場に居る事を感謝し、上を目指しましょう。
何度でも繰り返し学び続ける・・・なんだか公文みたいですが、それが神に与えられたあなたへの恵みなのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます(*_*)
教会の人とまったく同じことおっしゃていますね。
カトリックもプロテスタントも基本は同じなんですよね。

これからはしっかりして頑張ります!!

お礼日時:2011/08/24 11:03

私はクリスチャンの人たちのチャリティ活動などはすばらしいと思います。

仏教、神道は見習って欲しいですね。自分の信じる核があるのはすばらしいと思います。それを他人に押し付け、他人の信条を否定しなければ。キリスト教がたくさんの派に分かれているのは聖書の解釈の仕方がそれだけあるときことで、人間の認識ほどいい加減なものはないともいえます。また、本当にそれが正しいか疑ってみることも大切で、その回答に「信仰が足りない」というのであればよろしくないです。
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信仰は個人の自由です。


神様が心の支えなら、信じて支えにして生きていけば良いです。

困るのが押し付けの信徒。
「神様は素晴らしい存在です。信じないと地獄に落ちますよ???」と言われたら、その宗教も信仰している人も軽蔑します。
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私は神、仏に頼らず人生を満喫している者です。


ある時、暇つぶしで聖書の「創世期」の部分を読みましたが、神は自分に反する者、言う事を聞かない者を容赦なく殺してますね!
名前を忘れましたが、ある村を丸ごと焼き払ってますね?
その村から逃げる際に「振り向くな!」と言う命令し、背いた女性を塩の柱にしてしまいましたね?
神は始めの頃は残酷極まりなかったんですね!私は宗教は信じませんが、聖書はかなり面白い!と言うか生き方の道しるべ的な感じはありますね!
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信仰を持つのは否定される要素はありません。



ただ、現在生きているのに、死んでからのことを考えてもしかたがない。
全能の神であれば、できそこないの人間を創った事からしても矛盾といえます。
また、神の名の下に、中世においてはどれだけの事が成されてきたか、歴史を見てみましょう。
一神教は、人間よりもランクの高い「神」を設定しますが、それこそ希望も何もない。

また、天国とは何か? この世よりずっといいところなら今すぐ死んでみたらどうですか?
このように言及して自殺するものがいない時点で、信用できません。

ただ、どんな信仰を持っていても偉人はたくさんいます。マザーテレサとかもですね。
自己憐憫だけでなく、その信仰が真に価値ある物ならば、自身で証明してみましょう。
それが信仰者として、正しい姿勢ではないでしょうか。

「右の頬を打たれる前にライトクロス」が俺の信条ですので、キリスト教と相容れるところはありません。
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洗礼を受けてはいませんが、心はクリスチャンです。

教会に通っていた時期もありました。

純粋なクリスチャンから見ると、私の信仰は相当「間違って」います。なんといってもやはり基本が日本人的な宗教観から入っているので一神教というものに対してどうしても違和感を感じています。神様がいっぱいいちゃ悪いのか、ってところがありますね、どうしても。
そういう意味で本質的に一神教を理解していません。心はクリスチャンといいながら、ヤハウェはたくさんの神様のうちのひとりに近い感覚でいます。

私のキリスト教観のメインは、遠藤周作氏の「イエスの生涯」です。だから、私にとってはクリスチャンの信仰の根幹である復活でさえ「どうでもいい」のです。ベツレヘムに生まれたわけでもなく、エジプトに逃げていたこともないナザレのイエスが愛を訴え十字架にかけられた。それで充分なのです。水の上を歩いたとか嵐をおさめたというような分かりやすい奇跡物語も重要ではありません。他ならぬイエス自身が「汝らは(奇跡を)見ずれば信ぜず」と嘆いていましたからね。
だから、神を信仰しているというより、イエス個人を信仰しているのが近いでしょうね。遠藤さんはカソリックだったそうですが、彼の説いた「日本人向けイエス像」はプロテスタントに近いのだそうですね。

そんな影響を受けて教会に一時的に通っていた時期がありました。しかし、やがて通わなくなりました。
その理由は、教会というところが「信者ではない人に対してあまりに冷たい」というのを痛感したからです。ご存知でしょうが、教会の後ろの席には、信者ではない人たちがひっそりと参加しています。彼らの表情を見れば、神に、イエスに救いを求めているのは明らかです。「重荷を背負うすべての人よ。来なさい、私のもとに。休ませてあげる。そのあなたを」という言葉にすがってきた人たちです。
しかしそんな人たちに挨拶の声さえかける人はまれです。牧師さんたちでさえ、「今日はよくきましたね。またいらっしゃい」とはいいません。救いを求める人は、ひっそりと来て、ひっそりと帰るのです。

その点においては、はっきりいえばいわゆる新宗教(新興宗教)の人たちのほうがよっぽど親切で暖かいです。

今は私は家でひっそりと自分流にお祈りしています。「あなたが祈る場所が教会である」と聖書にもありますからね。

穏やかな信仰を持つことは、いいことだと思います。私が怒りにも恨みにも囚われずに今日まで生きてこれたのはすべてナザレのイエスのお陰だと思っています。
そういえば、その遠藤周作の「沈黙」があの「最後の誘惑」を作ったマーティン・スコセッシ監督によって映画化されるそうですね。私は今から楽しみにしています。私にとって「最後の誘惑」のラストシーンは名作です。
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こんにちは



私自身もクリスチャンです
ただし、自分の場合には妻となる彼女がクリスチャンだったことから結婚後に信仰を持つようになりました。

質問者さんの様にクリスチャンホームに生まれてクリスチャン生活を続けている人も、信仰を持てなかった人も教会でも見ています。

そんな自分から見たイメージですが、クリスチャンにももちろんいろいろな人がいますが、教会やクリスチャン仲間がいて結びつきが強いせいか、社会への適応や甘さを感じる人も見かけます

社会でうまくいかなくても、クリスチャンとして背負わなければならない重い荷であるとか、週末に教会に行けば同じ信仰を持った人がいるから、友達が居なくてもいいとかです(でも教会にはクリスチャン仲間がたくさんいます!!って書かれているように)

これはクリスチャンに限らず、新興宗教でもそうですよね

クリスチャンにとって日々の生活が証になっていなければと思いますよ

自分自身も信仰をもって良かったと思いますし、自分も神様を信じています。そして、そんな自分を通して、まだ神様を知らない人に神様のことを伝えることも大切な自分の役割だと思っています。
でも、自分は積極的に神様がすばらしいとは言葉で言わないようにしています。日々の自分が見られる中でも神様のすばらしさは伝わると思っているからです。それに言葉では中々人は受け入れてもらえないので・・・

回答になっていないかもしれませんが、そんなことを思っているので書かせていただきました。
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この回答へのお礼

そうなんです…(>_<)

教会の人たちに甘えてしまってる部分があることは確かです;
成長しなければいけない段階なんですよね。

クリスチャンとして、明るく人間として内面的にすばらしい人になること。が今の目標です。

お礼日時:2011/08/24 11:06

広島や長崎に原爆を落としたのもクリスチャン。


イスラム教徒に劣化ウラン弾を撃ち込むのもクリスチャンです。

いろいろなクリスチャンが居りますが、一つの共通項は、クリスチャンは他の宗教を信じる人を認めないことです。
他の宗教を認めてはいけない、と聖書に書いてあるからでしょ。

その点、仏教はおおらかです。
仏教徒にも酷い人間がおって、出家坊主が肉食妻帯を認めてしまうなど、お釈迦さまから見たら堕落・腐敗の時代と言えますが、一つだけ良い点として、キリスト教徒やイスラム教徒に対して寛容なことですね。

南無阿弥陀仏。
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私は何も信仰しません。

信仰しなくても生きていけるからです。

私からしたら、エホバもキリストも創価学会も同じです。心が弱っている時に、たまたま救われた宗教がそれだったんだと思います。

しかし、人が集まり力が大きくなることへの不安はあります。 信仰は洗脳です。だから戦争になる。


あなたが信仰するのは勝手ですし、それで救われたなら幸せなことです

ただし、人に押し付けないこと。他の宗教を否定しないこと。いつでも客観的に自分を見る余裕をもつこと。です。
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日本人には仏教です。


仏教では多数の仏様を拝みます。
私の宗教である真言宗は十三もの仏様を拝みます。

キリスト教はカトリックだと一神教でしたっけ?
神様一人しか崇拝できません。
不条理ですね。

プロテスタントが神と子と精霊でしたっけか。
どっちにしても拝む対象が少ないですね。

キリスト教の国で戦争があり、殺人があり、強盗も有る事実。
キリスト教も俗物の一つです。

日本は信教の自由がありますから、どういうキリスト教徒がいてもおかしくないですよ。
人それぞれですから。

ただし最後のモルモン教とエホバの証人を誹謗したのは許せませんね。
おなじキリスト教ですよ。
世が世なら私もエホバの証人の信者でした。
信仰は自由ですが中傷は止めてください。
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