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手や口を清める理由も手順も知っています。
しかし、テレビに映るような大きな神社で、全員が清めているようには思えません。
実際は、殆んどの人がそのまま初詣をしているのではないでしょうか?

今日、近所の小さな神社に行ったところ、清めるために、30分くらいの行列になっていました。若い人は行列を横目に参拝していました。私は子供連れで、諦めて後日にし、屋台だけ行って帰ろうとしました。すると、知らないおばさんに「並んで!私だって30分も並んだのよ!最近の子は!」とぶつぶつ言われました。私達は屋台だけ行って帰ったのですが、それでも清めるべきですか?

皆さん、どんなに待っても、必ず清めてから参拝しますか?
出来れば年代も教えて下さい。

A 回答 (4件)

50代男性です。


お参りをする時は,どんなに待っても清めてから神様の前に出ます。

お参りせずに境内に入る時は,一礼はします(やらない時も有ります)が,清めは行いません。

神様に対して、お願いをする不浄の人間。という意識を持っていれば、自然にとった行動が正解だと思います。

あくまでも,神様と本人の関係ですから,人の事をどうこう言わなくてもいいと思うんですけどね。
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この回答へのお礼

小さい頃、両親もしていなかったので、結婚して主人に言われるまで、していませんでした。
知らない人に怒られるほどなのかと、ビックリしました。
神様と本人の関係……本当にそうですね。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/01/01 18:37

私は以前から「神社参拝にマナーなどありません」と主張してきました。

ブログにもそう書いています。
その大きな一つの理由が初詣です。
似非常識家や売名霊能者がいろいろ言っていますけど、これまでどこの神社で初詣に正中を空けているところがありましたか?
昨年春に湯島天神に行ったら、初詣でもないのに手水舎の前に出店が並び、手を洗う事ができませんでした。
初詣だからなんて言い訳になりませんよね。神様ごとに例外があるなら、なんでも例外で済ませられます。

実は常識としている作法は明治時代に“一応の手順(指標)”として神職の参拝法を参考に提言されたものであり、「キマリごと」として出されたものではありません。
その後神社本庁が利用者の疑問に答える形でこの方法を答えたことで広まりました。

江戸時代には神仏習合の時代で殆どの神社も寺が管理していたので特に参拝法などありませんでした。手を合わせるだけで充分だったんです。
戦時中も「遥拝所」といって展望の利く高台から靖国や宮城に向かって頭を垂れるだけでも十分でした。
人々もわざわざ鳥居をくぐらずとも目に入ったら頭を垂れる、或いは手を合わすだけの参拝が戦後まで続きました。

更に私達が日常行なっている拝殿前での参拝は「自由参拝」と言って略式参拝なんです。
略式に正式も何もあるはず無いでしょ。
ただ「参拝」といえば本来は拝殿に上がって祝詞を上げていただく昇殿参拝を言います。
昇殿参拝をする際には拝殿に上がる前に手桶での手洗いがあります。これが正式な手水の儀式です。

自由参拝は家で言えば玄関先で挨拶するだけですから、特に手水もしないというわけです。
なので、できれば家を出る際に手を洗ってから行きましょう。
私はペットボトルに水を入れて鳥居に入る前に済ませます。
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この回答へのお礼

ペットボトルに水!
いいですね。参考になりました。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/01/01 18:39

今朝、近所の氏神様に初詣をしてきましたが


「御清め」はしませんでした

…と言うよりも、この質問を読んで気が付きました。

それに、この神社には「手水場」が無かったような?(笑)

普段なら手水場が有る神社に詣でる時は
必ず「御清め」はしますが

初詣のような尋常でない混み方をしているような時は
「御清め」なんて思いつきもしません

お正月と困った時ぐらいしか「神様」を思いださないような
そのクセ困った時は「イワシの頭」にも手を合わせるような

その程度の宗教心で生きていますから…
神様ゴメンナサイ!
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この回答へのお礼

私も「神様ごめんなさい」な人間です。仏教ですし……。
初詣に絶対、なんてないですよね。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/01/01 18:42

それは波動の問題です。

世界は波動で出来ています。魂(霊)も物質も波動です。つまり、物質でさえ、実態がなんなのか、つかみどころの無いものなのです。人間には把握しきれないことなのです。

ところで、神社の神様はその土地を管轄する高級自然霊です。それが神社を取り仕切っています。これは波動がとても精妙で清浄です。人間の波動はとても荒くて汚い、高級自然霊から見たらゴキブリのようなちっぽけな存在です。叡智もまったく及びません。その弱くて不浄な魂の人間が、高級自然霊とコンタクトしに行くのだから、せめて肉体くらいは清浄にしておきたい、という人間の態度を示す、という意味合いが作法にはあると思います。

神様にも上下がありまして、先に述べた管轄者を筆頭に、より現世に働く低級霊へと霊力が下って行きます。その低級霊は末端になると人間と変わらない程度の魂のレベルであるか、またはそれ以下です。この辺の霊は、人間の作法、気持ち次第ではたたりを起こします。

あの世では動機が第一ですから、質問者様が「別に神様に会いに行った訳ではないし、手を洗うことが神様への礼儀だとも思っていない」と言うのであれば、たたりも起こらないでしょう。もし、何らかの悪意があった場合は、低級な使者によって何らかのカルマの返済をさせられます。

正中は神様の通り道です。神様というか、精妙で清浄なエネルギーが空から降ってくる直線です。だからそこを人間の魂が遮断するのは好ましくはありません。しかし、それは知っている人間の動機で、自分にどう結果するかの問題であり、神様にとっては、神様が強すぎて関係ありません。
そして正中を知らない人なら別に何のたたりも起こらないでしょう。

それで、30分並んだ人は、それはそれで自分が選びとった修行なのです。それは立派なことでしょう。
しかし、それを何も知らない他人にも押し付けるのは傲慢です。人間はこういった傲慢を解消して、少しでも思慮深くなるために現世に生まれ、修行して死んでいきます。
あなたに罵声を浴びせた人は、自らの傲慢さを知らないで、また一つカルマを積んだのです。いつかその人は、今世か、繰り返す再生の中で、逆の立場(あなたの立場)を演じ、一つ傷ついて、一つ思慮深くなるのです。
所詮、俗の人間のレベルなどたかが知れているのです。

私は3者の別の霊言からあの世がどうなっているかを整合し、立体視を可能にした若めのおっさんです。矛盾はあまり感じません。裏(証拠)の取れている霊言もあります。私はいわゆる「霊言」そのものを根拠にします。人間が伝え聞いたもの、人間の手垢がついた古い言い伝えなどは、あまり参考にしません。霊言を整理したものは参考にします。

私は手は洗いますし、正中も避けますが、おおらかにやっています。要は気持ちの問題ですね。
神聖さをビンビンに感じる神社もあれば、暗くて低級霊しか居ないなと感じる神社もあります。暗い神社には行きません。神聖な感じのところにしましょう。それに別に1月1日に初詣に行かなければならないということでもないと思います。たまには神様にあいさつして、自分が成長出来ることに感謝しておこうよ、くらいの気持ちでいいです。極端、行くか行かないかも関係なく、心の中で「神様ありがとう」と思っておけばいいです。所詮は自分の波動によって「類は友を呼ぶ」だけです。

実は教会もお寺も同じことで、雰囲気の違いは文化上の方便です。神社の作法も方便です。要はパワースポットが、人間にとって、より神様とコンタクトし易い状態にしておくための維持費のために、色んな儀礼はあるんでしょう。

ただ、神社は確かに産土神=龍神=高級自然霊とコンタクトする場(パワースポット)なので、みんなちゃんと実態を知っておけばいいのにな、とは思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/01/03 11:22

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