関東地方の今年の梅雨明けはいつごろか おしえてください!

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (2件)

いやー、明日は雨ですか?と聞かれるのよりメチャ難しい質問ですよ。


それを前提にお聞きください。


ず・ば・り、7月20日です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

どうもありがとうございました!助かりました!私、つゆって毎年大体時期がきまってるんだと思ってたんですけど、そうじゃないんですね。

お礼日時:2001/06/26 09:59

関東地方って、まだ入梅していないと思います。


したがって、梅雨明けの予想もされていないと思うのですが。

それとも、最近の天気予報って入梅から梅雨明けまでを
一気に予測するのでしょうか?

去年までは、入梅宣言や梅雨明け宣言は
すこぶるあいまいだったような記憶があるのですが。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

そうなんですか。。。 どうもありがとうございました!

お礼日時:2001/05/17 00:46

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q「江戸前うなぎ」とは?

土用丑の日も近く、うなぎが気になります。
うなぎの蒲焼の焼き方は、関東と関西で違うそうですね。
関東は蒸してから付焼きにする、関西は蒸さない。

「江戸前うなぎ(蒲焼)」と称する鰻屋さんがありますが、HPなどを見ると、関東風の蒲焼を出している店が多いようです。

私は「江戸前」というのは、江戸の海でとれた魚のことだと思います。
落語風に言えば、「品川沖に船を出してとってきた魚」。
だから「江戸前うなぎの店」というと「東京湾でとれたうなぎを出す店」と思っていました。
焼き方だけでいうなら、「関東風うなぎの蒲焼」とか「東京風の蒲焼」だと思うのですが、どうなのでしょうか?
たくさんの方のご意見をお聞きしたいです。

Aベストアンサー

江戸で鰻が流行したのは、江戸城のお堀拡張などの工事を行った時に大量に鰻が採れたからと言われています。
その当時は筒切りにした鰻を串に刺したものや小ぶりの鰻をそのまま串に打って焼いて、味噌や酢をつけて食べていたそうです。
その形から蒲穂(がまほ)焼きといわれ、後に蒲焼という名前になったそうです。
裂きが広まったのは、1750年前後と言われており、
裂きの古い記録は、林鴻作著「産毛」(1700頃)の京都四条河原の夕涼みの絵に、露天の鰻売りが描かれ行燈には「鰻さきうり」「同かばやき」と描かれているのが見られます、蒲焼と裂きは別の料理だったようです。
また、江戸は武家が多かったので、腹裂きは「切腹」に通じると言って、縁起を担ぐ昔の人は嫌っていました、なので、関東では背を裂く捌き方が広まりました。

江戸前と言う言葉の意味は諸説あり、
1.江戸城の前でとれた鰻を江戸城前と言ったのが始まり

2.1と被るのですが、江戸時代に江戸前島という島(半島のような鼻)がありその前で採れた物を指していた、品川沖は厳密には江戸湾ではないですし、品川宿が江戸に含まれていません、江戸は高輪の大門まで(江戸後期辺りから)。
江戸湾は今のような広範囲の物ではなく、皇居の前が日比谷入江と呼ばれ、現在の皇居と東京、有楽町、新橋を結ぶラインの間は海でした。
1620年ごろには埋め立てが進み、東海道に沿った地形になります、そのときには江戸前島は消滅してしまいました。
この日比谷入り江を埋め立て、堀の工事をした時に鰻が多く採れたと言うことです、今は地名にしか残っていない小石川や平川と言う川がありました。
その後、品川沖から江戸川下流までを指すようになったと言うことです。

3.職人の仕事のことを上方(大阪)流に対し、江戸流(流儀)のと言う意味で江戸前と言った。

現在の江戸前はこの3の職人の江戸流儀の仕事を指すほうが主流になっていると思われます。

ちなみに現在のタレの味は1800年ごろに出来たようです。

江戸で鰻が流行したのは、江戸城のお堀拡張などの工事を行った時に大量に鰻が採れたからと言われています。
その当時は筒切りにした鰻を串に刺したものや小ぶりの鰻をそのまま串に打って焼いて、味噌や酢をつけて食べていたそうです。
その形から蒲穂(がまほ)焼きといわれ、後に蒲焼という名前になったそうです。
裂きが広まったのは、1750年前後と言われており、
裂きの古い記録は、林鴻作著「産毛」(1700頃)の京都四条河原の夕涼みの絵に、露天の鰻売りが描かれ行燈には「鰻さきうり」「同かばや...続きを読む


人気Q&Aランキング

おすすめ情報