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「善人であれ悪人であれひとたび南無阿弥陀仏と唱えれば皆等しく極楽浄土へ往ける」

親鸞聖人はこのよーに説いております。

極楽往生するには一度だけ南無阿弥陀仏と唱えればよいのであるから、極楽往生するのに戒名するしないは何の意味もありません。

あるいは極楽往生するのに無縁仏になろーがなるまいが何の影響もありません。

往生とは坊主の力を借りて往生させてもらうことではありません。

ただ一度だけ南無阿弥陀仏と唱えればよいのです。

皆もこれについては何の疑いも有りますまい。
 

A 回答 (16件中11~16件)

 いや、「既に阿弥陀仏に救われているから、感謝として南無阿弥陀仏と唱えておきましょう」ということです。



 万人にとって、いつでも成立する真理ではありません。物理的に困窮しきって現世で救われず、生きていくためには善行をする余裕どころか、悪行をやむを得えず行わざるを得ない。しかし、そのため来世は地獄に堕ちると、精神的にも打ちひしがれている人を救うために発した教えです。

 昔も現代も一部にはいる、宗教の意義を忘れた、いわゆる葬式坊主は唾棄すべきと私は思います。戒名がないと、死後に修行ができない、などというのは恐喝ではないかと思います。戒名のランクで金額がありますしね。

 しかし、目の前の人を救おうとして努力した人の言葉を恣意的に使っては駄目でしょう。善い方向に活かせるなら、その言葉を借り、間違った使い方なら正す。そういうことでなければなりません。親鸞も、既に救われていることを曲解する輩に警告を発しています。たとえば、死後に必ず救われるなら悪行を重ねても良いかと問われて、毒消しがあるからといって、進んで毒を飲んではいけないと喩えています。
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この回答へのお礼

 
御回答有難うございます。

前半の考えについては全くその通りであると思います。


>しかし、目の前の人を救おうとして努力した人の言葉を恣意的に使っては駄目でしょう。善い方向に活かせるなら、その言葉を借り、間違った使い方なら正す。そういうことでなければなりません。親鸞も、既に救われていることを曲解する輩に警告を発しています。たとえば、死後に必ず救われるなら悪行を重ねても良いかと問われて、毒消しがあるからといって、進んで毒を飲んではいけないと喩えています。

さて問題はこの部分であります、
どのよーな教えに対しても、その裏をかこーとする輩は常におります。
しかし喩えそーであったとしても「善人であれ悪人であれひとたび南無阿弥陀仏と唱えれば皆等しく極楽浄土へ往ける」と説いた親鸞の教えはやはり正しいのであり、これを全面に出さねばなりません。
何故なら、そのよーに説く以外に真の大乗は成り立たないからです。
 

お礼日時:2012/10/28 19:53

連投すみません。



ちょっと思いつきました。

なぜ一度、称名念仏するだけで救われるはずなのに
何回も唱えるのか?

それは、不安になるからです。

ありがたさに何度も念仏が出てくるといいますけど
違うと思います。

本当にたった一度、名前を呼んだだけで
救われるのか?

考えてみてください。

これってかなりつらいですよ。
悩めば悩むほど。

逆に称名念仏を止めてみてください。

たぶん、また唱えると思います。


なぜなら、信じられないから。
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この回答へのお礼

 
>本当にたった一度、名前を呼んだだけで
>救われるのか?
 
親鸞聖人がそーゆーておるんであるから間違いないんでないの。

もしこれを疑うんであれば浄土真宗は成り立ちません。

 

お礼日時:2012/10/28 19:23

阿弥陀仏について書かれてあるのは


なにも浄土三部経だけではないし、
念仏といっても、観想念仏もある。

観想念仏を称名念仏にしたのは善導

天台では、朝題目に夕念仏。

阿弥陀信仰というとどうしても
法然と、親鸞ばかりでてくるし、

人の道さんも親鸞の名前を出すけど、

親鸞の名前を出さなければいいんじゃないの?

親鸞の名前を出していうから、教義的に違うとか
となるけど、

人の道は称名念仏一回で良しって
やればいいだけではないですか?
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この回答へのお礼

 
>阿弥陀信仰というとどうしても
>法然と、親鸞ばかりでてくるし、

阿弥陀仏教は法然に始まり、親鸞で完成したのです。

そして「善人であれ悪人であれひとたび南無阿弥陀仏と唱えれば皆等しく極楽浄土へ往ける」と説くに至ったのです。

これ程のことを説き得たのは、世界広しと言えども親鸞をおいて他には誰もおりません。

まさしく真の大乗がここに芽生えたのです。
 


 

お礼日時:2012/10/28 19:17

こんにちは。



神の存在の証明はまだのようです。人間の認識は限られていますから。
以前から気になっていたんですが一つだけ質問していいですか?
人の道さんの神様は「宇宙の法則」でしょう。何故「南無阿弥陀仏」を唱えて極楽浄土に行くことを勧められるのかが 私のような凡人には理解できないのですが。
よろしかったら 説明してもらえませんか?「南無阿弥陀仏」と「宇宙の法則」の関係です。
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この回答へのお礼

 
こんにちは。

>何故「南無阿弥陀仏」を唱えて極楽浄土に行くことを勧められるのかが 私のような凡人には理解できないのですが。

ここで肝心なのは、「善人であれ悪人であれひとたび南無阿弥陀仏と唱えれば皆等しく極楽浄土へ往ける」とゆーた親鸞聖人の言葉です。

南無阿弥陀仏と一回唱えることは別段難しいことではなく、口さえあれば誰でも出来ることです。

つまりこれは善人も悪人も死ねば皆同じであるとゆーておるんです。

このよーに親鸞聖人の言葉の真意が何か考えたとき、その心は極めてアルケー的であり、「宇宙の法則」に合致するものであることが分かるのです。
 

お礼日時:2012/10/28 15:30

こんにちはです。




「善人であれ悪人であれひとたび南無阿弥陀仏と唱えれば皆等しく極楽浄土へ往ける」
~~~~~~~
親鸞によれば、善人はぜってぇ~行けないんでげす。極楽は、悪人のための《ら・く・え・ん》。



極楽往生するには一度だけ南無阿弥陀仏と唱えればよいのであるから、極楽往生するのに戒名するしないは何の意味もありません。
~~~~~~~
《大無量寿経》によれば、心から最低十回くらい唱えないと駄目らしいでげす。
しか~し、親鸞によれば、一回の念仏すら不要。なんせ、根っからの極悪人。念仏しようという気持ちがまったく起こらない。まぁ、それでも、「《南無阿弥陀仏》のことばが自然と口から出たのなら、ま~いいか」らしいでげす。
極楽に行くためには、自力で「善くなろう」と思っちゃ駄目なんでげす。自力で念仏をしちゃ~、いけないんでげす。


あるいは極楽往生するのに無縁仏になろーがなるまいが何の影響もありません。
~~~~~~~~
そうだ、そうだ。そのヘンでのたれ死のうが関係ない!!



往生とは坊主の力を借りて往生させてもらうことではありません。
~~~~~~~~
そうだ、そうだ。もっと言ってくれ~。
真宗の坊主に阿弥陀さんの《他力》の力など、ありゃ~しねぇ~。
葬式だぁ~、それこそ、阿弥陀さんの《本願力》をまったく信じていない、何よりのア・カ・シ。自・己・矛・盾!!
ゴータマ・ブッダは、「オレが死んだら、きっと誰かがオレの葬式をやるにちがいない。でも、おめぇらは、ぜって~、オレの葬式にかかわってはなんねぇ」
と、仏弟子たちに遺言している!!



ただ一度だけ南無阿弥陀仏と唱えればよいのです。
~~~~~~~~
《南無阿弥陀仏》をしちゃ駄目です。念仏しようという殊勝な気持ちがあるうちは、極楽にはいけねぇ~。そんな気持ちは殺さなきゃ、《他力》になんねぇ~。
なので、《南無阿弥陀仏》は、アルケーの道の探求する《ひとのみち》さんとは、対極に位置する道なのでは、と。。。。
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この回答へのお礼

 
>なので、《南無阿弥陀仏》は、アルケーの道の探求する《ひとのみち》さんとは、対極に位置する道なのでは、と。。。。

なんで南無阿弥陀仏とアルケーの道は対極に位置するなどとゆー結論に至るのかな。

「善人であれ悪人であれひとたび南無阿弥陀仏と唱えれば皆等しく極楽浄土へ往ける」とゆー親鸞の言葉はアルケー的にゆーて正しいのである。

これはつまり善人も悪人も死ねば皆同じであるゆーことになるのでから宇宙の法則に合致するんでないの。

人が死んで皆一つになればそれが極楽であると考えればそれでえーんでないの。
 

お礼日時:2012/10/28 14:49

 質問になっていませんよ。

ご自分の見解を述べる場ではありません。
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この回答へのお礼

 
形に囚われることは愚かである。

中身を考えれば質問であることは明らかなはず。

実際、No.2さんのよーに立派な答えが返ってくるし。
 

お礼日時:2012/10/28 14:30

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