「これはヤバかったな」という遅刻エピソード

おはようございます。

昨日、ある高校の体育科の入試を中止する、
でも、スポーツに特色あるカリキュラムを組んで普通科として受け入れる、との決定がされたようです。
今回の決定は、在校生や受験生等多くの反対を押し切るようなものになっているように思います。

みなさんは、今回の決定をどのようにおもいますか?

ウソツキは、スポーツに特色あるカリキュラムを組んで普通科として受け入れるなら、
体育科として受け入れても、同じだと思います。
看板の掛け替えではないといってますが、それなら、看板を替える必要はないと思います。

また、今回の決定によって、在校生や受験生等、直接的な影響を受けた一部の人から、ある家族がバッシングされる事態になるのではないか(すでに、されているかも)とも思いますが、橋下さんは、この家族に対するケアをどのようにするのでしょうか?

A 回答 (16件中1~10件)

No.7&14&15です。

度重なる回答にお目通し頂き、こちらこそありがとうございます。

質問者様から反論を受けているなどと私は全然感じていないので、大丈夫です。

>意識改革とは、個人の思想をかえることだと思っています。

>やらなければいけないことは、意識改革ではなく、体罰という行動を抑止するための手法の検討、構築であり、
>これは、当該学校のみの問題ではなく、全ての学校の問題なのではないでしょうか。

なるほど、その通りかも知れませんね。

私は、今までの人生で、たびたび、「体罰」を目の当たりにしてきました。
自身が教わる立場だったときも、教える立場となったときも。

双方経験した中でも、強く印象に残っているのは、後者です。

後者は、保護者の貧困や虐待のため、家庭で養育されることが困難な子どもを育成するための孤児院で体感しました。
(私自身は、大学の実習の一環として、その養育現場へ参加しました。)

ケアが必要な子を護るべく場でも、やはり、体罰がクセになっている指導者はいたのです。
その人は、自分の思い通りにならないトラブルが起こると、相手が就学前の幼児だろうとおかまいなく、怒声をあげて殴りつけ、「ココではオレがルールだ!解ったな!」と、わめきちらしていました。
大人からの暴行にトラウマを抱えた子どもたちが入所している施設で、こんなことがまかり通っている現実に唖然としました。

その指導者が激昂し始めると、子どもたちは揃って、反射的に両掌を頬に当てる仕草を見せていました。
いつ、ビンタが飛んできても、顔をガードできるように。

そんな指導者の背中を見て育つ後輩指導者も、徐々に、その指導者と同様の態度を子どもたちに見せ始めるようで、「いずれ、あの先生も、例の暴力オヤジそのものになるんだろうな…」と、子どもたちは達観した様子で囁き合っていました。

そんな子どもたちの様子や院内の空気に、職員たちは皆、気付いていたようですが、「その先生の方針に下手に逆らうことで、自分たち自身が、後々、面倒なことにならないために」、また、「手のかかる子どもに対しては、その先生をうまく使って御灸を据えさせれば、自分たちは憎まれ役にならずして子どもをコントロールでき、かつ、自分たちの仕事も軽減され、便利な事この上ないゆえに」、事実上、体罰は黙認された格好となっていました。
職員会議では、体罰に関するテーマでの話し合いは、完全タブーとされていました。

個人的な身の上話を長々と書き連ねてしまい申し訳ありませんが、私が実習生として潜入した福祉施設で、現実問題として、こうした例を見せつけられたこともあり、私は、体罰を起こした張本人のみにその責任を問うのではなく、そうした環境が生み出された背景も視野に入れた上で、教育現場を担う周囲の関係者同士、皆が己の問題として、解決策や改善案を講じるべきではないかという風に考えてしまいます。

本件に限らず、世間を騒がせる事件を知ったとき、人は、自分の過去の経験や記憶から、事件と共通項のある情報を探り当て、それを指標に、事件の性質を判断しようとする部分があります。
今回のケースで、体罰を容認する思想や生徒や親を全面的に「悪」としたがる人の中には、少なからず、過去に体罰ならびに疑似体験に苛まれたことがあり、その中で植え付けられた恐怖心や嫌悪感や反骨精神を「悪の制裁・成敗」といった言動で解消しようとするケースがあるのかも知れません。

私自身、体罰に関する他の質問で、体罰反対の趣旨の回答をした身です。
前述した過去の想い出により、「体罰は悪」という価値基準に支配されているがゆえです。
ただ、それは、あくまで、個人の思想の問題であって、質問者様の仰るように、他の誰かの価値基準に強引に踏み込んで、自分のそれに染めようとしたり、相手の方向転換を強要すべきものではないと考えています。

「自分の思う悪」が、他人にとって「善」の場合はあります。当然、その逆もあり得ます。
そこを踏まえず、ただ、“自分なりの善悪の判断基準”を絶対的なものにするために、自分以外の誰かを「絶対的な悪」に仕立てあげ、そこへ一斉に攻撃・糾弾を仕掛けることで、(自分たちの)一致団結を図ろうとする思考が、私はキライです。

>ただ、ただ単に、その学校に対してなにか処分を行うことが、問題の解決であるとされているように思えてなりません。その処分によって、迷惑を被る人に対するケアもなくです。

そうですね。あの学校も、「善・正しさの立証のために、分かりやすい悪へと仕立てあげられた被害者」のようにも思えます。
個人の思想・価値基準による弾圧は、体罰の残忍性そのものです。
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この回答へのお礼

再度の回答、ありがとうございます。

わたしは、自分が決められたルールを意識的に破ったときには、体罰を受け入れます。
ただ、そのルールは、個人の思惑によって変化するものではなく、一義なものでなければなりません。

回答者さんが書いていただいた件では、ルールが個人の思惑によって変化するものであるため、それは、体罰ではなく、暴力であると思います。

教育現場であれば、暴力が体罰という表現に変わることが、正直不思議でなりません。

おの市長は、最初暴力という言葉を使いましたが、いつのまにか体罰に変わってしまいました。
暴力は、犯罪です。
現場が市立高校であること、教師が地方公務員であること等から、不用意な発言が自身の責任追及にまでいきかねないとでも思ったからでしょうか?
一方で、自身のメンツのために、振り上げた拳をおろすこともできないで、いまにいたっているのでしょうか?

最後に、ほんとうに、何度もご回答いただきありがとうございました。

お礼日時:2013/02/08 21:23

No.7&14です。

ありがとうございます。

No.14で、私は「争点は学校の意識改革」と書きましたが、その責務が生徒にあるとは考えていません。
意識を改める必要があるのは、教員側だと思います。

今回の事件をイチ顧問の異常行為で片付けるのは簡単ですが、そこまで顧問を追い詰めた背景をスルーして、ただやみくもに顧問や生徒たちを責め立てるのは、お門違いのように思います。

そもそも、生徒が先生を絶対的に信頼し、安心して教育を受けられる環境を整えるべくは教員側の問題で、生徒は先生の指導方針に何の疑いもなく、ついて行っていいのです。
学校とは、そういう場所のはずだからです。
生徒が先生の教育方針に疑問や不安を感じること自体、あってはならない問題なのです。
あってはならない問題を引き起こした責任は、大人たちにあります。

生徒が母校を絶対的に正しいと信じて疑わない思考や発言に逐一あげ足を重ね、「おまえらも同罪だ」などと生徒を非難するのは筋違いだと思います。
10代やそこらの少年少女を相手に、「大人の対応」を求めること自体、酷です。
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この回答へのお礼

再度の回答、ありがとうございます。

意識改革とは、個人の思想をかえることだと思っています。
そして、今回の件では、体罰はダメであるという思想に統一しようとしています。

ハッキリいえば、体罰を容認する思想を持っている生徒や親が悪であるといっているのです。
このように、個人の思想に踏み込むこと自体が間違っているのではないでしょうか。

やらなければいけないことは、意識改革ではなく、体罰という行動を抑止するための手法の検討、構築であり、
これは、当該学校のみの問題ではなく、全ての学校の問題なのではないでしょうか。
あの市長の発言は、このようなことには、一切ふれず、ただ、ただ単に、その学校に対してなにか処分を行うことが、問題の解決であるとされているように思えてなりません。その処分によって、迷惑を被る人に対するケアもなくです。

これまで、回答いただいた方の中にも、不祥事があったのだから、全員が連帯責任を負うというような趣旨の発言をされたかたがいます。はたして、そうでしょうか。責任を負うべきは、当事者のみであるのでは。

今回のお礼では、ウソツキの考えを書いたものであり、回答者様に対して、質問したり、反論したりするものではありません。

お礼日時:2013/02/06 10:59

No.7です。

お礼ありがとうございました。
隔離?大丈夫でしたか?

折しも本日、高校では新カリキュラムの説明会が開催されたようで、少し気になったので、報道内容をチェックしていました。
学校側の説明によると、従来の普通科より体育の授業は充実させるとのことで、安心した受験生もいる一方で、市長が提唱した「教師総入れ替え案」の検討については、学校側も明確な方向性を打ち立てることができない?状態のようで、不安や迷いを抱えたまま願書の提出期限を迎えるしかない受験生や保護者もいるようで、気の毒に思いました。

「あの先生の授業が受けられなくては、あの高校を志願する意味がない」とまで、憧れの先生からの指導を熱望し、受験に向けて努力してきた受験生が、看板の掛け替えによって、今後の人生を左右されかねないことも、軽視できない課題だと思います。

受験生本人にしてみれば、看板の掛け替え策によって、たった一度きりの自分の人生をめちゃくちゃにされたくはないと願うのは当然の心理です。
在校生だってそうでしょう。

そしてそれは、亡くなられた生徒さんの死を軽視することとは、まったく別問題だと思います。
そこの問題点を混合し、在校生や受験生をバッシングする意見が少なくない現状を、私は残念に思います。

事の発端を招いた市長は、反発や不満の声に対し、「僕のやり方に不満があるなら、次の市長選挙で僕を落とせばいい」という風に仰せのようでしたが、そういう問題でしょうか?

>あとに被害者が続かないようにすることが、最も大事なことではないでしょうか。
>そのために、今回の決定をしたとおもうのですが、

そうなんですよね。
今後の争点は「学校の意識改革」であって、「市長の人気改革」ではないと思うのですけどね。
頭の悪い自分は、市長の崇高な思考に、今ひとつ馴染めません。
混乱の責任問題を、ただちにそういう発想と結びつける様子に、「結局、落ち着くところは『そこ』なのね」という印象を受けたものです。

市長にとっては「自分が辞任すれば済む」と、短絡的に考えることが許される問題かも知れませんが、人生の歯車を狂わされた受験生、愛校心をズタズタにされた在校生の心の傷は、当分、修復不可能ではないでしょうか。

ご質問の後半部分の「ある家族」ですが、どのご家族を指すのか、ご質問の段階ではよく解らなかったので、後半部分の問いかけに対する回答は割愛させて頂いてました。
ご質問のあとも、関連情報を追いかける内に、次第に、質問者様が何を危惧されていたのか、見えてきた感じです。

市長の思惑など知る由はありませんが、公の場でのコメントを聞く限りでは、質問者様がご質問や今回のお礼の中で提唱された不安要素についてまで、深く想いを馳せる気はなさそうな印象を受けました。
不満や反発の矛先が巡り巡った結果、最終的に悪者になりかねない「ある家族」の立場を、少しでも慮る気持ちが市長にあるのなら、自身が打ち立てた強攻策への非難の声に対し、「それなら僕を市長から外せばいいじゃん」的発想以外に、もっと別の言葉が出てきてもおかしくないはずですが…。

>ある家族の味方になったつもりで、そこの学生に攻撃を仕掛けるバカどももいるのです。

それが、ひいては、そのご家族をかえって苦しめる結果となる。

市長は在校生に対するバッシングを止めるよう、世間へ呼びかけたようですが、自分の強攻策がそうしたトラブルに発展しかねないことを先読みした上で、行動に移すべきでしたね。

>行政を司る上で、メディアにのっかるという安易な方法がよいと思えないのです。

私もそう思います。
騒ぎに便乗したかのように、ある部活動の部員を名乗るツイートまで出回り、その発信源が、なりすましなのかどうか、真偽を確かめるでもなく、安易にニュース記事となり、全国に配信された事件には、開いた口が塞がりませんでした。

道徳心や正義感で場を仕切ることが良い結果を生むとは限りません。
事実、今回の強攻策により、被害を受けた人は多数いるでしょう。

市の代表として行政を司る立場としては、市民全体の意向を公平に洞察し、長期的な視野で市民全体の暮らしを請け負う姿勢も求められると思います。
市長にとっては、自身の進退問題も気になるところかも知れませんが、それより、市民のことを優先的に想ってほしいものですね。
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この回答へのお礼

再回答ありがとうございます。

ウソツキは、ちょっとしたことで一時入院することになっただけです。
いまは、何も問題ありません。

この件では、体罰を見ていた在校生や卒業生までをも悪者にしているような感じを受けます。
本当にそうなんでしょうか?
在校生や受験生の意識改革ができなければ体罰はなくならないのでしょうか?

ウソツキは、違うと思います。

今回の市長の行動は、自分の意に沿わない教育委員会に対して、圧力をかけたかっただけのようにしか見えませんでした。

お礼日時:2013/02/04 23:31

ご自身も剣道なさる、とある橋本総理(当時)が、


在任中、国士舘大学の剣道部で上級生が下級生の腹
を蹴って死なせた事件がありました。
総理は、伝統あった国士舘の剣道部をすぐさま廃部
にしました。
当時、「なぜ廃部?」などと部員が騒いだとの話は
聞きませんでした。

中学生の夏合宿のとき、国士舘の2年生と4年生の
学生さんにコーチしていただきましたが、礼儀正しく
しかも、とても強かったです。

非を悔いて、黙って橋本総理の裁定に従い、廃部を受け
入れた、国士舘大学の剣道部って、立派だったんだなと、
今にして思います。
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。
しばらく、隔離されていました。お礼が遅くなってすみませんでした。

思い出話ありがとうございました。

お礼日時:2013/02/02 20:49

なにも多くを語ることなんかありません。



将来のあったひとりの有能な若者が学校側の行き過ぎた指導、つまり暴力がもとで死を選んだのです。現代では、人はとかくこのような死という結果を軽く見過ごしてしまいがちですが、一人の人間が死を覚悟するということは大変なことなんです。

したがって、正義感を露わにした橋下市長の気持は当然のことだと思います。

にもかかわらず、当のコーチ、校長、あの高校の他の教師たち、誰一人として、自分の名前を堂々と公表しながら自身の考えることを述べた者は誰一人として居ませんでした。

居たのは、取材側に顔を映させず、声を変えた報道を求めながら、ボソホゾと小声で橋下市長の意見に反対を示したものだけにしか過ぎませんでした。

市長の要請を受けて、教育委員会は、まるで不本意といった、うんざりと苦渋の表情を浮かべながら、それでも、しかたがない…とばかりに体育系の入試を断念しました。

ところが、一部の学生たちが直接市長に詰め寄る事態となりました。

彼らが、直接市長に直訴したということは、とりもなおさず、教育委員会も学校側も、なぜ入試を中止したのか…をきちんと彼らに説明し納得させ得ていなかった証拠ではありませんか。

つまり、学校関係者も教育委員会の面々も、あの橋下の強い調子じゃ不本意ながら中止もしょうがない、あとは学生たちの直訴の効果をそっと横目で見て居よう…。彼らは結局この程度の教育者?にしか過ぎなかったってことでしょう。

しかし、だからといって、他の学科まで全面的に入試の中止としてしまうのは、時期的に見て受験生に対しての配慮に欠ける。

それはなぜか…、入試は中止した、だが、それで校内や教育委員会の面々が、今回の不祥事と自身の愚かさを恥じて姿勢を正したわけでもない。しかし、ひょっとしたら、いずれは、馬鹿で無気力な教育者?たちも芯から反省し姿勢を正す…かも…知れない。

だから、その日のために有能な生徒だけは確保しておくのも悪いことではない。とりあえずは体育系以外の入試は実施とし、体育系を目指す者も、とりあえず普通科を受験させればいい…。

これが、ご質問への答えなのでしょう。でも、野球、フィールド競技、サッカーやラグビー、そのほかの種目、全国の高校の実力を見れば、なにも体育系の学生だけが強いわけじゃない。

だったら、そんな看板だけの、中身の腐りきった高校なんかに進学を希望する当人や親たちのなんと愚なことだとわたしは言いたいのですけれどね。
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。
しばらく、隔離されていました。お礼が遅くなってすみませんでした。

>他の学科まで全面的に入試の中止としてしまうのは、時期的に見て受験生に対しての配慮に欠ける。

なら、一部の受験生に対する配慮は必要ないのか?
もっと、よい対応があったのではないかと思います。

お礼日時:2013/02/02 20:37

入試中止は当然のこと 廃校にならなかっただけましというものですが


これも 大人の事情で玉虫色 どうにでも出来る裁定だったと思います

このニュースを聞いた時 一番腹立たしかったのが 新人戦に出場してもいいか尋ねたことと
練習の再開を訴えていたことです

このような考え方をする諸先生方や生徒さんの居られる学校に よくもまあ受験されるなと・・・
私なら受験させません

次に不思議に思えてならないことの一つに 在校生達がなぜ改善策を先生方もしくは教育委員に
訴えでないのか・・・これは先生方もそうです 改革をしようと言う行動をなぜとらないのか・・・
何らかのアクションを期待していたのですが、現時点では残念でなりません

立ち上がって改革する気はないのか?このまま喉元過ぎるのを待っているのでしょうね・・・
次の犠牲者が出ないことを 心から願っています




 
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。
しばらく、隔離されていました。お礼が遅くなってすみませんでした。

>立ち上がって改革する気はないのか?

パフォーマンスだけをしている人は、いますねぇ。

>次の犠牲者が出ないことを 心から願っています

そうですねぇ。

お礼日時:2013/02/02 20:29

そんな学校に入りたい人間の気持ちと そんな学校に行かせようとしている親の気持ちが全く理解できない。


暴力に苦しんで自殺にいたった事を勝手に死んだとでも思っているのか‥?
在校生やその親やあの学校に入りたいと思っている中学生も自分本意でしかなく亡くなった生徒や親御さんの気持ちを無視してるようにしかみえないね。
あの学校は取り潰しにしても良さそうな気さえする。
死んだ生徒じたいの問題じゃないのに 良くまぁ あんな学校に行きたい行かせたい等と言えたもんだ。
狂ってるとしか思えないね。
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。
しばらく、隔離されていました。お礼が遅くなってすみませんでした。

おそらく、みんなが自分本意なのだと思います。

お礼日時:2013/02/02 20:25

一人の命を奪うような事態があったのに、その看板を放置しておけば、それこそ75日も経てば事件はなかったことになるでしょう。



少し考えれば危険だと分かるレバ刺しを客に出し、死者を出した焼肉屋がそのままの店名、管理者、調理人で営業を続けることなどできないのと似たようなものです。

私が亡くなられた方の親であれば、学校名が残っているだけでも生涯苦しむでしょう。

極端な話、学校側の重大な過失で生徒が死に追い込まれるような私立なら入学希望者が集まらず学校自体が潰れる事態も考えられます。

それなのに公立だからと死者がでているのに「私たちの楽しい高校生活を奪わないで」とクラス替えで仲良しの友達と別れることに文句を言う小学生のような甘え丸出しで教師の異動に反対する記者会見を行った生徒たちを止められる大人がいなかったことが残念でした。

会社であれ、学校であれ、伝統あるスポーツ団体であれ、その組織自体の重大な過失で死者を出した場合、その組織の存続が危うくなるくらいの社会の常識を生徒たちに教えて欲しいですね。
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。
しばらく、隔離されていました。お礼が遅くなってすみませんでした。

看板を架け替えたかどうかによる違いは、変化はないと思います。
逆に、看板を架け替えて、実情が変わっていないのに、気づかれないように行動するほうが問題ではないのでしょうか。

お礼日時:2013/02/02 20:18

普通科でもスポーツができる環境ならば名称はどうでもよく、肝心なのは入学する生徒本人のやる気です。


それが分かっていれば、橋下さんの自己満足に付き合えば済むことだと思います。
体育科でないとスポーツができないというのが勘違いであるならば、その払拭が必要でしょう。
反対しているということは、今後同等レベルの体育教育が受けられなくなると思っているからですね。その不安が払拭されれば名称はどうでもいいです。
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。
しばらく、隔離されていました。お礼が遅くなってすみませんでした。

今後同等レベルの体育教育が受けられなくなるのか、ならないのか?
そこが、一番大事であり、そのことを明確にせず、ただ単に、看板を架け替えてうけいれれば、
入った生徒の中に、かならず自分の思惑とことなった結果になったと思うひとがでてくるえしょう。
その人は、どうするのでしょうか?橋下さんの自己満足と思って、あきらめろということでしょうかねぇ。

お礼日時:2013/02/02 20:08

>看板の掛け替えではないといってますが、それなら、看板を替える必要はないと思います。



私も質問者様と概ね同じ考えです。
でもそれは、自分が本件の部外者だからこそ、言葉にできる意見です。

私が亡くなられた生徒さんの親御さんだったとしたら…。
大切な我が子をこの世から奪い去るきっかけとなった場所で、何事もなかったように整然と掲げられたままの「看板」を見続けるのは…つらくてたまらないだろうと思います。

せめて、我が子が生きてさえいてくれたなら。
我が子にどれだけ、ひどい仕打ちをしでかした相手も、いつかは許せるときが訪れたかも知れません。
たとえ、死ぬよりつらい日々が、子を待ち受けていたとしても、時が過ぎ、試練の日々を過去の出来事として振り返ることができるようになれる時期を待って、「いやな過去を見返してやれるくらい、強くなってやれ!」と、我が子の背中を押してあげることも叶ったでしょう。

だけど、子はいなくなってしまった。
転校したとしても、卒業したとしても、今後、「看板」を目にしたり思い出すたび、過去の苦い記憶に苛まれるであろう我が子を、「今はつらいだけの日々でも、いつかはそれを成長の糧に変えられる時が来るはずだよ」と、励ましてあげられる機会は、もう失われてしまったわけです。
子が遺した制服に、学生鞄に、靴に、ユニフォームに、「看板」にまつわる記憶を蘇らせては、我が子の苦悩を想い、我が子を救えなかった無力な自分を呪い、これからの生涯、あとどれだけの回数、己を責め続けることでしょう。

もちろん、「看板」が替わることで、子が生き返るわけでもなければ、子を亡くした悲しみや悔いが癒されるわけもないことは承知しています。
でも、かけがえのない我が子の遺した苦しみの傷跡が、学校の歴史に影響を及ぼすという大きな結果によって風化されずに済むのなら、我が子が生命をかけて訴えたかった無念さも、少しは慰められるのではと思えます。
「在校生や受験生等、多くの人の反対の声を押し切った」施策だからこそ、多数派意見よりも、たったひとりの我が子の声なき声が慮られたことを、素直にありがたく思えそうです。

世間からは、子どもじみた感情論、後ろ向きな発想、逆恨みと罵られて当然な考えかも知れません。
だけど、それが、たったひとりで傷を抱えたまま旅立ってしまった我が子の代わりに、永遠に癒されることのない傷を抱えて生きていくほかはない人間としての素直な想いです。私が親なら、そう思います。
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。
しばらく、隔離されていました。お礼が遅くなってすみませんでした。

でも、あとに被害者が続かないようにすることが、最も大事なことではないでしょうか。
そのために、今回の決定をしたとおもうのですが、

ある家族に対する攻撃だけではなく、ある家族の味方になったつもりで、そこの学生に攻撃を仕掛けるバカどももいるのです。
だから、行政を司る上で、メディアにのっかるという安易な方法がよいと思えないのです。

お礼日時:2013/02/02 20:02

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