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東梅田駅の位置について、Wkipediaでは「建設中に落盤事故があるなど工事が難航したため、谷町線のトンネルを当初計画に対し東側寄りに掘り進むことになり」と簡素な記述になっていますが、どういう事故がどの辺で起きて計画が変更されたか、詳しくご存知の方は教えてください。

A 回答 (1件)

質問者さんを満足させるような回答になるか自信があまりありませんが


調べてみましたところ、幾つかあったので紹介します。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA% …
【Wikipedia「大阪市営地下鉄谷町線」】
上記サイトの「建設時の逸話」によりますと(抜粋しますが)
>>谷町線は1927年に立てられた当初の計画では、松屋町筋を通過する予定であった。
>>また、梅田付近において現在の東梅田駅を通らずに御堂筋線梅田駅構内に乗り入れ、
>>御堂筋線と四つ橋線が同一ホームで乗り換えられる大国町駅と
>>同様の構造にする予定であった。
>>梅田駅には谷町線用のトンネルが掘られたものの、そこに繋ぐためのトンネルで
>>落盤事故が起きるなど工事が難航したため、東梅田駅を通過する現行ルートに
>>計画が変更された。
>>梅田駅の谷町線(松屋町線)トンネルは長らく放置されていたが、
>>1989年に梅田駅の混雑解消のため御堂筋線南行きホームに転用された。
とあり、現在の谷町線に並行する形の「地下鉄梅田駅と松屋町筋とを繋ぐトンネル」の
中で落盤事故が起きて、計画が変更されたみたいですね。

もし落盤事故がなかったら、「谷町線」はなく「松屋町線」が大阪市内を南北に
毎日駆け抜けているんでしょうね。
京阪・天満橋駅は明治43年の開業ですから、駅名の変更こそ無いものの
昭和38年の地下化の際にはもう少し、天神橋寄りに作られた可能性が
あるかもしれません。

それにしても、現在の御堂筋線梅田駅・南行きホームが、落盤事故がなければ
谷町線(または松屋町線)のホームになっていたということ、更に
昭和初期の工事がなければ、平成の世に梅田駅が拡張された時でも
「最大級の難工事になったはず」と言われていることを考えると、
戦前の日本人の技術力は戦後に負けず劣らず優れていたことがわかる
エピソードだとつくづく思います。
http://205-161-205.at.webry.info/200905/article_ …
【参考文献:地下鉄御堂筋線 梅田駅探訪 (2) 】

実際、最初に挙げたサイトでも、昭和30~40年代に谷町線が建設された際の
エピソードとして
>>湧水地帯でもあった上町台地西端を通る当路線のトンネル工事によって
>>大阪の地下水脈は大きく変化し、天王寺七名水をはじめ多くの大阪の名水が
>>枯れてしまうという影響を及ぼした。
>>1970年に天神橋筋六丁目の谷町線地下鉄工事で大規模なガス爆発事故
>>(天六ガス爆発事故)が発生、多数の死傷者を出し工事が大幅に遅れた。
と、大阪における地下鉄工事の難しさを「建設時の逸話」で記しています。
かなりの犠牲も、払われていたんですね。そしてそれを乗り越えた
戦前戦後の日本人、いや大阪人の偉大さを強く感じます。

参考になりましたら幸いです。

この回答への補足

拝読しました。接続部付近での工事トラブルというのはわかりましたが、読んでみると落盤事故で谷町線のルートが松屋町筋から変更されたという風には読めませんでした。

補足日時:2013/07/28 17:48
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この回答へのお礼

一部?なところもありますが、丁寧に回答頂きありがとうございました。

お礼日時:2013/07/28 19:08

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