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種田山頭火の俳句で
法衣こんなにやぶれて草の実

とあるのですが、どのような意味なのでしょうか?

調べても分からないので誰かお願いします。

A 回答 (2件)

この句は草木塔という山頭火自選の句集に短文とともに収められていますが、


「草」「草の実」は句集を通して何度も取り上げられているモチーフです。いわば主題と言っても良いのではないでしょうか。
草木塔の中に入っている短文で関係ありそうな物があるので引用しておきます。

 〈山行水行はサンコウスイコウとも或はまたサンギヨウスイギヨウとも読まれてかまはない。私にあつては、行くことが修することであり、歩くことが行ずることに外ならないからである。
—略—
  あるけばきんぽうげすわればきんぽうげ
  あるけば草の実すわれば草の実
 この二句は同型同曲である。どちらも行乞途上に於ける私の真実をうたつた作であるが、現在の私としては前句を捨てて後句を残すことにする。
—略—
うたふものの第一義はうたふことそのことでなければならない。私は詩として私自身を表現しなければならない。それこそ私のつとめであり同時に私のねがひである。〉
〈—略—
 私は雑草的存在に過ぎないけれどそれで満ち足りてゐる。雑草は雑草として、生え伸び咲き実り、そして枯れてしまへばそれでよろしいのである。〉

〈柿の葉はうつくしい、若葉も青葉も――ことに落葉はうつくしい。濡れてかがやく柿の落葉に見入るとき、私は造化の妙にうたれるのである。

  あるけば草の実すわれば草の実
  あるけばかつこういそげばかつこう
 そのどちらかを捨つべきであらうが、私としてはいづれにも捨てがたいものがある。昨年東北地方を旅して、郭公が多いのに驚きつつ心ゆくまでその声を聴いた。信濃路では、生れて始めてその姿さへ観たのであつた。

  やつぱり一人がよろしい雑草
  やつぱり一人はさみしい枯草
 自己陶酔の感傷味を私自身もあきたらなく感じるけれど、個人句集では許されないでもあるまいと考へて敢て採録した。かうした私の心境は解つてもらへると信じてゐる。〉

草を題材にした他の句などとあわせて読むと、ボロボロになってきた自分の旅行脚の装束である法衣と、それにくっついた草の実を見て草に同化して行くような自分をおもしろがっている所があるように感じます。
↓こちらで読めますので、草の入っている句を拾って読まれると山頭火がそこに重ね合わせている物が見えてくるのではないかと思います。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000146/files/749_3 …

旅に明け暮れた理由ですが、いろいろ考えられますが、自分で言っている独りの寂しさに耐えかねて人との接触を求めたのはひとつあると思います。そう考えると草の実に人との関係で何かささやかな実を残せないかというような思いも感じることはできるのではないでしょうか。
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 全然詳しくないのですが、そんなに深い意味がある句とは思えませんね。



 ちらっと事典で種田山頭火をひいてみたら、43歳で出家して翌年から漂泊の旅に出ているようです(死ぬまで続けた)。

 で、おそらく晩年の秋(草の実)のものさびしい時に、自分の漂泊・草庵暮らしの人生を顧みて、

 「新しかった法衣も、いつのまにかボロボロになって、草の実がついている。洗濯もしないような漂泊の年月がずいぶん長くなってしまったなぁ」「そんな生活にすっかりなじんでしまったなぁ」

という状況、感慨を詠んだのではないでしょうか。
 
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