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「無」状態と言う物は、端的に現せば、心が何モノにも動じない状態・または其の位置にいる事である。

しかしこの状態は命からも離れてしまうので、長時間続けると肉体を損なう。

つまりそもそもの苦しみを消す「秘法」等では無く、単なる精神統一や瞑想法の極地にあるものである。

ちなみに此れの究極型が「即身仏」になる。(別に即身仏自体を否定しているのではない、形としての「現れ」の事を言っている)


「無」状態は囚われから「自由自在」になるので、快楽(安堵・安定)を得る事には有効だ。

しかし「真理」とはイコールでは無い。

乱暴な言い方をすれば、脳内における化学物質とパルスのやり取りで生じる「活動」の一つでしかないからだ。


あらゆる事柄をあるがままに。

「無」に拘るのも、「有」に惑わされるのも、同じ迷いでしかない。

「空」も「色」も本質は同じである。

A 回答 (12件中1~10件)

私は仏教者なので、その視点から考察してみました。



「無」というものはそもそも論理的に成り立たない現象と見るべきではないでしょうか?
心や意識が「無」になるということは、その「無」というものは何か?を証明する必要があります。
大乗仏教から派生したこの「空」や「無」という概念は、仏陀の『諸法無我』を突き詰めて、後世の人々が作り上げたものだと思います。
そもそも心や意識が存在し、その心や意識が「無」という状態になることを証明し、存在を認めなければならない。
ところが、心や意識はどこを探しても見当たらない。単なる脳細胞のイタズラに過ぎません。
仏陀は五知で知りうる現象、変化があるのみで、絶え間ない無常の連鎖だけだと言っています。
永遠不滅の「自己(或いは自己意識)」はそもそも存在しないのだから、「無」の状態になるというのは、論理的に決定的に矛盾がある気がします。
唯識では「唯、認識せよ。それが現実である」言い換えれば、「認識したものが存在する」とまで言い切っています。つまり、自分が認識しないものは存在しないということです。
これは妄想とも違いますが、ようは人間は無常に変化し続ける世界の実相を掴み取ることは不可能だと白状しているとも、読み取れます。唯識では「悟り」に至ることは出来ません。ただの言葉遊びです。

禅では瞑想によってこの「無」という状態を経験することを目的としているらしい(違ったらゴメン)

ところが、仏陀の言う瞑想は「自分と世界の無常を発見せよ」というものでしょ?

「空」とか「無」に捉われると、頭でっかちになるかも知れません。
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この回答へのお礼

書き込みありがとうございます。

>自分が認識しないものは存在しないということです

ここがポイントで、人間(に限りませんが)は、「認識」に支配されている生き物なのです。

そして認識は人の数(以上に)だけ存在します。

“言葉は通じるのに話は通じない”

この現象も認識の差で生じます。


認識が存在を存在足らしめていますが、認識が違えば、存在の形も変わります。

これが「無常」であります(何も時の支配下で起きる現象ではありません)が、この認識に支配された状態から、離れた(被支配・自由な)状態が「無」です。(認識が消える訳ではないです)


「認識」は「理解」です。

「理解」は「心の仮置き場(落ち着く所)」で、「答」ではありません。

「理解」は人によって全く違うので、この場の様に議論が生じます。


「認識」は「比較」から生じます。

何かを物差しにして計って、人間は世界を認識しています。

この物差しを手放す事が、「無」状態です。

>「空」とか「無」に捉われると、頭でっかちになるかも知れません

そういう方が多く見られますね。

「認識」から「無」を理解しようとするから、自分の中で「落ち着く所」を見つけて、安住してしまっています。

ちなみに釈尊の教えに「無」等はありません。

釈尊の教えは「この世の苦しみには原因があり、その原因から離れる事で楽に生きる事が出来る」です。

「空」だの「無」だのは、釈尊に成りたいと言う、「超人思想」からのものです。

そうすれば「苦しみ」から離れる事が出来ると「認識」している訳です。

それこそが「苦しみ」の「原因」なのですが。

まぁ、其処を「見る(認識)」為には、其の過程で「無」を経過してしまうのも事実ですが。

しかし「無」を追ってしまえば、そもそも目標地点が間違っていますので、当然目的地には着けません。

ですので、釈尊が「無」を説く訳が無いのです。


お付き合い、ありがとうございました。

お礼日時:2014/06/29 12:28

ふーん。



ここにガラスの塊があるとします。

ビシッ、とひびが入りました。

確かに、そのヒビは、面として良く見えます。

でも、その厚みはゼロ。

ゼロ、つまり無いのに、見える。

ゼロでも、ある。

無、じゃない。

そんなこと当たり前じゃないか、と言わずに
よーくそのガラスの割れた境界面を見ていると、
絶対的に「ある」ものなんて、実はありゃしないんじゃ
ないか、という考えに取りつかれる。

ガラスがあるから、無い筈の厚みゼロ、が見える。

無とは、無、という「存在」として扱うと間違いそうな
代物な気がする。

先の例で言うと、ガラスが無い。

すると割れ目も無い。

そもそも、知覚も認識もされない。

だって、何もないんだから。

これを人間の心や思考に置き換えてみれば、つまり
他人がいなけりゃ自分も有り得ない、ということに
なるような気がするんです。

私たちは、厚みゼロのヒビのようなものかもしれません。

世界、というガラスの中にかすかに見える、ね。

などと書いて見たりしました。

ではでは。

思考遊びにお付き合い頂きまして、ありがとうございました。
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この回答へのお礼

書き込みありがとうございます。

子供の頃の「次元」の話を思い出しましたよ。

1次元の「太さの無い線」の世界のイメージが色と色の境界だという内容の話です。

3次元は何処のヒビなのかな?

等と考えるのも楽しいです。

ありがとうございました。

お礼日時:2014/06/21 20:52

『無』とは、『自我意識がひっ込んだ状態です。

』言い換えるなら『無意識の自分に身体と心の支配権を預けた状態です。他の言い方をするなら『没我の状態です。』もっと簡単な表現で言い表すなら「『我を忘れた状態』です。

人間の脳内にその秘密がありますので、人間の脳の簡単な説明です。ウイキペデアからです。

『”ロジャースペリー 分離脳』
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究
ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”』

この場合での右脳の役割と左脳の役割を脳卒中の為に『体験的に体感した脳科学者の動画を載せて置きます。

URL:
もし出ないようでしたら、ジルボルト、テーラ脳卒中と検索して下さい。

今のコピーでお分かりと思いますが、一人の人間には『人格が二人存在しています。』今の精神医学でも、脳科学でも『精神疾患の原因は分からない』とされていますが、実はこの二つの人格同士の『不協和音』が症状と呼ばれているものです。

動画でも語られていますが、おさらいという意味でもう一言補足したいと思います。

左脳の人格が『顕在意識=自我意識』です。右脳の人格は『生命発生装置兼生命維持装置』です。この装置を機能と書き換えても同じ意味です。

赤ん坊を思い起こしたら理解し易いと思います。赤ん坊は生まれた時既に、生命維持機能を働かせているからです。呼吸の仕方とか心臓の動かし方や消化器系統や神経系統やホルモン系統の調節などを学ぶ事なしに既に動かしています。

母親のお腹の中で、生命体として命を授かった瞬間に、既に働き始めている働きです。細胞分裂の仕方でも、その順番でも既に正確に知る抜いて働かせている働きの事を書いています。

早い話が『命を働かせている働き』=『命の働き』の機能が右脳の人格の機能という意味です。

動画にあるように、二つの人格は絶えず連絡を取り合って、情報交換をしながら人間の毎日が成り立っていますが、誰もこの事を知りません。

唯一人、分かる者がいるならそれは『禅』と表現されている者です。禅はその情報交換を『没交渉』と表現しています。

毎日誰でも眠りに入っていますが、眠りのメカニズムでさえ『誰も知らないでいます。』

説明するなら、眠るのは自我意識ではないという事です。眠りに入るという意味は『自我意識が無くなってゆく』という意味です、自我意識は無くなったあと、無意識の自分が『身体と心の支配権を譲り受けて、朝まで、無意識の自分が支配権を行使している.』という意味です。

ところが、『自我意識は無くなった事を意識出来ない事から』自我意識は知らないでいます。詰まり「無意識の自分と交替した事を意識する事が出来ないでいますので、『誰もこの事を知らないでいる』事を意味します。

人間の『自我意識』は、無意識の自分と交替した事を、『意識出来ない』と禅は喝破しています。或いは毎日の『順調な交替制』の秘密も知る事はありません。

こういった秘密が『無』の中に隠されていますので、0fool0様が、動画にあるように『見性』体験をするなら、その時こそ『無』や空の意味を『体得する事が出来ると思いますので』ぜひ頑張って下さい。
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この回答へのお礼

書き込みありがとうございます。

脳生理学はとても面白い分野ですよね。

私も大好きです。

ありがとうございました。

お礼日時:2014/06/21 20:45

お礼のお礼です。



>人間は、「知識」を持つ道に一歩踏み込んでしまえば、「知識」に生活(人生)が占領されてしまいます。
>何しろ便利ですから、捨て難いですし、目新しい知識は「無限」にありますので。

そこですよね~~。
手放すには、手放す知識が無いとできないのですよね。
知識が足りないのが、その知識が広まらないのが日本の問題ですよね。

精神根性論から抜け出さないと、世界ランクから日本は後退し続けますね。
心理に詳しい人でも知らないことが、やっぱり問題です。

いろいろヒントになりました。
いつもありがとうございます。
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この回答へのお礼

書き込みありがとうございます。

私とのやり取りが、何かの肥やしにでもなれば、うれしいです。

こちらこそ楽しい言葉をいつもありがとうございます。

お礼日時:2014/06/13 23:22

お礼ありがとうございます。


楽しんでもらえて何よりです。

ちょっと気になったので、一つ。

>「観ても」=観ようとする行動を、「誰」がしたがっているか。
>「汝、自身を知れ」

観たいから観てるのは自分ですが
私の場合、私は純粋な好奇心で知りたいからですね。


話し戻して、ここに干渉するのは我を捨てようとすること。
捨てたら人間であることまで捨てるに至るでしょう。
有るものをあるがままに認めるが、人間を放棄しないで済みます。

囚われを手放すのは失うものは無いですが、我を無くそうとしたら
人は分離が始まりやがて乖離し、あるがままから遠ざかります。

誰がと言うわけでは無いのですが、何年かここでQ&Aを見ていると
我を無くすことに囚われている人が、多いように感じます。

我は否定するとよけいに特出してきますが、捨てることだとムキになればなるほど
我が出てくることを体験することによりに、やり方が違っているのではと
気がつくのではなく、捨てるというやり方を闇雲に信じている危うさは
固定観念や常識を疑うに至らさなの方が問題になります。

そんなところが、ミクロに焦点を当てることに弊害となりますが
哲学の大きな問題点として浮かび上がりますよね。

無の状態は、ここをクリアして真理に近づくことを可能にしますが
無とは何かを語ることから無になれる訳ではないのが
遅々として進まない要因かもしれません。

たとえば、泳ぎをあらゆる文献から知識として吸収して
誰にでもつぶさに説明ができたとしても、己がそのように泳ぐに至らず
ということでは、泳ぐことの感動に自身が至らずになります。

そいうことを、日々の実体験を通して理解しなければ、知識は何も活かされず
日常は知識があっても何も変わらず、得たことで世の何も変えるものには至らずとなります。

机上の空論と化した実態のない教えが、以前の痕跡を残すものとして経典に残り
過去の遺産となっているのが、現状の宗教に見受けられる姿であるように思います。


無を語ることで無には至らない。
教えは知ることに教えられず、その日常にただ見出すのみ。
活かすは、その先の話し。

無は、そんなところに位置するものだと思います。
今の私の理解範囲ですが。
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この回答へのお礼

書き込みありがとうございます。

至極、仰るとおりだと思います。

しかし、哀しい哉。

人間は、「知識」を持つ道に一歩踏み込んでしまえば、「知識」に生活(人生)が占領されてしまいます。

何しろ便利ですから、捨て難いですし、目新しい知識は「無限」にありますので。

>無を語ることで無には至らない

其の通りで、私もそう書いた筈なのですが、何故か、私が語ったと認識する方が多いですw


人は観たい物を見る


ありがとうございます。

お礼日時:2014/06/13 18:21

 こんにちは。



 ★ 「無」とは
 ☆ このように――たいへん申し訳ないが―― いちいち考えないことです。

 ★ あらゆる事柄をあるがままに。
 ☆ という規定あるいは理想設定から・そしてあるいは それの単なる確認であってもそのような確認をすることから自由であることです。

 どういう意味か?


 日から日へ わたしみづからをうんうんと推して 自分のために・家族のために・そしてちょっぴり世の中のみなさんのために 身の回りのことも社会全般のことも何とかよき方向へすすむことが出来るようにと考えつつあゆむことです。

 現実から離れないということ。これが 現実のシガラミから自由になる秘訣です。





 ゴータマ・〔ア‐〕ブッダの亡霊にわづらわされることに終止符を 打ちましょう。

 ブディズムは 屁の河童ですよ。

 あたらわかき息吹きが こんなにもお釈迦にされてしまうのか。

 ブディズムよ おごるなかれ。
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この回答へのお礼

書き込みありがとうございました。

お礼日時:2014/06/13 17:57

お礼ありがとうございます。



無が囚われていない状態であるとしたら、無を理解していても
その人が人格者で有るかどうかは、別物となり得ます。

部分は全体を成すための構成要素ではありますが
部分が全体を適切に表しているとは限らないと思います。

己の内側を観て、過去の出来事から気持ちの距離を置いて
一旦心の落ち着きを味わい、その楽な状態を自由度の高さと
感じることはできると思います。

おそらくは、それを無とされているのかと思います。

過去の出来事を観ても嫌な思いが付属していなければ
通常の状態で何の囚われもなく、命からも離れる必要はありません。
過去の思いを手放す行動を取ることによって、無の状態を作るために
意識的に切り離しは必要がないからです。

囚われない状態で常に生きるということは
記憶や理解が早く深く鮮明になり得ます。

例えば日常に数学を自己の思考や言動内で用いることも
以前より容易くなります。
法則性を、そのまま具現化がとてもやりやすくなったと感じています。

ここに来て、学生の時の勉強不足・理解の浅かったことが
本当に勿体無いことをしていたと気がつきました。
それで数学の勉強を始めましたが。

仕事でも遊びでも趣味でもコミュニケーションでも
その日常が行動において、より深く自分を活かせるという日常に
変化することが出来るのが無の良さでは無いかなと思う次第です。

しかし、おそらくは無を理解しようとすると逆に理解しづらいと思います。
それだけ人は囚われやすいものですから。

無も空も人の付属であるので、付属を理解しようとするより
人を理解しよとすれば、自ずと途中経過で理解できると思います。

書かれているもを頭で理解しようとするより
自分の中から見出せれば、答え合わせ的な
「あ、このことを表現したくてあの文章なんだ」が
適切な理解に繋がるように思います。

多くの人がやってしまいがちな「文章はこねくりまわして想像を加えることも必要ないかも?」です。

一番言いたいのは、人を理解しようとする視点で歩いて行くことが
そのままを受け取りやすいポイントかなと思ったことです。
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この回答へのお礼

書き込みありがとうございます。

いつも嬉しくなるお言葉を読むのは、私の欲求を満たしてくれる快楽です。

>過去の出来事を観ても嫌な思いが付属していなければ

「過去の出来事」=良し悪しではなく、囚われている事象。

「観ても」=観ようとする行動を、「誰」がしたがっているか。

「嫌な思いが付属~」=苦しみの根幹。

いや~、嬉しくて、あえて書き出してしまいました。


人の苦しみは「過去」と「未来」を生きる為に、余計に増えてしまっています。

だって、単純計算で三倍であって、時間軸と量で言い出したら無限大になりますからねw


「汝、自身を知れ」

奥義は基本の中に有り、ですね。

いや、楽しいです。

ありがとうございます。

お礼日時:2014/06/12 09:14

>「無」状態は囚われから「自由自在」になるので、快楽(安堵・安定)を得る事には有効だ。



しかし「真理」とはイコールでは無い。<

自由自在の着地点が肝心なのだと私は思います。自由自在になったそれがゴールではなく。

有るとか無いとかにこだわるよりも、自身の確かな在り方を模索することが、真理に通じるのではないでしょうか。

無も空も色もそれぞれ異なる概念では有りますが、それらにこだわるよりも、どう生きるべきか、といったような具体的な事柄を考える方が、本当の事、真実に近づくのではないかと思います。
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この回答へのお礼

書き込みありがとうございます。

私が書き込んだ「自由自在」は、「自分自身から」と言う意味合いが、強いです。

ですので、着地点ではなく、出発点なので、仰るとおりです。

ですから、「無」とは、ただの「技術」でしかないのです。

其処にこだわる必要は、全くの無意味です。


「真理」自体は更にシンプルです。

「技術」等と言う、小賢しいモノでどうこうではありません。

何故なら「愚」も「賢」も始めから有って、そして無いからです。


「どう生きるべきか」・・、難しいですね。

答えは無限にあり、一つもありませんし、一つしかないです。


楽しいお言葉、ありがとうございます。

お礼日時:2014/06/12 09:02

忘れることも無駄な記憶を消すことになると思います。



人は寝ることで、重要な記憶だけをつなげたりして、スモールに思考の構造を作ったりすると思います。

捨てれないのではなく捨てて、無に近づくことでより結局は効率的になるのでは?
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この回答へのお礼

書き込みありがとうございます。

「シンプルに」という意味でしょうか?

意味が違うのかもしれませんが、私は「白痴」が該当すると思っています。

彼らの心の内というか、認識を直接は確認出来ないので、人に強制的に説く訳では無いですが、彼らこそが生き方としては最も純粋で、人間としては最も「無」に近いでしょう。(程度の個人差、個性が存在しますので、純粋な「無」ではありません)


生き方としての効率はいいでしょうね。

しかし良否は問えません。(楽に生きると言う意味では、「良」だと思います)

何せ人間(に限らずですが)と言うモノは、そう「生きたい」から、それを「選んで」いる程度のものですから。

しがらみを物理的にも捨てて行くのは、佛教等でも基本修行の一つになるので、有効な「方策」ではあります。

ただ場合によっては「捨てる」事に埋没する事にも陥りかねないので、どうでも良い事ですが・・・。

「捨て続けている」事に没頭している。

極端な例で言えば、似非宗教で全財産を喜捨し続けている信者ですね。


手から離すまいとしても、摺り抜けてしまう。

離れたいと思っているのに、手を離せない事にも気付けず振り回され続ける。

中々に難しいです。


ご意見ありがとうございます。

お礼日時:2014/06/12 08:50

同じようなことですが、囚われが無い状態だと私も思います。



過去の出来事で、思い出しても嫌な事がなければ
囚われず、ずっと楽に生きていけます。

見たく無いから見ないようにしてるのではなく
あえて全てを出して、整理して行くので時間はかかりましたが。

囚われにエネルギーを使わないだけでも
ずっと充実できているように感じます。

やってみて、その状態になってから、それが多分
「無」と言われているものでは無いかとの理解でしか無いのですが。
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この回答へのお礼

書き込みありがとうございます。

正直に言って、人が「無」を理解しているかどうか等は、私には判りません。

外からは見えませんから。


外からでの見え方は、良くても「やたらと落ち着いている」とか、いわゆる「人格者」や「分限者」というカテゴリの見え方程度で、悪ければ「破戒者」です。

逆の言い方をすれば、「無」を理解していなくとも人格は修行可能なのですから、外からは判るわけが無いのが道理です。

正直、表面的には「全然」判りませんw


相変わらずに、楽しませていただきまして、ありがとうございます。

お礼日時:2014/06/11 20:13

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