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「無」状態と言う物は、端的に現せば、心が何モノにも動じない状態・または其の位置にいる事である。

しかしこの状態は命からも離れてしまうので、長時間続けると肉体を損なう。

つまりそもそもの苦しみを消す「秘法」等では無く、単なる精神統一や瞑想法の極地にあるものである。

ちなみに此れの究極型が「即身仏」になる。(別に即身仏自体を否定しているのではない、形としての「現れ」の事を言っている)


「無」状態は囚われから「自由自在」になるので、快楽(安堵・安定)を得る事には有効だ。

しかし「真理」とはイコールでは無い。

乱暴な言い方をすれば、脳内における化学物質とパルスのやり取りで生じる「活動」の一つでしかないからだ。


あらゆる事柄をあるがままに。

「無」に拘るのも、「有」に惑わされるのも、同じ迷いでしかない。

「空」も「色」も本質は同じである。

A 回答 (12件中11~12件)

こんにちは。




☆「無」状態と言う物は、端的に現せば、心が何モノにも動じない状態・または其の位置にいる事である。
◇これは《無心》と呼ばれるもので、《無》とは別なのでは。
心が動じる状態の欠如ということで、《無》ということにはなるのでしょうが・・・。
《無》は、存在や状態の欠如、あるいは、それらが無いことを表わす言葉なので、《無》自体を特別なものや原理・法則と考えるのは、おかしいのでは。
『老子』においては、名前・名称が無い、形容のしようが無いので、とりあえず《無》と呼んでいるだけです。

「道の道とすべきは、常の道にあらず。名の名づくべきは、常の名にあらず。名無し天地の始めは、名あり万物の母には」
(『老子』 第一章)

『老子』第四章では「道は冲(ちゅう)」、「道は空っぽだ」とも述べています。


☆「即身仏」はミイラのことです。これを言うならば、《即身即仏》や《即身成仏》になるのではないでしょうか。


☆「無」状態は囚われから「自由自在」になるので・・・
◇ではなく、
「とらわれ」が無いから「自由自在」になるのでは?
自由自在は仏教用語で、「とらわれの無い」心の状態やその活動性のことを形容したものです。



☆「無」に拘るのも、「有」に惑わされるのも、同じ迷いでしかない。
◇質問者さんは「無」にこだわりすぎですよね(ニコニコ)。
「無いもの」を追いかけている感が無きにしも非ず。




ではでは。
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この回答へのお礼

書き込みありがとうございます。

中々今回は面白い反応が出て来ています。

今までには見られなかった形の書き込みが楽しいです。


「無」は言葉面が理解し易い為に、多くの誤解が世に出回っています。


「即身仏」は私の言葉の間違いなのですかね?

「木乃伊」とは別の物だと思っていました。

間違いでしたら、訂正します。


「自由自在」は仏教用語なので、調度都合よく使っただけなのですが、「無」は唯の技術ですので、其処に拘る意味も無いです。

ですから別に私の言葉の単語の一つ一つにも、本質的な意味は無いです。


「無」の単語は容易く人の心の「有」を触発しますね。

どうしてカテ内で幾度も同様の書き込みが続くのかと思っていたのですが、この単語を使うと容易く、安い満足感が得易いからだと言うのが少し見えてきました。


ヒントをありがとうございました。

お礼日時:2014/06/11 19:54

無は、無い。


我々が感じられるのは有のみであり、たとえ無だと
思っても、無を感じる何者かが有るので、真の無では
なく、逆に言えば、無とは思えない中に、ある形式で
無は有る。
「ある形式」とは、絶対化において無限不確定(無)に
発散する不確定性原理に基づいた世界=不完全な
認識によって発生する有限性=無だと分からない事
が有、ていう。
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この回答へのお礼

書き込みありがとうございました。

お礼日時:2014/06/11 19:28

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