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自由意思とは主体の存在なしには成立出来ないものではないでしょうか?

思考が行為や行動を選択したとしても、それは思考と行為の連続でしかありません。
思考と行為の連続性は連続性でしかなく、そこに自由意思や自発的という言葉を介在させることはできません。それは、自由意思というものが、自己意識、自己に意識の向かっている状態に依存しているということです。

自由意思と決定論の議論は、まず自己意識についてから議論を始めるべきではないでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • ガッカリです。

    このカテにいる人たちは相手の意見に耳を傾けようとはしないようですね…

      補足日時:2020/03/22 21:44

A 回答 (19件中1~10件)

決定論ですが、何の決定論ですか?社会決定論ですか、世界の決定論ですか?もう少し教えて下さい。

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そうですね。

自己意識から出発するのがよいですね。意志とは「決断決定」のことです。多数の自己意識抜きに自己意志などあり得ません。社会のなかでの、主体の「判断行動様式」です。社会人が取るべき「判断行動の制度」のことです。
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訂正です


意識判明→☓
意識は→○
です
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意識について言えば


意識判明脳科学等科学的に解明されてはいません
そのうえで
何らかの対象があってそれに意識を向ける事はあっても意識を向けるべき対象が無い場合意識は働かない(向けないか)意識を向けるべき対象を探します
その点を踏まえて言えば「意識(自意識を含む)」は対象に依存しておりよって意識にも自由は無いと言えます
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脳科学で判明したこと


人の脳は行動(行動準備)がさきいあってその後にその行動準備には応じた「考え」や「感情」等を意識すると言うことです
例えば
腹が立ったから殴りたいのではなく
殴りたいから腹が立った
となります
以上を端的に表すなら
行動準備(条件反射)→思考・感情等→意識となります
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自由意思とは主体の存在なしには成立出来ないものです。


外部から少しでも主体に影響があれば、下した意思は自由意思とは言いません。
当然、自己意識についてから議論を始めるべきです。
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誰も私の意見に耳目を傾けない!と乞うまでもなく、そう思ったら、自分から意見を仕掛けるのが哲学の流儀なんだよ。

君のいっていることは、誰も僕を愛してくれない、認めてくれないと言っているようなものだよ。そう思ったらご自身から仕掛ければいいだけのこと。熱意がないね。
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自己意識から、議論?を。



犬は犬の心を持ち、猫は猫としての心がある。
人間の心は、人間としての性能を持っている。

先ずは、人間の心はこれに束縛されてます。
犬や猫の心になったり、神の心になったり出来ません。
人間としての心に縛られています。

先ずは、この事を認識するのが良いのではないでしょうか。

その心は、体験する環境を受け取りながら、育ちます。
環境を“学びながら”育つ心は当然、学び仕入れた環境に縛られます。

この“縛られた、或いは制約のある”心の範囲内に於いての自由意志(自由行為)は、有ると思います。

脳は、体験を通して情報を蓄積するので、脳そのものの情報は“環境”から自由である、とは云えません。
脳の機能の働きは、環境から仕入れた情報だけが頼りで、それ以上の反応は望めなく、その意味で脳こそ不自由な機関です。

そんな不自由な脳に支配されているわけですから、真の自由意志なんてあり得ないと思います。

☆ でも、想像力・創造力って、あるよね。
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№4です。



その回答は:
★ 自由意思とは
☆ という問いにこたえたものです。

おぎないます。

★ 自由意思とは主体の存在なしには成立出来ないものではないでしょうか?
☆ 意志行為は 人間のおこなうことであり その人間は 意志行為の主体
であると言いならわします。

この意志について 特に自由意志と呼ぶのは どういうことかと言えば そ
の答えを №4に述べました。



★ 思考が行為や行動を選択したとしても、それは思考と行為の連続でしか
ありません。
☆ ① まづ 知解という能力が 世界について知ろうとします。

② 事実を認識し その認識にもとづき自分なりの価値判断をおこない さ
らにどう対処するかを思考します。

③ 価値判断は 複数の回答を得るといったように幅広いものであり得ます
し どう行動するかも いくらかの候補を挙げておくといったかたちになり
得ます。

④ そこで もしおのれの主観をひとつの結論として決める必要がある場合
には 意志という能力が 候補の中から選択します。

⑤ 意志を決めたあと その中身について意思表明をしたり実際の行動に移
したりします。

☆ このとき:
★ 思考と行為の連続
☆ というのは何を意味するのか? よく分かりません。

①から⑤までの行為は ふつうその順序で成されるわけですが 特に《連続》
と呼んで捉える意図は 何なのでしょう?



★ 思考と行為の連続性は連続性でしかなく、そこに自由意思や自発的という
言葉を介在させることはできません。
☆ ここもよく分かりません。

⑥ 人間の意志は わが心にさからう自由度をも持って一般に――必ずしも証
明されていないとしても〔その想定された自由を互いにまもるために〕――自
由意志として捉えられています。

⑦ 自由には 主体性や自発性が ふくまれます。



★ それは、自由意思というものが、自己意識、自己に意識の向かっている状
態に依存しているということです。
☆ そうですね。自己意識をここで持ち出す意図についても よくわかりませ
ん。

⑧ われわれ人間が 現実に存在するというとき そのわれには 《われはわ
れなり》という自己の意識があると考えられます。(そのことを意識していな
くともです)。

⑨ 実行に移すわが意思が それにともなう意識として 何に向かっているか?
これは 決まっていません。

⑩ ふつうは 表明する意思の内容を意識するでしょうし また これからお
こなう行動の内容についてもするでしょう。

⑪ そのとき 自己意識つまり《わたしはわたしである》というわたし自身の
確認のようなことは おこなう場合もありましょうし ただしふつうはあまり
成しません。

⑫ 強いて言えば わたしは 《わたしがわたしであること》に《依存してい
る》かも知れませんが その自己意識に依存しているわけではないでしょう。

⑬ 自己意識が 《わたしという実存》に 強いて言えば 依存しています。




★ 自由意思と決定論の議論は、まず自己意識についてから議論を始めるべき
ではないでしょうか?
☆ ⑬ 自己意識の議論は とくべつにおこなっていなくても 自由意志につ
いて議論することができます。

⑭ 《決定論》は 何を言うのでしょう? 

⑮ 人間の思惟も行動も すべてあらかじめ決定されているというのは その
ようにおのれの自由意志で判断した結果です。

⑯ 決定論を自由意志で選択したという意味です。

⑰ なぜなら 仮りに神の意志によってすべてが初めから決定されているとし
た場合 それも 人間の・わたしという主体の自由意志による判断の結果であ
るとなっています。

⑱ 神は 人間に自由意志をあたえたからには 神の意志であってもその人間
の知解力や意志の自由な判断というコトを つねに 媒介させているというこ
とです。
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お断り


自由意志については「哲学的考察」と「脳科学的考察」両面がありますが「意思」が脳作用によるものなら「脳科学的考察」を無視するべきではありません
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