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「自発的な精神的グローバル化を求めるのはナンセンス」というご意見がありますが、精神的な国境を無くし、他我意識に目覚めること(社会生命性の自覚)が、どうしてナンセンスなのかよく解りません。あるいは逆の立場のご意見も聞いてみたいです。

A 回答 (14件中1~10件)

>地球市民が「社会生命性の自覚」をすれば、おのずと全てが変わるでしょう。

「自発的な精神的グローバル化を求めるのはナンセンス」ではないと思います。

そうかなぁ?
俺はもったいないから嫌だね。
別にそんな必要ないもん
秘儀は内緒
黙ってこっそり使うもんだ
俺だったら秘儀があることさえ内緒にしておくね。
肝心要の
ホントに大事なことはい~わない。
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いや私の言葉を都合よく曲解され使われてしまいました


ってか?

トカゲの尻尾にされちゃったかな?

                               ´

この回答への補足

そんな事より、日本や世界の将来を真剣に考えましょうよ。
少々のオフザケもありでしょう。

地球市民が「社会生命性の自覚」をすれば、おのずと全てが変わるでしょう。「自発的な精神的グローバル化を求めるのはナンセンス」ではないと思います。

補足日時:2010/02/12 02:57
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あはは


切り離されちゃった

信者がやったことです。
とか
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>それは笑える冗談ですね(笑)



あはは 笑ってもらえた?

咬ませ犬ってのも有りだよ
自覚症状あり?
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>ライオンがライオンを襲いますか?



ライオンが虎の皮をかぶった狐を襲うことはある。

この回答への補足

それは笑える冗談ですね(笑)

補足日時:2010/02/06 14:29
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と思う。


くるとすれば。。。
戦争を回避しながら

その前に日本を何とかしなくっちゃ状態なんだけどさ。。。

気持はよく分かる
僕も同じ気持ちだ
いやそうなのではないかなと僕は勝手に思ってる。
何しろ君と僕がつながっているという科学的かつ客観的事実として僕の中において確認できないからそう言わざるを得ない。

アタマ フジワラ ウジ
もしかして先祖はあの藤原氏?
しかも直系ですとか言い出したりして
地球の片隅で慈悲をさけんでる
どこの馬の骨ともわからない
僕を見つけて
総理大臣にして
今だ認知されてない思想でこの思想で日本の閉塞感を打ち破ります。
ってか?
必要なのは
君のそういう宇宙の半面思想ではなく
日本が抱えている諸々の問題を総合的かつ複合的に解決させ得る具体的な構想とそれに基付く青図とそこに導くための方向性をもたせた政治戦略だと思うんだけど
どうかな。

それがあったとしても今のこの状態からそれを具体化できる道程ははるか彼方だろうなぁ
かといって自分の生命の全てをかけて創造したものを
こんなところで開陳して設計図盗まれてれば
この社会で自分一人が食ってもいけないただのアホだもんな
いや
いっそ貧乏人二人で挙党しようか。。。
いや君が貧乏人かどうかわからないのだけれど
何となく勝手なイメージで。。。
だけどほんとの貧乏は経験していないとか
ところで
誰が総理大臣になる?
僕の想定するところでは多分君だと思うけどどうだろう?
でも僕を総理大臣にしてくれないんだったらやめとくこうかな。。。
それとも
がっぽがっぽ金が稼げるようになるだろうからそんなのどうでもいいか
今の閉塞感を打ち破って福祉社会を実現するという大風呂敷は
個としての私利私欲の裏返しでもある。
何の具体策もまたデンマークがいい社会であると各層で自分が身をもって検証したわけでもないんだろうけど
それがいいと信じ込ませ君ならやり遂げてくれそうだと信用させられればいいわけだ。
詐欺っぽいけど
新興宗教とは大体そんなもんだ。
君は違うと言うかもしれないけれど
つながっているという認識も無いのに刷り込まれてロクでもない奴に利用されるのは僕はゴメンだな。。。

この回答への補足

私をこの星の王様(的存在)にすれば話は早いでしょう。
「御地球」と書いて「おたま」と呼びます。それが名前の由来。
国家はもはや不要です。だって既に地球社会で相互に助け合っているのですから。貨幣も不要になる、代替のものはあるから。政治はインターネットによる直接民主制で、政策コンサルが政策コンペを行うだけ。私は精神的な目覚めを革命的に進める準備は行っている、右脳のみサバンなので。自律的に「助け合い」を自覚できたとき、多くの人間は目覚める。私の目標はこの星の人類の精神的充足量の最大化であり、宗教とは無縁である。

補足日時:2010/02/05 17:15
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この回答へのお礼

>もしかして先祖はあの藤原氏?
はい。ちなみに前世は巫女の有名人かもしれません。

お礼日時:2010/02/05 17:37

食物連鎖の崩壊を俎上にあげる意味は


利己的な粒子性が優勢な遺伝子系に強制的に波動性の遺伝子の意識を決定的に刻印し組み込むことに意味があるのだ
と言っている。

持続する真の福祉社会はその後にくる
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利己的な遺伝子は粒子性


他者とは我という意識は粒子性
貴方の言う他者は私という認識は波動性

他人は私という表現はあえて人間限定にしてるのかい?

他者は私という意識で
毎日食べてるものを見ながらどんだけ他者を殺して生きてるか認識できるのか?
血を垂れ流しながら自分の尻尾を食べて平気なほど無神経になりたくはないからね。
けれども
君のその生は他の生を殺しながら生き延びる。

だから他人は私であると人限定
今それじゃダメなんだ。
人間を一生物種と捉えると人間全体が利己的で他の生物種を絶滅においやり食物連鎖を破壊していることを意識の俎上に挙げている。

ウロボロスの輪を思い浮かべてみ給え
無神経だから自分の尻尾を血を垂れ流しながら食べてて
てめぇが瀕死状態にあっても気がつかないですってか?

そんな無神経さで福祉社会を言うか

この回答への補足

私は人間ですから「他者」は同じ種族です。よって、家畜などは我々の種族のために平気で殺せます。そんな当たり前のことを書かせないでください。自他の「他」とは「同じ種族」です。ライオンがライオンを襲いますか?

補足日時:2010/02/05 17:30
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>他我意識


>他人も自分である、という意識で、神経でつながってない「だけ」であることを認識することです。

その意識の刷り込みは
これは宗教的観念そのものです。
それだから

>宗教は不要になり、環境認識という自然科学的な総合的学問が主体となるのではないか?

という文章で表わされる思考状況は全体として宗教観念と科学的な目による観測によって構成される整合性のある推論とが混在している状況であると言えるでしょう。
科学的な目による現実の現象の把握と宗教的観念の刷り込みとの間の分別が無い。

科学の目による観測が生における二律背反性、地球という限られた器の中で人類の繁栄の限界を人類全体を対象としながら深い洞察やそれぞれの宗教による刷り込みを必要としないで個々に選択を迫るという意味において利己的な遺伝子に自らの生が他の生によって成り立っているという共通認識を生起させる土壌ができたということにおいて意味があります。

言い方を変えれば
そのことにおいて各宗教間で観念的な部分を含むコミュニケーションをとって共通認識とする必要がなくなったということに最大の意義があります。

この回答への補足

>他人も自分である、という意識で、神経でつながってない「だけ」であることを認識することです。
というのは、自然科学的で普遍性を持った事実です。物理とも矛盾しない=「思想」そのものであると思います。そうした思想を自律的に発見ないし参考にしていけば「精神的グローバル化」は、宗教さえ超えてできあがると思います。

補足日時:2010/02/05 03:27
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 ★ (No.3補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~


  >精神的グローバル化

 宗教は不要になり、環境認識という自然科学的な総合的学問が主体となるのではないか?という意味です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《宗教》の何たるかが論じられていないことが ひとつの問題です。個人にとっての《信仰》が 人間にとってどういう位置づけになるのか これが決まらないと一般に思想はあやふやなものに終わると考えます。
 
 《環境認識》〔が主体になるの〕では 人間の要素が希薄になるでしょう。《自然科学的な総合的学問》と言うのですが その人間の要素として ひとの意志行為の関係過程つまり社会についてはどうなのでしょう? どうでもいいという姿勢に見えないでもありません。
 そうではないと言うのでしょうが あまりにも何もかもひと言で決めてしまおうという文章であるわけです。

 ★ (同上) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   >他我意識

 他人も自分である、という意識で、神経でつながってない「だけ」であることを認識することです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ どうなんでしょう? けっきょくこういった簡単な趣旨説明の質問にはふつうなら投稿をしないわけですが ここまでにやり取りがあったのでその関係上こうやって文章を寄せるのですが 言っていることとおこなっていることとが違いすぎませんか?

 《神経でつながってない「だけ」であって 他人も自分であるという意識で》いるなら やり取りを誰に対してもきちんとおこなっているというのが ふつうのことです。
 やり取りというものは互いにここでおしまいにしましょうと言ってけりがつくものです。一方的に放り投げてしまうような態度で どうして《社会的生命性の自覚》という言葉が出てくるのか 不思議です。 ひとつだけこの不思議を解くかぎはあります。
 ★ 他人も自分である、という意識で、神経でつながってない「だけ」であることを ≫認識すること≪ です。
 ☆ というのですから 認識すればよいのであって 実行するかどうかは別の問題だとたしかになります。そういうことでしょうか?
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