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「自発的な精神的グローバル化を求めるのはナンセンス」というご意見がありますが、精神的な国境を無くし、他我意識に目覚めること(社会生命性の自覚)が、どうしてナンセンスなのかよく解りません。あるいは逆の立場のご意見も聞いてみたいです。

A 回答 (14件中11~14件)

ちかごろ他我意識という言葉を散見し、少し妙な感じを抱いている。


用語としては、自我の成立と「同時に」生起する他者の認知で、
言語行為論や、認知論、またコミュニケーション論で使われるはずのものなのだけれど、
少し、語が独り歩きして、もともとの「自分がくっきりすればするほど他者がくっきりする」という様態が、
「自分がぼやけて他者との境があいまいになる」という様態に誤解されているのではないかなと思われるふしがある。
なぜ逆転が起きたのかと思うに、
クリシュナムルティとかヴェーダ、密教、エゾテリスムの文脈で、空の概念によって他我意識をあつかうので、
これらになにかニューエイジ思想的なバイアスがかかると、「自覚しつつ自我に執着しないこと」がそこでピシッと止まらず飛躍して、
「自他の境をあいまいにすること」になり、さらに「自分が大事なくらい他者を大事におもいやる」という方向へ進むのではないか
と考えられるのです。

それでおおむね、超時間的かつ超空間的に同調するこころ を指しているようで、仏教の慈悲に近いのですが、
どうもバイアスが働いて、電波的であったりオカルト的であったりする。ほとんどいわゆるチャネリングの世界とだぶった印象を受ける。

そういう「他我意識に目覚めること」をいったん廃棄してみて、たんに社会生命性を自覚するということなら、ナンセンスとまでいう必要はないと思います。

平たく言った場合は、先述したように、しっかり自己のアイデンティティを確認して、他者を思いやることでしょうし、
このアイデンティティを失くすようなこと=精神的な国境を無くすことであるという誤解のないようにすることでしょう。
自発的というところには、別の難しさがあるかもしれません。
自己はさまざまな影響のもとに形成要素を寄せ集めて統合されているので、真に自発的であるということはなく、
環境にアフォーダンスがなければその環境下の要素である自己に変化は生起しないともいえます。
自発的な自己変革というものは厳密にはないと考えてよいでしょう。
(逆の例では、経験した一つの環境の影響に心身を従わせることを鍛錬しているような場合は、どんなアフォーダンスにも動かされにくい。
社会にしろ個人にしろ、良きにつけ悪しきにつけ、どんな風神にも動かせないようなマインドコントロールというものはあります。)

超時間的、超空間的に同調するこころの実現ということで言えば、
慈悲を深くはたらかせる心身を保つことの難しさ、ということに尽きると思います。
慈悲--- http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E6%82%B2% …
心身を保つというのは、チャクラという理解の方法でもよいし、
自我という領域のさまざまな補完的在り方という理解でもよいと思います。
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貴方の言う精神的グローバル化ということが精神のどういう状態を意味しているのかよくわかりませんが


また他我意識というのがどういう状態であると認識しているのか分りませんが

たとえば宗教でいえばイスラム教とキリスト教といった唯一神教と多神教
これらを精神的にグローバル化するということはどういうことか。

起こりうる可能性のあるグローバル化の形態としては宗教の境界を取り払い融合しキリスト教でもイスラム教でもない宗教になることや多神教になることを期待するのではなく
それぞれの宗教を認め合うということだけなのではないか。
現実問題としてこのあり方を国境に当てはめると同じ価値観であるとか、文化、思想、経済を共有する枠組みという意味での国境を外すことが精神的グローバル化の意味になっていくのではなく
それぞれの国家がそれぞれの国家の在り方を認め合うということにあるのではないか。
そうした中でたとえば食糧危機になったとき戦争によって奪いあうのではなく相互扶助の理念でもって協力し融通し合う体制ができているということは危機分散管理の観点からも素晴らしいことであると言えるだろう。

といった解釈でいいのでしょうか?

この回答への補足

>精神的グローバル化
宗教は不要になり、環境認識という自然科学的な総合的学問が主体となるのではないか?という意味です。
>他我意識
他人も自分である、という意識で、神経でつながってない「だけ」であることを認識することです。

補足日時:2010/02/04 03:51
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決してナンセンスではないと思いますけど、昨日、私は結局のところ、極右的な人生論に突き動かされる様に、自己改革を試みてしまった。



その後、体中が言葉にならない感情でいっぱいになって、川べりの土手の道を車で往復した。例によってショパンのノクターンの8~12を繰り返して、その後、家でも余韻が消えずに家族に多大な迷惑をかけてしまった。(吉牛になっちゃった)

感情の運動は活発化したけど、家族にそれによって迷惑をかけてしまうという矛盾は、この質問に関連がありそうな気がして回答させてもらいました。

内部と外部の管理が今後の課題かもしれません。

この回答への補足

この拝金主義の日本において、他人を助けるために働く=活動する、というのは感性として周囲に同調する遠慮文化の日本では難しい。よってあなたの精神は右往左往するのでしょう。人間は生きるために生きるが、社会生命としては「生きる」ことが「働く」ことになります。そうした思想がまだ認知されていないだけで。

補足日時:2010/02/04 03:58
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「急いては事を仕損じる」「急がば回れ」ではないでしょうか?

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