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『哲学』カテゴリで質問して得た回答を言います。
“「~られる」「~れる」以外でも自分の意思に反して体が動いてしまったり、動作が止まったりした。”
↑について 精神科の主治医の先生から「作為体験」のことを言っていますと聞いたことを『哲学』カテゴリの質問の中で書いたのです。
“「~られる」「~れる」以外でも自分の意思に反して体が動いてしまったり、動作が止まったりした。”
に関して、‘やはり能動かどうかが知りたいです’と質問したところ、
「自分の意思に反して体が動いてしまったり、動作が止まったりした」と言う場合、行為に結びつく能動主体が表現されておらず、上のような関係が汲み取れないので能動性が感じられませんと言う回答が来ました。
回答を得た2日後に‘ということは、受動性の解釈で合っていると思い、そうなのかどうか知りたくなりました’と質問しました。
そしたら再び同一人物から以下の内容の回答が来ました。
受動性の解釈(「受け身だな」とか「受動的だな」とか「受動性がある」)については、そうかもしれないし、そうでないかもしれないと思い、「能動性が感じられないので受け身です」とはっきり書くのはやめました。
受動性の解釈をするなら、何が体を動かしたり、止めたりさせているのでしょうね。
以上について“自分の意思に反して体が動いてしまったり、動作が止まったりした”というのは能動性が感じられないので受動性かどうかは回答者さんには本当のところはわからないですという回答を得ました。
ここで質問です。
“自分の意思に反して体が動いてしまったり、動作が止まったりした”は能動性が感じられなく、受動性の解釈かどうかはわからないと言う回答を得たのですが、本当のところどうなのでしょうか?
受動性なのか、違うのかどうか回答下さい。
No.3ベストアンサー
- 回答日時:
辞書的には 受動性=他からの働きかけを受け入れる性質。
なので受動的に見えるかもしれませんが受動のみではないということになると思います。その根拠を申しますと 「意思に反している」+「無意識では体を動かそうとしたり止まろうとすしたいり命令している」 ということですから 確かに受動性という表現は的確な表現ではないかもしれません。ただ客観的には 「受動的性質で働いたという見方もできなくもなさそうだ」 ということを言わんとしているのではないかと思います。この回答への補足
“自分の意思に反して体が動いてしまったり、動作が止まったりした”
このことは無意識に起きていたこともあったと思うのです。
高校時代に、学校から歩いて10分かかる駅まで歩いて1時間くらいかかったのも自分の意思に反して動作が止まってしまったからです。
たぶん無意識に起きていたと思うのです。
毎日行く男子校を休学してから通信制の高校に変わってから、動作が止まるのも多かったです。
きっかけは幻聴と耳鳴りなどでやはり無意識に起きていたのもあったと思うのです。
でも決して操られた感じがしたから、体の動きを止められた感じがしたから動作が止まったからではないと思うのです。
>辞書的には 受動性=他からの働きかけを受け入れる性質。 なので受動的に見えるかもしれませんが受動のみではないということになると思います。
:
受動的に見えるのは何が受動的に見えるか、受動のみではないということはどういう解釈かを知りたいです。
再度回答下さい。
なるべくわかりやすい回答が欲しいです。
No.13
- 回答日時:
>まとめますと、『意思に反して体が動いてしまったり、動作が止まったりした』は意識では受動、無意識では能動ということでいいですね?
まあそういう風に見てもいいですが、無意識の場合「能動」という言葉と「自動的」という言葉が殆ど似ていると思って頂ければいいと思います。
>これが意識と無意識の中間のグレーゾーンの領域と言うことに思いました。
いやその・・・意識と無意識のグレーゾーンは「受動」とか「能動」もしくは「自動」という感覚が今一わからないと感じている筈です。
No.12
- 回答日時:
no10で「まあwikiについては100%当たっています。
」と書きましたが訂正します。「wikiについては当たっているところもあると思いますが」に変えます。
内容を見ても100%というような確証性のあるものではないと感じるのでまあ、そんな側面もあるかな~位で見て頂ければいいと思います
この回答への補足
補足します。
ここまで回答を度々ありがとうございます。
まず#4の回答のことで質問です。
>辞書的には 受動性=他からの働きかけを受け入れる性質。 なので受動的に見えるかもしれませんが受動のみではないということになると思います。
:
受動的に見えるのは何が受動的に見えるか、受動のみではないということはどういう解釈かを知りたいです。
―――の質問に対して、#4では「操られている」という言葉を使って、
“受動的に見えるというのは当人の意識が「自分は操られているな~」と思いこんでいたり他者が客観的に見て「操られているな~あいつ」と見る場合です。
そう見えるかもしれませんが無意識では無意識なりの意思が働いているので自発的に動いていると言う事になるわけです。その意識的と無意識的が相反(つまり意識では「操られている感じがする」無意識では「意図的に動いている」)に混ざり合っているので必ずしも受動性という表現が正しいかどうかわからないとその人は答えたという見解です。”と言う回答を自分は受けたことに関して。
これを「操られている」という言葉を使わないで再度回答してください。
『受動的に見えるのは何が受動的に見えるか、受動のみではないということはどういう解釈かを知りたいです。』の質問に対する回答が再度欲しいという訳です。
まとめますと、『意思に反して体が動いてしまったり、動作が止まったりした』は意識では受動、無意識では能動ということでいいですね?
これが意識と無意識の中間のグレーゾーンの領域と言うことに思いました。
また#3から回答してきた内容について書かれた本の名前、著者などをご存知でしたら教えて下さい。
No.11
- 回答日時:
>ユングの場合、集合無意識という解釈で合っているかどうか知りたいです。
おそらくそれはユング心理学を分かりやすく解釈した掲示板か本によるもので単純に集合的無意識と書いてありますが、正確には「人間における長年培われてきた要素の無意識領域」という意味になると思います。当人も言っていましたが「私の言いたかった普遍的無意識というのは遺伝そのものだ」と晩年言っていましたのでおそらく遺伝のことだと思います。
>感覚器官から取り入れられた刺激を無意識に処理して意識化されるという場合があるわけです
:
と回答したことについて、ここで言う‘無意識’についてわかりやすく説明下さい。>
無意識というのは字のごとく意識出来ないつまり感覚的にも感情的にも思考的にも直感的にもまったく当人が認識することができない領域の事を言います。
内臓の活動を意識化できないのと殆ど同じと考えてもらえば分かると思います。
例えば悪戯にしろ嫌がらせにしろ、当人に「なぜそんなことをするのか?」と聞けば「なんとなく楽しいから」などという回答が返ってくるのが大半だと思うのですが、なぜ人が嫌がる行為を「楽しい」と感じるのかは意識化できていない訳です。なので「なぜ人が嫌がる行為を「楽しい」と感じるかの理由を言葉ではうまく説明出来ない」という意味で無意識もしくは意識と無意識の中間のグレーゾーンの領域という事になると思います。
No.10
- 回答日時:
≪「無意識」は国語辞典で調べてみたら『自我観念の活動しない状態。
特に、フロイトの精神分析学で、精神分析によらないと意識化されない状態をいい、意識過程に影響を与える力のあるもの』とあります。wikipedia(無意識)には『「意識がない」とは、強い意味だと、大脳の働きがほとんどない状態を意味する。しかし大脳の働きは、人間が生きている限り、完全に停止するということはなく、「ほとんどない」とはどこまでないことなのか、客観的な基準が曖昧である。』とあります。
この場合の解釈はこのようなことで合っているかどうか知りたいです。≫
まあwikiについては100%当たっています。しかしフロイトの理論でいうと合点いくところも有るがそうでない所も有るといったところです。特にユングなんかは「フロイトの理論は不十分」と言っていましたし、脳科学的にもそういう側面はあるでしょう。別にフロイトを批判してるわけではないのですが、神経症メインで論文と分裂病メインの論文の違いにもあるようにフロイトやユングの時代は100%そうだというわけではないと思います。
この回答への補足
>特にユングなんかは「フロイトの理論は不十分」と言っていました
:
ユングの場合、集合無意識という解釈で合っているかどうか知りたいです。
それと9件目の回答で、
>感覚器官から取り入れられた刺激を無意識に処理して意識化されるという場合があるわけです
:
と回答したことについて、ここで言う‘無意識’についてわかりやすく説明下さい。
No.9
- 回答日時:
≪無意識が意識に思いこませ、結果意識的に伝わってきた感じがした’とはどういう概念を指すのか
、わかりやすく教えて下さると幸いです。
つまり‘意識的にそう感じたが無意識的にそのような声を意識に伝わらせている’という概念が知り
たいということです≫
つまり感覚器官から取り入れられた刺激を無意識に処理して意識化されるという場合があるわけです
。つまり刺激を受けるのは自らですからそれに対してどのように対処したのかという対処そのものが
「受動」「能動」「自動」どの表現でも可能だというわけです。
≪‘自動的’ではなくて、“自発的”という表現になるのか、‘自動的’でもあれば“自発的”とい
う表現もあるかどうか、どっちになるかが知りたいです。≫
まあ自発的という表現もあると思いますよ。
≪そうですね、能動と言うべきか自動的というかという話だと思います≫
両方可能でしょう
≪>「能動でも受動でもない」という表現
:
それは例えば何かが知りたいです。≫
上記のことから<自発的>だとか<自動的>だとかそういう表現の場合もありですから結果<「能動でも受動でもない」=「能動でも受動でもない何か」>という意味に捉えても構わないと思います。ただ家族の人がどういう意図でその表現を使ったのかは私ではわかりません。
この回答への補足
>>無意識が意識に思いこませ、結果意識的に伝わってきた感じがした’とはどういう概念を指すのか、わかりやすく教えて下さると幸いです。
つまり‘意識的にそう感じたが無意識的にそのような声を意識に伝わらせている’という概念が知りたいということです
という質問に対してteientさんは
>つまり感覚器官から取り入れられた刺激を無意識に処理して意識化されるという場合があるわけです。つまり刺激を受けるのは自らですからそれに対してどのように対処したのかという対処そのものが「受動」「能動」「自動」どの表現でも可能だというわけです。
―――と回答していることについて質問です。
「無意識」は国語辞典で調べてみたら『自我観念の活動しない状態。特に、フロイトの精神分析学で、精神分析によらないと意識化されない状態をいい、意識過程に影響を与える力のあるもの』とあります。
wikipedia(無意識)には『「意識がない」とは、強い意味だと、大脳の働きがほとんどない状態を意味する。しかし大脳の働きは、人間が生きている限り、完全に停止するということはなく、「ほとんどない」とはどこまでないことなのか、客観的な基準が曖昧である。』とあります。
この場合の解釈はこのようなことで合っているかどうか知りたいです。
No.8
- 回答日時:
≪では、以下の内容も受動的と言えるかどうか知りたいです。
≫≪★幻聴と耳鳴りおよび人の声が不快な音に聞こえた時、頭がガンガンするのか、ずーんとするのか、ズキズキするのか判断できないような感覚が強くなったことがあった。
頭のてっぺんがそのようになっている感じで、自分の頭の中(脳内)が操られている、治されているような感じがあったり、そうやって思ったりしたこともあった。≫
だからそれが意識的感覚であり無意識でいういなら「幻聴と耳鳴りおよび人の声が不快な音に聞こえた時、無意識のうちになになにかが能動的に起こり意識的に頭がガンガンするように認識させ、またずーんとするのか、ズキズキするのか判断できないような感覚を意識に強く認識させるようにした。」と表現されてもおかしくない。
故に意識的もしくは感覚的には受動性である場合はあるが無意識では能動的と表現できなくもない。ということになると思います
≪音として聞こえる幻聴や実際の声ではないですが、伝わってきた感じがした。≫
意識的にそう感じたが無意識的にそのような声を意識に伝わらせているという可能性も否定できない。
≪印の内容は僕としての考えですが、前者に関しては「脳内が操られている、治されているような感じがあった」のではなく、#7の回答にあるように、“無意識では「脳内を操っている、治している」と表現することも可能で、感じるという意味では受動的。後者に関しては「操られたような感じの体験」ではなく、#7の回答にあるように“無意識では「操ったような体験」と表現することも可能”という解釈で合っているかどうかが知りたいです。≫
まあ当たっているような当たっていないような・・・そもそも無意識という位ですから意図しないわけでそれを能動と言うべきか自動的というかという話じゃないかな?
≪「そのように体験する意味であるものを音として聞こえる幻聴や実際の声ではないですが、伝わってきた感じがした。」は言い換えればどういう表現になることが可能だと言えるかも知りたいです。≫
「そのように体験する意味であるものを音として聞こえる幻聴や実際の声ではないように無意識が意識に思い込ませ、結果意識的に伝わってきた感じがした。」
≪操っていると思っている人がいたとした場合、逆に操られてる人が操っていると見ることもできる’ということに関して、家族から「操られているということについては、操られているのではなく、自分の意思でやっていること」だと聞きました。このことを言っているかどうか知りたいです。
―――という内容についても回答してください。≫
つまりはそれは「インターネットを使いたいから使っている」のか「インターネットのせいで使いたくなる衝動がわき起こった」かの違いです。つまり表現方法によって幾らでも受動能動の表現は可能だということです。
≪最後に#1でも書いたのですが、家族に遣り取り内容をプリントアウトしたものを見てもらったんですが、“自分の意思に反して体が動いてしまったり、動作が止まったりした。”の解釈はどちらかと言えば能動で実際何もされてないとのことでした。
しかし能動でも受動でもないと家族は言ってたのですが、このことについて異論はあるかどうかも回答下さい。≫
家族の人が言っているのは間違いではないと思います「能動でも受動でもない」という表現はありえます。逆に言えば「受動でも能動でもある」という表現も可能だと思います。
この回答への補足
補足です。
まず#8の回答のことで質問ですが、teientさんは「そのように体験する意味であるものを音として聞こえる幻聴や実際の声ではないですが、伝わってきた感じがした」という表現を『そのように体験する意味であるものを音として聞こえる幻聴や実際の声ではないように無意識が意識に思いこませ、結果意識的に伝わってきた感じがした』と言い換えたことですけど、言い換えた後の表現(『 』の表現)のことで質問です。
‘無意識が意識に思いこませ、結果意識的に伝わってきた感じがした’とはどういう概念を指すのか、わかりやすく教えて下さると幸いです。
つまり‘意識的にそう感じたが無意識的にそのような声を意識に伝わらせている’という概念が知りたいということです。
>まあ当たっているような当たっていないような・・・そもそも無意識という位ですから意図しないわけでそれを能動と言うべきか自動的というかという話じゃないかな?
:
‘自動的’ではなくて、“自発的”という表現になるのか、‘自動的’でもあれば“自発的”という表現もあるかどうか、どっちになるかが知りたいです。
そうですね、能動と言うべきか自動的というかという話だと思います。
>「能動でも受動でもない」という表現
:
それは例えば何かが知りたいです。
再度回答下さい。
No.7
- 回答日時:
≪ホールのお客さんの声によって体を動かされた感覚つまり動作を速くさせられた感覚があった。
などですが、‘操られる’の例は全部受動が入っていると思うかどうか知りたいです。≫
たとえばボールを蹴ったとしたら「自分がボールを蹴ったのか?それともボールがそこにあったから蹴らされたのか?」という話です。
「ホールのお客さんの声によって体を動かされた感覚つまり動作を速くさせられた感覚があった。」というのは言い換えれば「ホールのお客さんの声によって体を動かした、つまり動作を速くした」と表現することも可能なので、意識的に「~された」という感覚かもしれないが無意識では「~という変化があったから~した」と捉えることも出来るということです。ただ感じるわけですから感じるという意味では受動的です。それ以外において受動かどうかはなんとも言えないということだと思います。
この回答への補足
では、以下の内容も受動的と言えるかどうか知りたいです。
★幻聴と耳鳴りおよび人の声が不快な音に聞こえた時、頭がガンガンするのか、ずーんとするのか、ズキズキするのか判断できないような感覚が強くなったことがあった。
頭のてっぺんがそのようになっている感じで、自分の頭の中(脳内)が操られている、治されているような感じがあったり、そうやって思ったりしたこともあった。
人の声だと、自分は喫茶店の厨房で仕事していて、ホールでオープン時からお客さんが喫茶店に来て話していてその声でにごっている感じに聞こえる声が不快に感じたことがあった。
★喫茶店で働いている時にあった。“~を操る 次は~を操る その次は~を操る・・・”と言ったような感じで精神病(症状)とかを操る意味のようなものだと思うのですが、そのような体験(操られたような感じの体験)があったり、そのように体験する意味であるものを音として聞こえる幻聴や実際の声ではないですが、伝わってきた感じがした。
★印の内容は僕としての考えですが、前者に関しては「脳内が操られている、治されているような感じがあった」のではなく、#7の回答にあるように、“無意識では「脳内を操っている、治している」と表現することも可能で、感じるという意味では受動的。後者に関しては「操られたような感じの体験」ではなく、#7の回答にあるように“無意識では「操ったような体験」と表現することも可能”という解釈で合っているかどうかが知りたいです。
「そのように体験する意味であるものを音として聞こえる幻聴や実際の声ではないですが、伝わってきた感じがした。」は言い換えればどういう表現になることが可能だと言えるかも知りたいです。
それと#5でもお礼した内容なのですが
>操っていると思っている人がいたとした場合、逆に操られてる人か操っていると見ることもできるわけです。
:
‘操っていると思っている人がいたとした場合、逆に操られてる人が操っていると見ることもできる’ということに関して、家族から「操られているということについては、操られているのではなく、自分の意思でやっていること」だと聞きました。このことを言っているかどうか知りたいです。
―――という内容についても回答してください。
最後に#1でも書いたのですが、家族に遣り取り内容をプリントアウトしたものを見てもらったんですが、“自分の意思に反して体が動いてしまったり、動作が止まったりした。”の解釈はどちらかと言えば能動で実際何もされてないとのことでした。
しかし能動でも受動でもないと家族は言ってたのですが、このことについて異論はあるかどうかも回答下さい。
No.6
- 回答日時:
人間の本質とか、人間の全体像と言う観点で理解するなら、貴方の疑問は解消すると思います。
人間が考えている『自分』とは、自我意識或いは顕在意識を指しています。ところが良く考察するなら『自我意識そのものも、見えない何か?に突き動かされています。』
その何か?が分る事を『見性体験』と呼んでいます。
例を挙げるなら、高い所に上がった場合では『恐い感情と共に、その高さなどの詳しい情報も一緒に、又一瞬にして届けられています。』誰が届けているのでしょうか?
自分の意思に反して体が動く例では、大抵の場合では『命の危険が迫った場合が多くなります。』急ブレーキを踏む場合や、火事場のくそ力などの場合では、『自分の意志や意識が働く時には、行動が終わっています。』この場合なども、自分が意思の力を使わなくて、反ってその前に、何かの力が働いています。』
目にゴミが入る瞬間の事を思い浮かべて下さい。『自分の意思の力で瞬きする』それ以上のスピードで、瞼を閉じています。
どの場合でも『思わずに体が先に勝手に動いています。』
メンタル面が弱い事を説明すると分かり易いかも知れません、メンタル面が弱いという意味は、『自我意識が出たままになってしまって、なかなか自分で、無意識や無意識的な行動が出来なくなる、という意味があります。
又優勝が掛かった一打を打つ場合や、大事な試合と言う、心にプレッシャーが掛かった時などで、メンタル面が強いとされる場合では、『顕在意識たる自我意識が引っ込んでいられる事』を意味します。
是は人間の『意識性』の問題になります。
この事を突き詰めた場合『意識する自分』と『無意識の自分』が共に脳内に存在している事を意味します。
実際に人間の脳を研究した成果がありますので、載せてみます。
『”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究
ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”』
この右脳の意識が、人間の心を『自我意識の背後から、内発的に動かせたり、働かせたりしています。』
脳卒中のために、左脳の人格と右脳の人格が交互に出ている動画を紹介します。
URL:
左脳と右脳は脳梁を介して情報交換をしています。そうして交替制が守られている事によって、健常者としての生活はキープされています。ですが実際にその情報交換を『自我意識』は知ることが出来難くなっています。そうして完全に『知る事が出来ない状態を』健常者と呼んでいます。
此処でもう少し右脳の意識を説明したいと思います。
右脳の意識を説明すると言うより、右脳の機能を説明する事にします。右脳の機能は、『言葉を持っていない事が特徴です。』言葉は理解する事は出来るようですが、言葉で表現出来ない機能から成り立っているようです。
そうして脳梁での情報交換は『言葉以外の情報伝達方法』を取っています。
そうしてその機能は『生命の維持機能』が主な機能です。
そうしてその生命維持機能は、大まかに分けるなら『体の生命維持機能』『行動面における生命維持機能』『精神面での生命維持機能』に大別できると思います。ですが『人間の全体像』という観点から見た場合では、この三つには当然として、かなり重なっていたり、切り離せない部分が含まれています。
身体が健康である、或いは健常者と言う場合では『体の生命維持機能』として脳の機能に『全く違和感を感じないで』その存在すら気付かないでいる事を意味します。
是に反して、メンタル面が弱いとされている、神経質な性格や不安になり易い性格とは、脳の機能である『体の生命維持機能』に気が付いた事を意味します。意識性が強いために『意識する事が多くなりがち』という意味です。そうである場合(神経質な性格と言う場合)では、身体の機能を『自我意識』が、単独で、制御しようとしたり、或いは『身体の生命維持装置である、この身体を機能的に制御しようと試みます。』
こういった事によって、身体の各所に付いて『内部観察する度合いが増えてゆきます。』本来的には、自我意識が体の事を忘れるなら、忘れるほど『体は、右脳の或いは無意識の機能が発揮されて、全ての生命維持機能が強化されるところを、自我意識たる左脳が、本来の機能の邪魔をする結果になっています。
自律神経失調症や、難治性とされている心身症等や、過敏性腸症候群などは、『検査をした場合でも、異常が見つけられない場合』の事をこう呼んでいます。
健常者と症状を訴えている人の違いは、身体の機能の異常ではなくて、『意識する内容の違い、つまり、自分の極度の集中力の向け方の違い』心の使い方や、心の志向の方向性の違いともいえます。
こういった『心の使い方を、自分の行動や、自分に対する他人の評価や、自分自身に対する反省』に向けた場合では、自分自身の行動に疑問を感じてしまいます。
自分に対する行動に『過度に意識を向けた場合を神経症』と呼んでいます。そうして過度に行動自体に意識を向けた場合では行動自体が、ギクシャクし始めます、身体そのものが『自分の自由に成らない場合です。』書けいや吃音や、手の振るえなどです。
そうして過度に『自分の行動の評価に意識を向けた場合では』是もやはり、行動出来難くなります。対人恐怖症等の症状を代表する症状となっています。』
自分に対する行動に付いて過度の反省や内省をする場合では、是もまた行動が阻害される事を意味しますが、この場合では、『心の中での対話が止まなくなっています。』つまり強迫観念や強迫行為となって、行動が出来にくくなるという意味です。
こういった『心の使い方を、自分の湧き上がる感情や考えに付いて振り向けた場合を、心を病む』と表現しています。湧き上がる感情に対する場合では『気分の変調が』主にその訴えになります。湧き上がる考えの場合では『湧き上がった考えを』主に訴える事になります。
身体に対する異常を訴えている症状群と、行動に対する異常を訴えている症状群と、心に対する症状群とは、まったく違うものと思いがちですが、同じ悩みから発症しています。
それは『自我意識たる顕在意識』VS『無意識の意識=無意識時の自分』が、主導権争いをしている事を意味します。
要約しますと、身体の機能と、行動の自由に対する機能と、心を自由に開放する機能は『自我意識は持っていない事』に気が付く場合に神経質な性格とか不安になり易い性格と表現しています。
従がってそういう性格基盤を持っている人達が陥りやすい、人生の不幸には『自律神経失調症』を代表する身体の機能に関する症候群が有って、行動の機能に対する症状群に『神経症』があります。
又自分自身の『心』に対する自由を求める場合では『心を病む』という障害となって現れる場合がある事を意味します。
右脳の意識は、無意識の底に隠れて、自我意識の見えない形で存在しています。人間の苦しみは『自分の心の矛盾』を形をかえて悩んでいる事を意味します。
神経質で不安になり易い代表格が『お釈迦様』です。自我意識VS『無意識の自分=命の働き=仏性』が、脳内で主導権争いをしています。
人間は生まれた時『全て兼ね備えた形で』生まれています。何も学ぶ事無く、不安も安心も熟知しています。恐いと思わせる者を生まれた時から既にもって生まれています。この者と『意識の根底で(脳梁の中で)』出会う場合、全ての障害は取り払われます。
お釈迦の教えは『究極的な心の癒しの心理学』を意味しています。
心の矛盾の解消する姿は、左脳の人格と右脳の人格が『脳梁の中で出会う体験の中にあります。』脳細胞の回路構成の発達を意味します。
意識の根底で、『自我意識には出来なかった』と了解するだけです。人間の悩みは『脳の機能の違いを、知らないでいる事を意味します。』
分かってみれば簡単な事です。心の使い方を『内向きに向いていた心を、外側に向けるだけだからです。』内部観察している心の志向性を外部観察に向けるだけです。
今の環境を全て受容れている者が、自分の脳内に存在しています。自我意識だけがその環境に、受容れられない何かを『見ています』
その受容れられない『何かが?』ある為に、脳内では『対話が止む事がない様になっています。』
その何かとは『我』の計らいです。その計らいとは『分別する心』です。簡単な言い方をするなら『世の中を好きと嫌いで、分けている見方です。』
こういう言い方なら分かり易いです、生と死を好きと嫌いで見なくなる見方です。
生が良い事とする見方が死を恐怖させていて、死を恐怖する見方が、生を生き難くさせています。
それは言い換えるなら、『天国を求める心が地獄を呼び寄せていて、地獄を避けようとする心が地獄から抜け出せない理由になっています。』
結論を言うなら『天国を求めなくなった時』全てが天国になるという意味です。地獄に落ちる決心が付いた時、地獄から抜け出しています。』
心の矛盾の解消とは『相反するものが、自分の中で同化する事です。』
検査をしても異常が元々なかった事を納得するだけです。『嗚呼このままで全てが整っていた事』を知るだけです。
ご回答ありがとうございます。
ご回答を読んでみて、もし理解できない、わからない内容があればあなたのwebサイトにて質問しますので、その時はよろしくお願いします。
No.5
- 回答日時:
すみません訂正です。
「逆に操られてる人か操られている」→「逆に操られてる人が操っている」
この回答への補足
補足します。
>操られるとはなんでしょうか?操っていると思っている人がいたとした場合、逆に操られてる人か操っていると見ることもできるわけです。
:
‘操っていると思っている人がいたとした場合、逆に操られてる人が操っていると見ることもできる’ということに関して、家族から「操られているということについては、操られているのではなく、自分の意思でやっていること」だと聞きました。このことを言っているかどうか知りたいです。
‘操られる’というのは、例えば以下のことを言います。
1)喫茶店の厨房で働いていて、自分の頭の中で例えば斉藤和義の「歩いて帰ろう」という曲が再生されていた。再生されていた曲の「♪走る街を見下ろして」という部分が「♪はしる まちを みおろして」と歌うのに、頭の中では「♪そうる まちを みおろして」と再生されていた。ところが喫茶店の厨房で一緒に働いていた職員さんの言動によって頭の中で再生されていた「♪そうる まちを みおろして」は「♪はしる まちを みおろして」と変換されて再生され、すぐさま「♪そうる まちを みおろして」と変換されて再生される出来事が起きて辛く感じた。すぐさま「♪そうる まちを みおろして」と変換されて再生されるのは職員さんの言動がきっかけではない。
2)学校から歩いて10分かかる駅まで、歩いて1時間以上かかった。
これは自分が「歩く」という動作を何らかによって止められた感じがしたからである。
3)幻聴と耳鳴りが混ざったような音が聞こえ、それによってじっとした後に動き始めようとすると、体の動くと言う動作を止められるような感覚がある。
4)喫茶店の厨房で僕・職員さん・僕以外の利用者さんと働いていて、食器洗い・すすぎ・拭きをしている時にホールでお客さんがしゃべっていた。その時、幻聴と耳鳴りによって体の動きを止められていた(例えば牛乳を飲もうとすると幻聴・耳鳴りが体の動きを止めてくる)のが、ホールのお客さんの声によって体を動かされた感覚つまり動作を速くさせられた感覚があった。
などですが、‘操られる’の例は全部受動が入っていると思うかどうか知りたいです。
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