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クオリア。
この言葉が、いろいろと考える発端となりました。

クオリアとは、感覚から生じる「感じ」と云うものを指すようです。感覚質と表現されてもいるようです。
こんなことから、ふと思ったのが感覚と感情は区別できるのではないか、という事です。

人間の感性には感覚と感情がある。

感覚は他の生物にもある、物理的情報と云える。
感情は高等哺乳類以上に現れる、心の情態と云える。

ただ、感情と云う言葉は心の情的反応(心情的反応)を意味してしまうので、生理的(肉体的)クオリアに感情と云う表現は使いにくい。

でも、肉体的心地よさとか不快感とかをクオリアと云うならば、これも”情的反応”と云える。

ここまで考えて、ふと気づいたことはクオリアは外部からの物理的刺激を受けて生じる心の反応の事で、それは情的に現れるという事。

さらに気付いたことは、それでは絵画とかの芸術などに接して現れる感情はクオリアと云うのだろうか、という事。

嗚呼、分からなくなってきてしまった。

誰か、助けてください。

A 回答 (5件)

こんにちは。



1. クオリアについて 昔からの真善美の一体なる理論とそして
わが《あくがれの理論》をつうじて問い求めてみます。

2. 《真善美の一体》説については 次の質問の趣旨説明をごら
んになってください。長くなるので端折ります。
【Q:真善美のみなもとは 同じひとつであるか?】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10243037.html

2-1. かんたんには 真と善が 普遍性を持つのはよいとして
も 美は 人によって千差万別ではないか? という問いに答える
ものです。

2-2. 真とは ひとの相対的な主観真実を超えた絶対性として
の真理を言い 善とは やはり経験事象としての相対的な善悪のこ
とではなく 善悪の彼岸とも言われる至高善( summum bonum )
のことです。

2-3. これら真理と至高善と一体である美とは何か? やはり
同じく 相対的な美醜を超えた美である。

2-4. となると 問題は 真理と善と一体なる美が 経験世界
では 人それぞれのさまざまな美(ないし美醜)として現われるの
か? つながりはあるのか?





3. さて あくがれの理論にすすむ前に 《感覚と感情》につい
て考えておきます。

4. 広く《感性――身における神経細胞等のハタラキ――》とし
ての《感覚》は 世界の人や物事から受ける刺激を知覚したそのも
のを言うと思います。――《その人はうつくしい》と表現する前の
《あは !( Ah ! Oh ! )》なる知覚。

5. 《感情》は ことば(≒概念)で表現したあとに持たれる感
覚ではないだろうか。

5-1. 第一次知覚としての感覚をひとが意識する。あるいは 
概念(≒ことば)として認識する。そうしてこの認識や意識の内容
を知解が理解しようとしたり意志がどう扱うかを思ったりするとき
そこに(一般に心に)抱かれる気持ちである。
――《ああ うつくしい人だ》なる第二次感覚としての第一次感情
は その情感としてさらにさまざまに発展する。





6. さて あくがれの理論である。
【Q:うつくしさは あくがれの問題か?】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10255999.html


7. 《このうつせみのワレ(≒アク)からの離脱》ないし《脱自・
エクスタシス 》――これが あくがれ(=あこがれ・憧)である。

8. ならば このうつせみの世の相対的な美醜や浄穢を超えた・
真善美なるミナモトの美につながっている。と考えられる。



9. 高梨沙羅は ジャンパーとして理想のパーフォーマンス――
つまりその美――にあこがれた。これを 問い求めた。

10. 伊藤有希や岩淵香里は その沙羅の《求道》のすがたに心
打たれた。あこがれた。幼なじみで同級生の勢藤優花は 沙羅のア
クガレを愛しとうとんだ。


11. つまり・すなわち 《クオリア》とは このようなアクガ
レ〔としての美学〕にかかわって おのおのの心に起きている〔か
に思われる・いわく言いがたい〕質感であろうか。


12. われ(≒アク)からの《離脱》というよりは 《自己の超
越》と言ったほうがよいかも知れません。

13. あるいは 《脱自》と言いますが 必ずしも《脱》ではな
く 自然本性なる自己になおそなわったかに思われるプラス・アル
ファとしてのたましひ(または ブッダターやアートマン)のこと
かと推し測られます。

14. ヒラメキや良心のハタラキに似て アクガレの場合には
そこに ふとキラッと輝くまぼろしを見たというような体験ではな
いだろうか。そこから 感覚以上のクオリアなる感じがいだかれる。


15. ただし かがやくもの 必ずしも金ならず。でしょうか。
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この回答へのお礼

すべての生き物の行動は感覚を通して、刺激を受けた情が行動となる。
・・・と言ってしまえばそれまで、ですが・・・

微生物の”自己保存行動?”は、感覚による情報を直接、行動に現わすとした場合、”情”が現れ始めた生物のその行動は”情”を通して行動する、と考えました。

その境目は、はっきりさせられないと思うので、ここでは人間が持つ”クオリア”なる事柄について考えますが、そうしたら、感情=クオリアではないかと思えてきたのです。

微生物の”自己保存行動”を”物理的行動”と見た場合、人間の行動は反射運動(反射神経)のような反応は別でしょうが、”精神行動”と云えるのではないでしょうか。

また、”精神行動”は理性や感情と云った働きによると思いますが、そう思えば《Ah!Oh!》は、すでに感情の現れであると思いたくなるのです。

そしたら、質感。感覚質。
これについては、情的感覚(感性)の発達した結果の”情報・あるいは認識”であると言ってみたくなりました。

回答、ありがとうございました。

お礼日時:2018/02/19 19:49

No.2回答者さんの指摘は理解できます。


一般の人が自然に理解していることを哲学的に考えると迷路に迷います。
脳の中の世界から現実世界に移って考えると意外と簡単なことと気づきます。
>感情は高等哺乳類以上に現れる
そうでしょうか?感情は脳がある動物には存在します。
痛い、熱い、寒いという感覚から、逃げたい、痛いのも熱いのも寒いのもイヤという感情があり、
退避行動や体型や体毛の変化になったのが進化。
人間は進化はするけど思考能力が優れているので科学や化学、文化で工夫して対応している。
だからある時期から退化している。
野生動物は行動して結果を知るが、人間は脳だけで考え先入観で行動しない。だから悩む。
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この回答へのお礼

「感情は脳がある動物には存在します」

たぶん、そうだと思います。

お礼日時:2018/02/19 19:53

感覚→感じた基準


感情→感じた思い
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この回答へのお礼

基準、という事がよく分かりません。

お礼日時:2018/02/15 00:44

先ず「クオリア」とか言う南蛮渡来の毛唐言語を捨てたら如何ですか?



何語か解りませんが、キリスト教的価値観の中で生まれた言語でしょうから、
その枠内のことを、日本語で悩もうとする時点で、誤訳が潜んでいそう。

「人間の感性には感覚と感情がある。」
 ↑
これから素直に始めるべきでしょう。

少し、酒が効きすぎかも・・・・。
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この回答へのお礼

少し、酒が効きすぎかも・・・・。

とは、わたくしの事でしょうか?

お礼日時:2018/02/13 21:29

私にもよくは分からないのですが クオリアは感覚質 意識をなしているものじゃないでしょうか



感情も欲望や本能の影響も強いですが 感情も意識に登ります。だから感情もクオリアを持っていると思います

理性や意思や意志や感情等の 意識を構成している質をクオリアと読んだのではないでしょうか?

私はクオリアも性質の一種だと思っていますが。
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この回答へのお礼

・・・という事は、人間はクオリアでできている、とも云えるのですね。

お礼日時:2018/02/14 00:06

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