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充実している人と虚脱している人

人生に山谷があり、感情にも夏冬があるように、人はあるとき人生が充実していると実感し、またあるとき虚脱感とそれを追いかける焦燥感に駆られることがあります。

哲学のカテゴリでご活躍される方々の「充実感を感じる時」「虚脱感を感じる時」をお聞かせ願いませんか?

もちろん、知りたいのは、充実感の原因は何か、虚脱感の原因は何か、ということですが、充実感に関しては長期間維持の秘訣、また虚脱感に関しては早期脱皮の秘訣があればそちらもご紹介ください。

A 回答 (20件中1~10件)

知りたいのは、充実感の原因は何か、虚脱感の原因は何か、ということですが、充実感に関しては長期間維持の秘訣、また虚脱感に関しては早期脱皮の秘訣があればそちらもご紹介ください。




と言う事なので、その根本を貫いている原因 を書いてみます。

充実感を感じると言う事は、自分が自分として何も疑いを持たない時と言えます。自分自身を疑わないという言い方が、分り易いかも知れません。或いは自分自身に満足を覚える時と言う言い方でも良いかも知れません。

虚脱感とは、自分を信じられなくなる、或いは『自分は何のために?何をしているのか?』が分らなくなってしまう事が、意識の根底にはあると思います。つまり『自分を疑う』という事です。

この事は突き詰めた場合、自分を意識するのか、或いは意識しないのか、という事になります。自分を忘れている時が『充実感』を感じている時です。自分を、或いは自分が意識している時『虚脱感』を感じていると思います。

その虚脱感を違和感と言う風に言い換える事も出来ますし、或いは漠然とした不安と言う言い方も出来るはずです。もっと言うなら『罪悪感』と言う言い方も出来るはずです。何故ならばその『感じる内容』は皆同じ自我意識に送られてくる、同じ情報を、個性によって違う事として『解釈している』と考えられるからです。

人間は自我意識と、その自我意識に送られる情報によって、毎日がつつがなく送れていると言う事になります。その『送る者』と手を取り合っている場合が『充実感の原因』という事になります。自分をわすれている時の事です。

虚脱感を感じている時とは、自我意識のみで、世界を見渡している時の事です。意識の根底で『何かが?』自分をせきたてている事です。『分らない者』の存在を意識してしまう場合です。この事が古今東西を問わず、人間が悩ませられてきた問題と思うからです。

『分らない者』に意識が行っている場合には、孤独感や漠然とした不安に悩ませられる場合があります。この不安らしきものが原因という事になります。

これ等を繋ぐ根本問題とは『心の矛盾』と言えます。人間には心が二つ有るからです。一つは顕在意識を束ねています。もう一つは『無意識界や潜在意識界』を束ねています。それともう一つ大事な役目を持っています、それは『命そのものを働かせる』役目も担っています。

心臓も肺も胃も腸もホルモンの調節も、自律神経の調節も全ての命を繋ぐ働きをしている者の事です。今言ったものを疑う時から、心臓を働かせる者を疑う時に『心臓神経症』の症状になっています。肺を働かせる者を疑う時に、呼吸困難を伴う神経症になっています。

自分自身を疑う時にその疑う事自体、言い方を替えるなら疑った内容を『症状』として感じています。心を疑う事が『心の病の元』になっています。

是は『自我意識が出やすい』処に問題があります。優勝が掛かった一打を打つ場合と同じです。自我意識が出やすい事を『メンタル面が弱いと言います。』優勝が掛かった一打を打つ場合に『自分が出ないように打つ事が、』優勝に近ずく事になります。

”充実感に関しては長期間維持の秘訣、また虚脱感に関しては早期脱皮の秘訣があればそちらもご紹介ください。”と言う事に関してもいえます。自我意識が出ない事を学という事になります。

自我意識が働いていない時に『誰が』働いていますか?と言う事が答えになります。

その者が分かる時が自分自身を知る時です。仏教では『生死の問題が解決した』と言う言い方です。キリスト教では『神の僕になる』と言う言い方をしています。

どちらも同じ事を言っています。『心の矛盾』が解決した姿の事です、自分の心が争わなくなる事を言っています。この心の静けさを涅槃と言ったり、神と和解した、と言っています。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

梵我一如ですね。

私はまだ幼少のころに人生が有限だということに気付いてしまい、夜な夜な、何度も母を困らせました。
ただ『生死の問題を発見した』子供になってしまっただけで、当時はあまりにも幼くこの大問題を突詰めて考えるだけの知性も無かったことが幸いし、ただただ夜毎に怯えるだけで、世捨て人になることもなく長じることができました。

一点、良かったことは、幼少にして大絶望を経験してしまったために、思春期から青年期、そして壮年期で経験する絶望が大抵は小絶望、高々中絶望と思えるようなったので、現世を放棄することもなく馬齢を重ねることができました。

現世でやらなければならない事、やっておきたかった事など、一通り経験し、そろそろ世間から必要とされなくなり、家族からも必要とされなくなる時期が見えてまりました。
そうすると、幼少のころ、寝床で母を悩ませた問題がまだ解決していないことを思いだすことがあります。

人生でこの問題が頭をもたげたときにどうすればよいかも解っておりますので、一夜の悪夢としてやり過ごしておけば、また一日を充実して過ごすことができます。しかし、そろそろ幼少の時に発見したこの問題を片づけ、『生死の問題が解決した』状態になれるか再度挑戦してみてもよかろうと思う事があります。

ただ、如何せん、私にとって最古の未解決問題で、この問題があたかも人生の伴侶のような感じですので、本当にこの問題を解決してしまってよいのだろうか、解決した後の人生ではどの問題と寄り添って行けば良いのだらうかと、要らぬ心配をすることもあります。

現世の雑事にかまけてかりそめの充実感を感じられた時期が終わろうとしている今、改めて梵我一如に取り組まなけれあばならないのかも知れませんね。

お礼日時:2010/07/24 13:21

もう一度書いてみます、今度は他の面からです。

虚脱感と言う事と、孤独感と言う事は違うかもしれませんが、孤独感を書いてから、虚脱感を取り上げてみます。

一人で生きていながら『孤独』を感じない時があります。孤独を感じない時は『充実感に』満たされています。一人でいながら孤独ではないと言う心的な態度が何処からもたらせられるかを書いてみます。

単刀直入に答えを先に書いてみます。人間には『心が二つ在る』と書きましたが、そのもう一つの心とは『無意識の意識です。』大変分り難いですが、自我意識の他に人間にはもう一つ意識が在ります。仏教では仏性と言っています。キリスト教では、神と呼んでいます。

人間が生まれた瞬間から既に持っている『命を働かせている意識』です。自我意識とは違う能力の持ち主です。この事が(意識が二つ在る事が)判りにくい事から、精神疾患や、神経症や、自律神経失調症や、心身症の解明が余り進まないという、事実になっています。

もう一つの意識は『無意識の中に』封印された形で存在しています。出会い難い、或いは自我意識が認識でき難い訳が在ります。意識と、無意識は交替制を取っています。

分かりやすい話で説明するなら、眠る場合です。健常者と言う人達は眠ろうとした場合、意識がなくなっています。そうして『無意識の自分』に体と心を心安らかに預けています。そうして無意識の意識が心と体を、心地良い深い眠りに入らせています。

眠れない人の場合には、心と体を、自我意識で制御出来ると勘違いして、自我意識の力で、或いは意思の力で『力ずくで』体と心を眠らせようとしています。自我意識は逆立ちしても眠れません。自我意識単体では眠れないように出来ているからです。

人間の行動でも、心的な働きでも、必ず『一旦、無意識が介入しています』話す事でさえ『自我意識単独で』やろうとした場合には、口や舌でも自由には働きません。指先一つでも震えてしまい、自由には働かせる事は出来ません。この事が吃音や書けいという事になります。

人間の脳内に二つの意識が存在していると言う文献を載せてみます。

”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究

ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球がそれぞれ独立した意識を持っていることを実証した。”

この二つの意識の連携プレーが淀みなく出来た人が、健常者という事になります。この二つの意識に少し軋みが顕われた場合が、神経症や自律神経失調症という事になります。更にその溝が深くなった場合を、精神疾患になったと言います。その溝が埋まらなくなった場合を自分がわからなくなったと言います。

人間の悩みとは心の矛盾や対立や分裂を言いますが。この二つの意識にずれが生じた事を言っています。

先に書いた孤独感に悩まされる事とは、自分のもう一つの意識と仲違いをしてしまって、うまく連携プレーがとり難くなった状態です。その反対の、ひとりぽっちでありながら、孤独を感じない状態とは、もう一つの意識と仲良く出来た場合です。

もう一つの意識は、他の人達と繋がっています。感動を分かち合うように、悲しみを分かち合うように、全ての感情を抱く者として、その奥底では繋がっています。その繋がりを信じられる事によって、孤独を感じないですんでいます。

人間が物を見る場合にも、音を聞く場合でも、全ての感覚は自我意識ともう一つの意識は共に体験しています。もう一つの意識は真実を見る者として、或いは全てを受入れる者として、自我意識に言葉に拠らない情報伝達手段で『脳梁』を通じて絶えず送っています。

高い所にいる事や、スピードを出しすぎた事や、危険が迫っている事などや、好きな人がそばに居る事も、心臓まで高鳴らせて教えています、危険がそばに迫った時は、『自我意識の出番を待たない』で手や足が先に出ています。その時の事を『思わずに手や足が出た』と表現しています。

人間に備わっている『命の働きの意思』と繋がっている時が『人生が充実していると実感』します。

『命の働きの意思』と自我意識が仲違いをして、うまく連絡がとり難くなった状態が、『虚脱感の原因』という事になります。この事がもっと高じた場合『心を病む』という事になります。

二つの意識が出会うことを『見性』と言います。悟りを開く、と言う言い方でも可能です。それ以後は右脳と左脳には『ホットライン』が直に繋がってしまいます。二度と心は争わなくなると言う意味になります。

自我意識が一歩引き下がった形です。
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございます。

卑近な例ですがゴルフをするときに自分の中に分離脳がある様な気がすることがあります。

似たような打撃遊びでも、野球の打者やテニスをするときには、ボールが飛翔してくる瞬間に打たないといけないので、反射神経で打ちます。悩む暇が無いわけですね。

ところがゴルフというゲームは地面に静止しているボールを打つので、あれこれ策を弄する余地がある。
理想的な飛球を考えて体重の移動をどうしようとか、左腕と右腕の協調動作をどうのこうの、とか。
これが分離脳の両者を喧嘩させてしまうことになります。

自意識は、どこら辺に球を持って行こうとか、障害物を上から超えるか横に避けるかなど”戦略”を考えるのは良いのですが、打点を右に寄せようとか、ボールに対して斜めにあてて横方向の回転を付けよう、など、実行に関する詳細を考えてしまうと全く駄目になる。
自意識はもう一つの自分に対して「あの辺にボールを持っていってください」とお願いするだけで、あとはもう一人の自分に任せていると思った通りの仕事をしてれることがあります。
しかし、もう一人の自分を支配下において、自意識の指令通りに動かそうとすると必ずうまく行かない。

ゴルフの上手な人はきっと、この二人の自分をうまく働かせることができて、戦略立案と実行を無理なく実現しているのだとおもいます。

人生もそうしなくちゃいかんのでしょうね。

お礼日時:2010/08/03 13:26

少し考えると、猪突さんとの差は「意味」と「強度」の差なのかなと思いました。



自分の行為の影響力を重視するのが「意味」重視
自分の行為への没入を重視するのが「強度」重視

影響力を確信するために実現可能な目標に取り組む方法を勧めるのが私
行為へ没入するために滅私の状態で目標に取り組む方法を勧めるのが猪突さん

ただし、理性的な行動戦略に従えば、「意味」重視も「強度」重視も行動としては同じようなものとなる。

しかし、小賢しさが無い分、行為へ没入する方がより純粋に取り組めるでしょうね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/10/07 18:02

回答番号:No.15の最後の部分を読んで涙がでました。



偶然によってつくられることに対して不条理感を
それが余りに強固なのに対して無力感を感じたように思えます。

結局、それが私の「虚脱感」なのでしょう。

逆に言えば「充実感」とは

強固な構造でも自分の智慧等次第で変化させることができるという有能感なのでしょう。

そうすると、集中しているときに充実感を感じるという私の以前の回答は

自分の力量にふさわしいことをする時が集中でき有能感と充実感を感じると言い換えることができると思います。

それは猪突さんとは異なる意見になりますが、観る視点が異なるだけで全体としては同じ構造なのかと直観的に感じます。あくまで直観ですが。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/10/07 18:03

>永続性のある充実感ってのを求めちゃいけないということでしょうか。



昔私の先生がまだ若かった頃、著名な物理学者に

「お若いのお前は何をやっとるのか」

と聞かれて、非平衡熱力学に興味があると答えたそうです。その当時、熱力学と言うと平衡系の熱力学に決まっていました。平衡状態と言うのはその系が外界と同じ温度になっている系で、永続的にそこに安定に留まっている状態です。一方非平衡状態とは、例えばその系が外界と温度が違うような状態のことで、その系を放っておくとその状態に留まれず変化してしまう系のことです。その答えを聞いたその物理学者は私の先生に向かって

「あんたも詰まらないことに興味を持っているんだね。非平衡系は一過性の不安定状態じゃないか。何で安定な平衡系をやらんのか」

と言われたそうです。そのとき先生は頭の中で

「この方も変な方だ。我々人間は全て一過性の非平衡系じゃないか」

と思ったそうです。その後私の先生は、例えばその系の一方をある温度の外界に接触させ他方を別な温度に接触させて、その系を平衡状態から十分遠い非平衡状態に保っておくと、外界との非線形な遣り取りによって、比較的長期に安定した大変複雑な構造が自発的に発現して来ることを明らかにしました。ところが元々非平衡系ですから、平衡状態のように永遠と安定していられる訳ではなく、必然的に崩壊しざるを得ないとこも同時に明らかになりました。

そのような非平衡構造の最も簡単な例は対流です。水を閉じ込めた容器の上下に温度差をつけておくと、そこを熱が流れます。温度差が小さい時は、内部の水は動かずに熱伝導だけで熱が移動して行きます。その状態では、水のどの部分も均質で構造がありません。ところが温度差をどんどん大きくして、熱平衡状態から十分に話すと、ある温度差の臨界点のところで、水が右向きか左向きに対流を起こし始め、水の移動によっても熱が移動し始める。水はある場所では上向きある場所では下向きと、構造を持ち始めます。対流が右向きか左向きかで二つの違った構造が可能ですが、それが同時に存在は出来ません。このどちらかに移行することを「分岐する」と言います。そして、面白いのは右向きに分岐するか、左向きに分岐するかは水を閉じ込めている容器が十分に大きい時には全く五分五分で、コイン投げをする時の確率と同じになります。まっ、米虫棟梁が今の奥さんを手に入れる状況では、全くの偶然が本質的だった訳で、あんたの奥さんと一緒にいると言う分岐が選ばれてしまったと言っている訳です。あんたの奥さんには怒られてしまうかも知れませんが、運命の赤い糸なんてな必然じゃなかったんですよ。そして、非平衡系ではこの分岐を次々と繰り返しながら、単純な構造から複雑な構造への進化して行く。

でも、奥さんに言っといて下さい。赤い糸がなかったと言うことは、その時点ではまだ未来が与えられてはいなかった。あんたとあんたの奥さんの決意で、あんた方は自分たちの未来の構築に参加したんだって。そのとき、時間は一歩前に進み後戻り出来なくなった。その決意がなかったら、エントロピーの変化によって測られる時間は前進していなかったのです。

平衡状態は別名「熱死状態」とも言います。この状態は永遠に安定して存在出来ますが、構造がありません。ですから、もし永続的な安定感を味わっていたいなら、自他の間に存在する複雑な構造は諦めなくてはならない。ところが、高度な構造を味わいたいなら、永遠は諦めなくてはならない。要するに、生物は何故死を免れることができないかが明らかになったのです。だから永続的な安定感を味わうことは始めから無理ですね。

ただし、救いだったのはこの非平衡構造は状況が整うと比較的長期に存在出来ると言う事実です。別な言い方をすると、その辺りを量的に分析すると、どんな条件お満たせば、複雑な構造を保ちながら比較的長く生き残って行けるかの方法が判ると言うことです。

自然科学の歴史を振り返ると、自然科学とは何が不可能かと言うことを明らかにする方向に常に進歩して来ましたね。昔は聖人の空中遊泳が可能だと思われていた。それを科学の進歩は否定しました。昔は物体がどんなにでも速く移動出来ると思っていた。ところが移動速度には上限があり、光より速く移動出来ないことが明らかになった。量子力学も物理量の小ささには限界があり、任意に小さい値を取ることが不可能であることを明らかにした。同じように、上で紹介した非平衡構造の理論も、高度な構造が永続的には存在することは不可能であり、死から免れることができないことが明らかになったのです。永遠に存在し続ける永続的な状態には全く構造がありませんから、痛みも苦悩も感じることはないですが、快感も喜びも感じることも出来ないことを明らかにしたのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

確かに拙者共夫婦はいつも非平衡状態のままです。なぜか解らないが、比較的長期に存在してはいますが。

この非平衡状態をもうしばらく継続するには、快感や喜びを期待しながら痛みも苦痛も感じなくてはならんのですね。

お礼日時:2010/08/03 13:33

相変わらず米虫棟梁は千里眼だね。

私の先生と私の創ってきた仕事はいつも、支離滅裂だと言われている。素晴らしいと言う奴も居れば、けちょんけちょんに言う奴もいる。

私が紹介した今回の遣り取りで紹介した若いのは、他にも良いことを言ってんだね。彼はずっと物理をやっていて、ひょんなことか物理屋と数学屋が一緒んなって作った学科に就職出来たんだが、久しぶりにアメリカにやって来てこんなこと言ってた、

「数学屋さんの言う事って、こちらが根気よく努力すれば必ず判るようなことを言っているらしい。でも、物理屋って判る奴じゃないきゃどんなに努力したって判りませんよね」

この野郎良く見て居ると思ったね。あたしゃ、若いに結構いろいろ教わって来た。他の若い奴に教わったのは、あるときその若いのが、

「人間て規則を破る時にだけ、考えるんですよね」

ってたね。これもすごい言葉だと思ったね。年寄り年寄りって威張っているが、何時の時代でも若もんが世の中を創って来たようだね。

作るんじゃなくて創るんだ。俺たちはきっと神様だよ。
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この回答へのお礼

なるほど。

コンピューターは規則守るのが得意だから、人間の真似は出来ないですね。
規則を破り続ける人間=考え続ける人間が充実感をもち続けることができるのかもしれません。

お礼日時:2010/07/25 18:02

#14さんの興味ある見解を読ませ貰いまし。



私にはなるほどと思える部分も在りしたが、本当かなあと思える部分もありました。

>自分自身に満足を覚える時と言う言い方でも良いかも知れません。
>虚脱感とは、自分を信じられなくなる、『自分を疑う』という事です。

これはそうだろうと思えます。しかし、

>この事は突き詰めた場合、自分を意識するのか、或いは意識しないのか、という事になります。自分を忘れている時が『充実感』を感じている時です。自分を、或いは自分が意識している時『虚脱感』を感じていると思います。

これに関しては、おっとっとっと、ちょいとお待ちなせえってな感じです。

私はある世界的なインド人の物理学者の先輩に連れらてヒンズー教の坊さんのやった5日間の講義に行ったことがあります。その坊さんは黄色い衣を纏い大学の講義室の先生の机の上に胡座をかいて座り、片手に赤いカーネーションを一本持ちながら講義をしました。彼の講義の内容はたった一つ、「自分を意識せよ」でした。「自我を顕在させ明確に意識することが充実感を保証してくれる」これが全部でした。

我々は何かに夢中になり、我を忘れ自分を忘れているときにしばしば満足感を感じる。しかし、それは偽もんじゃっと繰り返し繰り返し言ってました。我を忘れている状態など長続きするもんじゃない。必ず終わりが来る。その時の虚脱感は前の満足感を簡単に吹き飛ばしてしまう。究極の充実感は、自己を常に意識していられる時に達成するのじゃってなことでした。顕在化した自己は自己であって他者でない。従って、自己は男心か女心か知らんが、そんな心と秋の風のように偶然に任せてコロコロ変わるようなもんじゃない。だから、自己の中にそして自己の中のみに揺らぎのない充実感が在るんじゃって言ってました。その話をする時に、その坊さんは片手に持ったカーネーションを上手に振り回しながら話していました。

そして、講義の途中でときどき「さあ皆さんここで目をつむって、瞑想して下さい」と言って一、二分静かになる。その各瞑想の終わりに近づくと、彼は何とも言えない低い声で唸り出す。そして、「さあを目を開けて下さい」と言って、また講義がつづく。

そんな講義も終わりに近づいて来た数日後の講義で、またいつものように瞑想が始まりました。皆が目を閉じて少し経ったら、また低い唸り声を出し始め、そしてゆっくりととぎれとぎれに

「皆さん、、、今から、、、非常に、、、大切なことを、、、言います」

と言って、しばらく無言になりました。勿論まだ瞑想中です。そしてまた彼は口を開き

「私が、、、今、、、非常に、、、大切なことを、、、言いますと言ったら、、、あなた方は、、、全神経を使って、、、その言葉を、、、聞こうと、、、意識し続けていましたね。それが貴方の自己なのです。その時に、、、自己が、、、顕在化したのです」

私は、「あっやられた、確かにそのとき私は自分をはっきり意識していた」と、感心しました。

彼に言わせると、自己を常に顕在化し、他者と言う偶然に翻弄されない確固たる充実感を達成することが、人生の崇高な目標なんじゃ、とのことです。

だから、その坊さんの意見は#14さんとは180度反対な意見ですね。「『誰が』働いていますか?」なんて誰かを探しているようじゃ、本当の涅槃なんて来ないよっちゅうご意見でした。

さて、ところで私はその坊さんに同意するか。答えは「否」でした。人間同士の自己と他者の間の相互作用は、途轍もなく、滅茶苦茶に、高度に、ハチャメチャに、想像を絶して非線形です。自己が他者の触媒になり他者が自己の触媒になり、とグルグル回りながら自己は他者と共に変化して行きます。その触媒効果は自己も他者も不安定な存在にして、様々な偶然を持ち来らし、その偶然を契機にして、自己も他者も、人事の想像を超えて超複雑な構造を創り出します。この「偶然」に根を下ろした構造は、もともと偶然を根拠にして出来上がっているので、一旦出来上がった構造は偶然によってはそう簡単に破壊出来ません。それに対して、偶然を排し、自己の上だけに作り上げた構造は偶然に対して免疫を持っておりません。

だから、私の経験則によると、自他一体に融合した「滅私」の中に、強固な安定した構造と充足感が生まれるのだと思われるのです。自己の発見でも自己の忘却でもなく、滅私を通して自分の身を偶然に委ねる。後は人事を尽くして天命を待つ。運が良ければ、何事にも代えられない充足感が味わえ、運が悪ければ、前世に余程悪いことをしたんだと思って諦めなさいってことです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

大抵は前世によほど悪いことしてきているので諦めるのが基本でしょうな。
人が人間である以上、偶然の他人とのやり取りで想像もつかなかった非線形の化学反応を起こして、それが人生の充実感になるというのも事実ですね。
でもこの世は無常ですから、この種の充実感にも永続性はない。

では、永続性のある充実感ってのを求めちゃいけないということでしょうか。

お礼日時:2010/07/25 17:57

米虫さんの千里眼は怖いね。

老カウボーイは図星だ。物理じゃ意味のある問題で運動方程式を厳密に解けることなんて先ずない。いや、意味ある物理系で運動方程式が解ける系を見つけたら、それだけで歴史に残れる。そんな事をやってのけた世界に誇る戸田盛和先生はまだご存命だと思うが、彼はソリトン系という非線形系振動系の運動方程式が厳密に解けることを示して歴史にの残ちゃった。その系は現在では戸田格子とも呼ばれている。その位厳密に解ける事は滅多にない。だから、物理屋が目の前の問題を解く時には、それが解ける前に神懸かりで、何が一番大事、次に何が大事と自分の主観で勝手に序列を付けて、二義的、三儀的な事は皆無視しちゃう。その主観の良し悪しを洞察力って言うんだ。それが解ける以前に前もって何が大事かどうか判断しなくちゃ行けないんで、その洞察力が試される。そして、一番大事と考えた物以外全部ゼロと置いた物を第ゼロ近似と言う。その次に大事な物まで残したのを第一近似と言う、、、という具合に、必要に応じて順繰りに近似を挙げて行く方法でしか計算が出来ないのがほとんど全てだ。だから物理屋は常に神懸かっていないくちゃいけない。

ところが、最近はめっきり歳を取っちまって、日本で若いのに会っても名前を直ぐに忘れちゃうんだ。岡本なんて聞くと、数分後には、及川なんて言っている。そうするといえ岡本ですと若いのが言うんじゃね。そんな時には、最初の「お」の字が同じだから、第ゼロ近似はあってんじゃろうと言うことにしている。次に会った時に岡田と呼べたら、ほう第一近似まであってしまったわいと喜んでいる。だから、自分が呼び易いように呼ばしてもらっているが、相手も年寄りだから多めに見てくれている。

私の経験では生産的な連中って言うのは、落ち込んでいても変わり身が早いので、すぐ立ち上がって来るみたいだね。自分の話しで恐縮だが、これはある若い日本人の研究者が私の先生と私と三人で一緒にある問題を解いていたときだ。その若いのがどんどん計算して、先生と私はその話を聞いて、次にどこに進めば良いか方向付けをすると言うのが、お決まりのやり方だった。

そんなある日、その若いのが、どうも私達の方向付けだと巧く行かないと言い出した。そこで三人は激論になった。先生と私は、彼の否定的な見解のどこが間違っているかを徹底的に論じ、彼に向かって、お前は何も分かっていないと捲し立てた。彼の抵抗も頑強だった。そして議論が一段落ついたのでお開きになり、彼が部屋から出て行って、先生と私の二人だけになったんじゃね。その時二人で顔を見合わせなが、あいつの言っていることはどうも正しい。この方向じゃ巧く行かないって言う事に直ぐに合意が出来た。そこで、二人でそれならどうすれば良いか一寸した議論をして別れたんだ。

そして次の日、また三人で会った。そしたらその若いのが、一晩寝て先生方の意見をよく考えたら、やはり先生方の意見の方が正しいと抜かしやがったんだ。そこで今度は立場が完全に逆になり、何とお前は馬鹿者なんだ、俺たちの言っていた事が間違っていたということが分らんのか。お前の言っていた事が正しいんじゃと、また捲し立てたんじゃよ。その若いのは目を白黒させながら、そうか俺が正しいのかって一生懸命考えていたね。その後、彼が言った通り、始めの考え方が間違っていた事が確認でき、方向転換して最終的に正しい答えを出せた。

それからずっと後になって、その若いのが言ってたのは、先生方の変わり身の早さには度肝を抜かれました。間違っていると気が付いたら、あって言う間に今まで努力したあれだけ膨大な計算を捨てちゃうんですね。だから物って創れるんですねって言っていたね。私もそのとき嬉しいことを聞いたと思ったね。変わり身が早いと、落ち込んでいる時間も短くなるということのようですね。

勿論私の先生も人並みに落ち込んいるときは当然あるんだが、多分人並みはずれているのは、その滞在時間が短いということのようですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

君子豹変す。

士別れて三日なれば、まさに刮目して待つべし。

言う事がころころ変わると言うのは進化を継続していることでもある。
そうでなくて、支離滅裂なだけということもあります。

お礼日時:2010/07/24 12:52

 No.11を承けます。



 ★ 人間に理解できない言語の場合には、自動応答の方へ回すことにしたんです。
 ☆ ご自分の文章であれば 《人間に理解でき》るということだと思いますので つぎのように説明しましょう。

 ★★ (No.2お礼欄) ~~~~~~~~~~
   >虚脱感とは「ありたい自分」と「現実の自分」のギャップに直面したときに感じます。

 私も同じです。

 とくにその距離が段々大きくなるような気がした時、距離を縮める事が出来なくなったような気がした時に、虚脱感と焦燥感が頭をもたげてくるようです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたしの回答(No.3ほか)の言おうとしていることは この《理解できる言語》に合わせて述べれば つぎのようです。
 ○ 充実感や虚脱感が起きたり消えたりする場合というのは そのようでありましょう。ただし 世の中には 言ってみれば――これも 突っ込みを期待して言うのですが――特異点のごとく生きている場合もあります。
 ○ それは すでに《わたしがわたしである》という自己到来を得ていて すでにつねに《ありたい自分》であるということです。それがそのまま《現実の自分》となっているということです。それらの間に 一般の場合のような《ギャップ》がないということです。


 ちょっとした《抽象化能力》を発揮すれば かんたんに分かるはずのものを。
 ちょとつくん よっぱらいから目を覚ませ。
 耳かっぽじってようく聞いておきたまえ。

この回答への補足

失礼しました。

「私も同じです。」と言っていたのは私ですね。でもBragelonne師と同じという意味では無かった。良かった。
いずれにしても僕はまだ死んでいないです。

補足日時:2010/07/19 15:07
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この回答へのお礼

>私も同じです。

それだけは勘弁してください。

僕は嫌だ。僕はまだ死んでいない。

お礼日時:2010/07/19 14:09

 No.10です。




 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 タモリ芸を楽しむコツは意味を理解しようとしないで、音を音楽の様に鑑賞することでした。
 では、記述言語の場合は、音がないので、文字を絵画の様に鑑賞してみることにします。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 申し訳ないが 読者のみなさんに対して おぎないます。

 ☆☆ (回答No.10) ~~~~~~~
 人間の世界ではない場を 人間の言葉で代理表現するには 四か国語麻雀しかありません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《四か国語麻雀》というたとえがふさわしくなかったかも知れません。
 話し言葉と書き言葉の違いはありますが 
 ☆☆ 人間の言葉で代理表現する
 ☆ と言っています。ここに留意していれば 次のようには応えることもなかったでしょう。
 ★ 記述言語の場合は、音がないので、文字を絵画の様に鑑賞してみることにします。
 ☆ 《絵画》で代理表現するということも たしかに成り立ちます。ただし今そうでないことは 分かり切っています。

 分からないと応えていただければ 何のもんだいもないと思います。
 回答者の文章を別の内容にすり替える応答は いかがなもんでしょう。
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この回答へのお礼

そうですね。

人間に理解できない言語の場合には、自動応答の方へ回すことにしたんです。

☆や★の散らばりが天空に散らばるはるかかなたの恒星を思い出させますね。

お礼日時:2010/07/19 12:32

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