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いままで何度も議論されてきただろうし
いまさらこんなことを伺っても詮無きことですが。

これも感情論抜きでお願いします。

人間から、言葉を抜きます。
論理的思考が難しくなり、ただ感情に流されるままになりそう。
視覚を抜きます 聴覚を抜きます。 触覚を抜きます。
感情を抜きます。

しかし、それでも残っているものがある気がします。
自分は結構そういうオカルトは信じないのですが、
薬なんかで感情とかならある程度変えることも出来る都思います、
それでもそこに、自分はあるっていう何かがあるような気がします。
どうでしょう?

A 回答 (21件中1~10件)

結論から言えば、魂は、有ると考えます。



先ず、ご質問の「魂」について、私なりの定義からご説明します。
中国的には、道教の魂でしょうが、魄と一対で定義されているようです。詳しくは、ウィキペディア(Wikipedia)で検索頂くとして、日本語で使っている「たましい」とはズレがあるみたいです。
日本では、「霊」と区別無く使う場合もあるようですが、私は別物だと考えます。

私は、「魂」は、人の心の中にあって、心を支え、その人の趣となり、行動や言葉などあらゆる所に現れるものと考えます。自然景観や芸術作品の中にも魂が、こもっていると考えます。木立をみると、同じ種類の木でも、一本一本に独特のおもむき(趣)があります。草木の一本一本にも、その一本の趣があります。動物の一匹一匹、虫の一匹一匹にも趣があり、石や岩の一つ一つにも趣があり、微生物も、観察することができるなら、きっと、その一つ一つに、趣があるはずです。この「趣」は、それぞれが持つ魂の一面です。

では、「魂は、どこにある?」と聞かれても、どこと特定することはできませんし、無意味です。あえて言うなら、全体に散らばっているとしか言いようがありません。

複雑そうに見えながら、そのなかに法則性をもつ「カオス理論」や、逆に単純な方程式から複雑な振る舞いが出てくる「フラクタル」などが良い例です。魂は、これに似て、全体に散らばっていながら一つの一貫したものだと考えます。
あえて言うなら、何処かに中心があるかと探せば、何処にも無く、何処にも全く無いかと否定しようとすれば、全体に溢れている。
旧来の「存在」と言う言葉のイメージでは捉えきれないものだと考えます。

言葉が足らず、上手く説明しきれませんが、下記のURLに、もう少し詳しく説明してありますので、ご覧下さい。
http://web01.joetsu.ne.jp/~dimen/page004.html
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この回答へのお礼

みなさん、回答ありがとうございます。
少し離れたので御礼遅れましたが、なかなか楽しかったです。

やはり両者尊重すべき意見であり、
自分も確たる結論は出ないままですが、
みなさんの一人一人の考えを尊重した形で
頭の中に入れたいと思います。

お礼日時:2009/07/13 15:53

>人間から、言葉を抜きます。


論理的思考が難しくなり、ただ感情に流されるままになりそう。
視覚を抜きます 聴覚を抜きます。 触覚を抜きます。
感情を抜きます。

これから、記憶を抜いたら何か残っていると思えますか?
理論的には、何も残っていると思えないはづです。

しかし、いろんな見方をすれば、無いとは言えないとも思います。
例えば、人は何故、金や宝石に価値を感じるのでしょうか。人は何故、人間同士の間で愛を感じるのでしょうか。それは本当に存在するのでしょうか。

在ると思え(感じれば)ばあるし、無いと思えば無いのかもね。
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以前活発な社会活動を行っていた人間が脳死状態になった時、その精神活動の主体(の一部でも)がなおその肉体のどこかに残っているのではないか?その可能性を否定できないのではないか?というご質問のように解釈した場合、それは NO としかいえないだろうと思います。


脳死状態の定義にもよるかもしれませんが、もちろん復活の可能性がゼロだという場合は稀で、わずかではあっても脳のなかのどこかに何らかの生活反応が認められる部位を残している(時間とともに消滅していくが)ことは多いでしょうから、そこに魂的な痕跡があるかもしれないとはいえると思いますが、問題は魂とは何なのかという規定に戻ってくるのではないでしょうか。
そのメモリの断片を何らかの形で抽出して別の組織に移し、アクセスして人間が解釈できるように再現した場合にそれが何らかの独立した人格として認められた時は、それを魂と呼んでもいいのかもしれませんが、そんなことをして何の意味があるの?というような気もします。一般的に言ってそんな操作はその人自身が要求したことでは断じてないからです。
質問者様は「魂」というイメージにもっと強靭なひとりだちの全人格を想定されておられるのではありませんか?
魂という存在はひとりの人間の生理的感情的理性的記憶総量の中からかもし出される一種の強い意志力ではないでしょうか。とりあえずは5感は必要ないでしょうが、当人の人格が損なわれたらたちまち変質してしまう性格のものではないかと思います。
表現手段を失った魂は、それこそひとだまとなって中空をさまようしかない無意味なものに堕ちてしまうでしょう。
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『仏作って 魂入れず』



機械が作ったものは、遠慮なくぶっ壊せる。
 ところが、手作りで作ってあるものは、壊せない・・・。

文章とかも同じ。
 読んでいると、これはひょっとして・・・と誰だか分かることがある。

その人らしさは、その人がいくらごまかそうとしても消せないというか。

『思い(想い)』に似ている気がします。
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訂正ですー。



>さらに強い状態にある人に関して
は、
>さらに強い集中状態にある人に関して

の間違いです。すみませんー。
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こんばんは。


質問文で思いだしたのが、アイソレーションタンクです。
現実に5感を遮断して、外部と人との関係性を、また、5感を通して把握できる自己存在という物を、かなりの線まで絶ったときの状態を経験できるそうです。僕はやったこと在りませんが。考えるのもいいですが、現実に実行可能ですので、興味がおありなら、ですが。



以下は断定口調ですが、推論です。

論理的に考えるなら、あらゆる物を抜いていくと、自我、人格、感情、心などが消えます。
普通この世で自分自身と呼ばれるすべての物がなくなったら?という質問かなーと思いました。
で、人格や心は、僕等がそうやって把握できて、その存在を感じ取れる物です。言い換えると、僕等そのものではありません。

心や人格が僕そのものなら、これらが無くなると、もう僕は居ませんが、現実、僕は、心や人格がある、と対象化して捉えているので、2つは僕自身ではありません。
ぼくがこの世にあって、脳と外部を使って展開する現実の一側面、といえます。

で、そこには自分がある、といってしまうとまずい、と思います。
いきなりなんか個人的な結論ですが、
例えば・・何かを無我夢中で全力で集中して行っているとき、その時自分があるかどうか、というと、どちらとも言えません。
あると言ってもいいし、ないと言ってもいいし、あると言っては間違いだし、ないといっても間違いです。

人が生まれつき持つ強い集中状態において、つまり、質問で言われている、あらゆる自我や心や感情が取り去られた状態=極めて本音の自分の状態においては、
経験がおありかと思いますが、自分を自分とは捉えません。そんな暇なことしませんし。
また感情を感じてる余裕もありません。極めて集中してるので心動かされもしません。

そういう状態を、自分がある、とか、ない、とか、心がある、とか、ない、とかいうことはできないと思っています。

言い換えると、人の脳が生み出すあらゆる把握能力と概念は、メカニズム的に、さらに強い状態にある人に関して、把握することも感じることもできません。
これは、幸せでない人が、幸せな人の気持ちを絶対に分かることができない、その脳の仕組み、とも言えると思います。

いろんな物が取り払われれば、本音の自分だけが残り、この世と、本音の自分に対する、肯定か否定だけが残ります。
絶対的な否定か、絶対的な肯定です。
そこには、自我もなく、感情もありません。

ニヒリズムの極限にいる人や、逆に自己や世界を肯定できる幸せの中にいる人は、極限値として、質問で言われるような、まさに、感情も自我もない状態にいます。
視覚や聴覚も、あればあったでいいし、無ければ無かったでもいい、という状態です。道具として存在する感覚に依存はしていません。(と想像します)


だから、質問文の最後で、「何かがあるような」、という微妙な言い回しをしてはるのは、ぼくは、それはとても正確な表現をされている、と思いました。感性がとても正確だと思いました。

現実、こういういい方以外に表現があるとは思えません。宗教では、独自で言葉を造語して、当てはめてはいますが、一般的な言葉の範囲では、このようにぼかして言うことこそ正しいだろうなー、と思っています。
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魂は存在します。


肉体に宿っている状態か、肉体から離脱した状態か、というだけのことだそうです。
肉体と魂の関係は、例えば、テレビ本体と電気電波との関係にも似ていると思います。
テレビ本体だって、電気電波を通さなければ、死んだ肉体と似たようなものだと思います。
なお、魂の場合は、意志・思考・感情等を有しています。
ちなみに、脳はコンピュータのような物であり、コンピュータだって電気を通さなければ起動すらしませんし、電気を通しても一定のプログラム上の所まで起動するだけあり、意思・思考によって入力して初めてそれを表現するわけです。
また、電波は目に見えませんから、テレビを消すとそれが存在していることは視覚認識できませんが、再度テレビをつけると先程の放送内容の続きが映るわけで、つまりテレビをつけるつけないに関わらず存続しているわけです。
これは転生輪廻や色即是空空即是色と同じようなことです。
色は電波や魂がテレビや肉体に宿った状態、
空は電波や魂がテレビや肉体から離れて視覚認識はできないけど存在はしている状態、
というわけです。
なお、魂の存在証明につきましては、
臨死体験で魂が肉体から離脱して、眠っている状態の自分の肉体を眺め、周囲の人々の会話を聞いたりし、目覚めた後にそのことを周囲の人々に語ったりした体験談等々、多数あります。
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No.1です



貴方が「箱」であっても
貴方が「石ころ」であっても
貴方が「人間」であっても
。。。

もし、「貴方」と交換可能なものがあるなら、
たとえば「箱A」とか「石ころB」とか「人間C」とか。。。

そうであるならば、「貴方」が「貴方である」必要性はなく、他との関係性において、唯一の存在では無くなるでしょうし、もしそうであるならば、貴方が「それでも残っているもの・魂」と呼びたいものは、薄れていって消えてしまうでしょう。。。

貴方が、「かけがえのない貴方」として、過去から未来までのあらゆる時空間において「唯一の貴方」として、他との関係・繋がりの中にあるのなら、もし、貴方が欠けたとしても、代わりのものが納まることのできない空間を保ち続けることができるのであれば、そこにこそ、「それでも残っているもの」が存在し続けるでしょう。。。

それを「魂」と呼ぶにしても、「霊」と呼ぶにしても、「かけがえのない貴方・交換不可能な貴方」の「その場所」には、「何か」が残っていることでしょう。。。

もし、他との関連を完全に失っているのなら、「そこ」に代わりの「何か」が鎮座したとしても、あるいは、何も存在しえない状態になったとしても、誰もが無関係であるゆえに、「その場所」の存在すら無関係なものとして、「何も」残りえない(というより、当初から存在しないのと同等である)ことになるでしょう。。。
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概念の1形態との切口なら、存在して差支えないでしょうし、それを何等かの動機付けとして使うか否か?は個々人の考え方次第だと感じます。



但し、物質としての魂は絶無であって、(酸素が混ざっている方の!!)"空気"見たいに、吸える訳でもなく、癌細胞の如く慎重な手術によって、切除される物(対象)でもないのは唯物論云々を持出す迄もなく、何人も覆し得ない、と断言可能なのです。
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確かに残っているものは在ります。

それは命です。もっと言うならば「命の働き」です。お釈迦さまが「仏性」と言ったものです。自我意識は自分で感じていると思っていますが是は大いなる誤りです。

自我意識自体は感情を作り出す事は出来ません。この典型的なものが精神障害や神経症などの事です。自我意識には感情を起こさせている者が各人には在ります、心臓も脈拍も自我意識には変える事は出来ません。胃腸の調子も自我意識には整える事は出来ません。

自我意識で自分の心を整えようとする事が精心疾患の元を作っています。自分の体を自我意識単独で制御したり操ってゆこうとしている事が、神経症ならば不眠症、書痙、上がり症、吃音などを生み出す元になっています。

自我意識単独で自分の感情を制御しようとする事が恐怖症の元を作っています。人間は自我意識で生きていると思っていますがそれは「自分自身を知らない」と言う事になります。この事を仏教では「無明」と言っています。分かりやすい例を挙げるとするならば、恐怖症を例にとってみます。

普通の恐怖は対象が在って恐怖感が在ります。鏡に映った事と同じ現象ですが、恐怖症は恐怖の対象が無くなっても恐怖感だけが残っています。この事は自分が恐怖を作っていると言う事になります。この事を「妄想」と言います。この恐怖症或いは妄想は、自分の心の中に恐怖を作りり出して、自分で怯えていると言う事です。

もっと広い意味で言うならば、ストレスと言う事も同じ事が言えます、他人はストレスを感じていないのに、ストレスとして感じてしまう人が居ます。是もこの人が自分の心にストレスを作っていると言う事になります。

このストレスを起こしている者、或いは恐怖を感じさせている者が貴方の言う処の「魂」に相当します。お釈迦様の言う仏と言うわけです。キリスト教では神と言う風に名前を付けています。

人間の自我意識は限られたところを守っているだけです。意識したところしか気が付いていないと言う事です、ですが人間の生活はそれだけでは命を守れない部分が在ります。車の運転をしています、前方を見ています、処が脇から人が飛び出しました。「気配で」自我意識が意識をしていない処を教えてくれます。

スピードを出し過ぎてカーブを曲がろうとします「恐い」という気配がスピードの出過ぎを教えています。自我意識だけで車に乗っていたなら横転していたかも知れません。納期や期限がが来る事もそわそわしたり、切羽詰まった感じが教えています。自我意識に気配などで知らせいる者が存在しています。

自分は何者か?或いは人生とは何であるのか?或いは我々は何処から来て何処へ行くのか?といった疑問はその者との対話、或いは意見の食い違いから提起されています。つまりこれが「心の矛盾」と言う事になります。この有限の人生、限られた空間、或いは限られた時間の中に、永遠性を求めざるを得ない「感じ」はこころの矛盾の産物と言えます。

自我意識は左脳に在る意識です。機能は分別する事です。分別すると言う事は論理的に世の中を計算の上で割り切ってゆくという能力の事です。その能力は有限の事を受け持っています。計算できる事、言い方を替えたなら割り切ってゆける事を有限と言う名前にしてあるからです。

宗教と言うものが在ります、その求めている処が今言った貴方の魂と言う事になります。求めている処が魂の救済と言う意味になります。それはこの窮屈な、限られた人生には本当の自由が在るのか?魂の救いとはは何なのか?と言う処に尽きます。有限の人生に永遠のものを求めてゆくと言う処に人生の悲劇が盛られていると言う意味になります。

人生の悲劇、或いは苦しみとは、限られた有限の命が、永遠の命を得たいと言う心の矛盾の表れと言っても過言ではありません。もっと言うならば永遠の命が教えようとしているものが、有限に遮られてしまう事を心の矛盾として自我意識が受け取っていると言っても良いかと思います。

この苦しみを究極的に救い取ろうとする事が宗教の目的と言えます。では何が苦しみの元になっているかという事になります。それは脳の機能を述べる事でおおよその説明が出来ます。天国に住む事が宗教の目的と言う事になりますが、或いは地獄からの救済が宗教の目的と言う事になりますが。

聖書に書かれています。天国に入るのは幼子が一番近い存在と言う事です。仏教にも同じ事が書かれています。赤子の心と言う事です。

是は脳の機能がまだ未分化の状態の事を指しています。脳がまだ発達をしていない事です。大人の脳になったと言う事は左脳と右脳の機能が分化したと言う意味になります。ノーベル賞を受賞したスペリー博士の研究成果の一つに左脳と右脳の機能の研究が在ります。そうして画期的な成果が在ります。それは「左脳に一つの人格が在り、右脳にもそれとは全く別な人格が存在している。その人格はそれぞれ独立した別な人格である。」と言うものです。

右脳は無意識を受け持っています。その機能は分別できない事が専門と言えます。言葉を持っていません。ある研究では人間が生活してゆく中で自我意識が結論を出しているのは全体の5パーセントしかない、或いは5パーセントの時間しか関与していない、という事です。残りの95パーセントは右脳が左右していると言う意味になります、言い方を替えたなら、「無意識界」が人間の行動を支配していると言う意味になります。

最初の話に戻ります、人間の苦しみ、或いは心の病の話の事です。人間の苦しみとは「心の矛盾」と言う処に戻りますが、この二つの意識の矛盾が自我意識の苦しみと言う事になります。右脳に在る意識が仏性と言う事になります。キリスト的に言うならば神と言う事です。

天国に入るのは「神に会って和解する」と言う事になります。禅的に言うならば禅問答を解く事によって「生死の問題を解決する」と言う事になります。それは理屈からいえば自我意識が右脳の意識(命の働き)と別れてしまって苦しい思いをしていました。再び会って今度は二度と離れなくなると言う意味になります。

禅問答は右脳の言葉のない脳が書かせた言葉です。自我意識では歯が立たないようになっています。禅問答が解けた時には右脳の意識と出会うようになっています。そのように仕組まれています。
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