10秒目をつむったら…

カトリック初心者です。

仏教的「空」の世界観になじめなくなりつつあり、(現世の混沌でも生きながらえるよう)「満たされた」世界を求め、「福音」を求めキリスト教・カトリックの門を叩きました。

ところで、「聖霊の交わり」「聖霊の恵み」という言葉を耳にします。何となく感じはしますが、まだまだ理解が不十分です。どなたか、良いご教示・資料やホームページのご紹介を願います。

また、プロテスタントではよく聞くのですが、カトリックにとっての「福音」もご教示していただけると助かります。

どうかよろしくお願いいたします。

この質問は 質問No.8797186の続きですが、知らずのうちにベストアンサーが選ばれておりたので、再度投稿させていただきます。

A 回答 (6件)

 ★ (No.4補足欄) 申し訳ないのですが、聖書には「悪魔・サタン」もいます。

この存在に関する記述が、現世が「すべてが神」という構成ではなくて、現世が「混沌」であると思うのですが。
 ☆ これは 《すべてが 神からのメールであっても 中には〈反面教師〉となるものもあります》と言っていることと同じだと思います。

 ☆☆ (回答No.4) ~~~~~~~~~~~~
  ▲ (ヨハネによる福音書/ 21章 25節) イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。
  ☆ ここからみちびくことが出来ませんか? 世界の出来事や情報のすべてが 神からの手紙であると。

  反面教師となる内容もあるでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



 今回は 《悪魔・サタン》についてあらましをおつたえします。

 ◆ 《へび≒悪魔》論の問題


 § 1 世界の民俗に見る《へび》の生活文化的・社会的な意味

 次の文献によって わたしなりの分類をします。

  ▲ 蛇(serpent)=『女性のための神話および秘義の百科事典』の一項目 Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)
  http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM …

   ○ (ヘビの民俗・その意味するものの分類) ~~~

    (α) 水の神⇒ 生活・生命を象徴:知恵そして善なる神::直毘魂
    (β) 水の神⇒ 河ならびに嵐として治水防風雨をしのぐ
           あらぶる者:悪魔::荒魂

    (γ) 脱皮して再生する習性⇒不老不死を象徴。
    (δ) 前項より 子孫繁栄のための生殖力を象徴。

    (ε) ゆえに エロスを象徴。

    ~~~~~~~~~~~~~~    


 § 2 (ε)の《へび=エロス》なる民俗は 《要らない》。

 併せて (β)の――自然現象の部分を問わないかたちでの・つまりは抽象概念となったところの・心理作用としてのごとくの――《へび=悪魔》説 これも要らない。または 信仰なる主観としては キリスト・イエスの十字架上の死とその復活によって克服された。ゆえに要らないと見ます。

 この偏見で議論をとおします。

 § 3 エロスが 人の生きることにともなうことと それをヘビに見立てることとは別だと見ます。その比喩からの通念は 要らないということ。

 言いかえると 民俗の一説としてはそんなもんだと受け止めればよいのですが その心のうわべに心理作用および集団的な共同心理として咲いたあだ花が ついに 十九世紀・二十世紀になっても今度は《無意識》なる概念として・そしてさらには医学として科学であろうと見なされてオモテ舞台に登場してしまった。
 こういう見方を持ちます。

 § 4 この場合のムイシキは 

    (ζ) エロスをめぐるイド=エス(《あれ・それ》)
       =リビドー(《欲しいまま・我がまま》):ムイシキ

 のことです。

 § 5 ムイシキの逆襲(?)

 リビドーを抑圧すると――つまりは 自分はそんなヘビなどのことは知らないと決めて自分自身に対して隠してしまうと―― 人はそのムイシキの逆襲に遭うことになるそうだ。

 その得たいの知れないムイシキの作用〔だと見立てているもの〕に抗しきれなくて振るった暴力(いじめ・虐待等)にほかの人が遭う。その被害をこうむる。そのとき受けた心的外傷は すなわちトラウマとなって 永遠に消えることはなく そこから人は完治することはないと説く。

 すなわち その意味や次元にまで還元されたと言いますか そう見ることにおいて人間としての料簡が狭められてしまった。と考えます。

 § 6 ムイシキとは 亡霊なり。

 ムイシキなる仮説の登場はひとえに ヘビは エロスをめぐる性衝動の部分をつかさどる悪魔であり・人間の抗しがたい力としての悪霊であるという俗説から来ていると見ました。(タトエが 実在説に成り替わってしまうこと)。
 その迷信が 現代においても猛威を振るっているようだと見るものです。すなわち エワとアダムのその昔からの亡霊であると。

 § 7 聖書におけるヘビの克服物語

 イエス・キリストが 第二のアダムとして 敵対していたヘビに勝利をもたらしたという物語が あります。つまり 虚構です。虚構ですが もともと ヘビは悪魔なりという見方が 虚構です。

 いちおう理屈をつければ こうです。

 悪魔は 死の制作者であって 自分みづからは すでに死んでいるので 死は怖くない。朽ちるべき身体を持つ人間にとっては 一方では《へび=生命。善なる神》という俗説にしたがって その人間の死が死ぬという・つまりは永遠に生きるという〔気休めとしてでも〕希望を持ち得るけれども 他方では悪魔なるヘビは この死が死ななくなったという完全なる死の状態にある。とも言う。そしてあたかも《光の天使をよそおって》しかも 自分の冥界へと人びとをさそう。

 イエスなる人間をもさそった。仲間に入れと。ところが ついにこの人間は 死地に就くところまでヘビを嫌った。ほかのナゾの何ものかに従順であった。ヘビなる悪魔などは 屁の河童であると。
 ますます怒った悪魔は ついに実際に〔それまでに部下に持った人間たちをして〕イエスを死地に追いやり見世物にまでして磔を実行せしめた。
 ところが 死は怖くないアクマも けっきょくその死の世界にまでイエスという人間がむしろ従順になって自分の仲間となってくれたことに・そのことの思いに一瞬でも心を移してしまうと その身も死なる魂も すでに溶けてしまった。

 イエスが ハリツケになることによって アダムらの原罪と人びとの罪をあがなったという伝説です。死を死ぬことによって 人間を悪魔から買い戻した。

 § 8 聖書の関係個所を引きます。

 ▲(創世記3:14-15) ~~~~
 主なる神は、蛇に向かって言われた。

  「このようなことをしたお前は
  (* エワやアダムをそそのかしたお前は)
  あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で
  呪われるものとなった。

  お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。

  お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に
  わたしは敵意を置く。

  彼はお前の頭を砕き
  お前は彼のかかとを砕く。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ この部分すなわち

  ▲ ~~~~~~~~~~
  彼(=エワの子孫)はお前(=ヘビ)の頭を砕き
  お前は彼のかかとを砕く。」
  ~~~~~~~~~~~~~

 という箇所が のちのイエス(エワの子孫として)とヘビの闘いだと言われます。

 § 9 つづき――モーセにおける蛇との闘いの事例――

 ▲ (民数記21:6-9・・・《青銅の蛇》) ~~~~
 〔* 民がせっかく奴隷状態にあったエジプトから脱出してきたというのに そのことを荒れ野をさ迷うあいだに悔い始めたので〕主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。

 民はモーセのもとに来て言った。

  「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、
  わたしたちから蛇を取り除いてください。」

 モーセは民のために主に祈った。
 主はモーセに言われた。

  「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれ
  を見上げれば、命を得る。」

 モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。
 ~~~~~~~~~~~~~

 § 10 さらなるつづき――イエスは 《青銅のヘビ》か――

 ▲ (ヨハネによる福音3:14-16) ~~~~

 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、
 人の子(=イエス)も上げられねばならない。

 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。

 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~

 § 11 いかなる事態であるか?

 もし性欲も大自然への畏れも ヒラメキをも含めて感性だとすれば この感性とそして〔狡猾なヘビが象徴する〕理性との あらそい なのであろうか?

 感性は 間違い得るし あやまちを侵す。ただし そのこと自体にウソ・イツハリがない。中身としての現象にウソはない。
 理性は みづからはあやまち得ないと言い張る。ウソをもほんとうのことだと――つまりおのれの心をもだまし得て――丸め込む。

 ただし このような問い求めをおこない説明をあたえるのは 理性でありそれを用いる志向性としての意志である。
 こういう説明をあたえよと要請するのは 感性である。感性のことを弁明せよと感性が言っている。

 意志は これらよき感性にもとづき 理性のすなおな部分と全体としての罠を突き抜けて よき心の境地を現実において目指す。
 ヘビは死んだ。そのよき部分をのこしてであろうか どうであろうか。

この回答への補足

ありがとうございます。感性と理性、理性が必ずしも理性ならず、という問いかけでしょうか。蛇は「理性」なのでしょうか。「理性とは相対的・表裏あるもの」でしょうか。

このたびのご教示につきまして、まだ私の理解が足りていないと思います。「相対理性」「(絶対)感性」ともなりましょうか。
bragelonne様は「意志」に信頼を置かれているようですね。

どうも、(俗な言い方ですが)近現代を見ていると「(なまはかな)理性」があったところで、人間の幸福が実現されているとは言えないと思われます。

まだ理解が足りておりませんが、がんばりたいと存じます。

今後もよろしくお願いいたします。方法を書いてしまいますと、OKWaveから怒られてしまいますので、まずはプロフィールまで。

補足日時:2014/10/28 20:00
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この回答へのお礼

ありがとうございます。今後もよろしくお願いたします。

お礼日時:2014/10/28 20:00

はじめまして。



結論から言うと、聖書も、空の思想も、どちらも正しいです。
なぜなら、最終的に行き着くところは一つの真理だからです。

その真理とは「神はあなた自身ですよ」ということです。

唯一正しいのはキリスト教か?仏教か?
まずはそういった考えを捨てて、全体を一として見る必要があります。

http://space.geocities.jp/gjdtk960/human/002.html
ここを読めば、言ってることが分かると思います。
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 こんばんは。



 ★ (No.2補足欄) ただ、ご回答いただいた中で、どうもその観念な、抽象論的な世界把握の「すべてのものに仏性がある」とか「世界そのものが神」との把握には至れません。
 ☆ 《仏性》論については すでに前身のご質問において述べました。

 ★ 世界そのものが神
 ☆ とは言っていません。神からのメールであると言ったまでです。

 ▲ (ヨハネによる福音書/ 21章 25節) イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。
 ☆ ここからみちびくことが出来ませんか? 世界の出来事や情報のすべてが 神からの手紙であると。

 反面教師となる内容もあるでしょう。

この回答への補足

まあ、難しい内容です。
申し訳ないのですが、聖書には「悪魔・サタン」もいます。この存在に関する記述が、現世が「すべてが神」という構成ではなくて、現世が「混沌」であると思うのですが。
認識に相違があったらお手数をおかけいたします。

ただ、bragelonnes様はかなり哲学的に分析的に思考されており、感謝いたしております。
この現世の人間がbragelonnes様のように、まるで「碧巌録」の登場人物のようであったら良いのですが。
そうではないから、私は困難に直面し、特にこの数年呻吟しているのです。

私も結構反論気味ですが、どうかよろしくお願いいたします。

補足日時:2014/10/27 00:13
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この回答へのお礼

どうもありがとうございます。

お礼日時:2014/10/27 00:13

カトリック教会に何回か行きました。

それっきりです。
神父とも数時間話しましたが、キリスト教徒として生きることを選べませんでした。
ミサでは「信仰の神秘」と言っていたのが印象的でした。

神秘というのがとても驚きでした。

私は昔、「信じるのではなく、知る道もある」と少しだけ仏教を教わりましたが、
それはせいぜい、学問として仏教を研究するときの話で、結局は仏教も信じる要素がかなりありました。

okwaveでは、パーリ語の仏典を探してきて、ひたすらスッタニパータを調べていましたが、
さんざんでした。今は、これ以上は自分では調べようが無いという状態です。

キリスト教と仏教の間を行ったりきたり。

私は何者でもないです。

キリスト教についても、聖書のマタイ伝とルカ伝の家系図が異なっているとか
福音書とパウロ書簡とどちらが古いだとか
私は聖書と仏典で同じ事を繰り返しています。

何も信じられない。信じているのかもしれないが、信じたものを生きることができない。

何かを信じて、所属して、生きることができる人が羨ましい。

この回答への補足

ご回答、ありがとうございます。

個人的な意見ですが、率直に申し上げてまだ私も「神秘」とまでは感ずることはできておりません。ただ、聖書を読み、ミサに出席させていただくことにより、「神のご加護」と「恩恵」をいただくこと、そして「(この世での)生の充実」に役立たせてもらうことができるのではないかと思うようになってきました。

ミサでは司祭様が「信仰の神秘」として司式を進められておりますが、宗教というのは形而上の世界のことでありますので、あまり深く考えなくてもよろしいのではないでしょうか。

回答者(kazamidori365)様は、かなり論証的に突き詰めて考えておいでのようです。確かに使徒ごとの福音書に少々の違いがあり、聖書には形而上の世界のユートピア的記述がありますが、「大日経」も「妙法蓮華経」もかなり形而上の世界のユートピア的記述があるのではないでしょうか。宗教の世界とは精神上の世界のことであり、物理学や化学・計量学などで明らかにできるような世界ではないと思います。

回答者様は、「何も信じられない。信じているのかもしれないが、信じたものを生きることができない」とされておりますが、別に「完全に信じる」ことができなくもよいのではないでしょうか。
このOKWaveでやり取りをしている現代、キリスト教の中でカトリックは「異端審問をしてでも人々を(盲従的に)信仰させる」というような布教姿勢を取られておりません。第2バチカン公会議以降はかなり開かれているとお聞きします。
「信じ、疑うことがなく従う」ことでなくても、「習慣としてミサに出席し」「聖書を読み祈ったら」人生が(少しでも・感覚的でも)好転した、でもよろしいのではないでしょうか。
浅草のどこかの仏具屋さんのキャッチフレーズではないですが、聖職者ではなく一般のものは「心はかたちを求め、かたちは心をすすめる」として「習慣」として行うでもよいのではないでしょうか。

私自身は「碧巌録」を読み、「正法眼蔵」を検討しましたが、(これらの書籍の価値自体は非常に高いものがありますが)徳のある「あるべき人間像」を持った(いわば教養の高く徳のある)人間による観念論的・抽象的「人間観・現世観」では生きながらえるのが、難しくなっております。
「とんでもない人間がいる現世の混沌」でも、絶望せず生き抜き、幸福を得ることが必要です。
率直に言うと、理科系であるとか、大学院を出たなどといっても、論理的・理知的思考に優れているといっても、そんなものは「全く関係ない」ことがあります。
いくら自然科学に秀でていても、「毒ガスを使って民族虐殺を組織的に実行する」ことだってあるのです。

「信じることができな」くったって、癒しを受けられればいいではないですか。人生の自身の道徳観に良い影響を与えられれば良いではないですか。「マグレ当たり」でも人生が幾分かでも好転すればよいではないですか。

私は「混沌の現世」を生きる上で、(特に新約)聖書は面白いと思います。

今後とも、どうかよろしくお願いいたします。ぜひともお待ちしております。

補足日時:2014/10/23 19:40
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この回答へのお礼

ありがとうございました、よろしければ問題提起をしていただいて人生の好転を図っていきたいと思います。

お礼日時:2014/10/23 14:48

 こんにちは。



 前問のベストアンサーは 読者がえらんだものを 途中において表示する仕組みです。まだ 《回答受付中》のままですよ。


 ★ 福音
 ☆ 全世界のあらゆる出来事や情報がすべて神からのメールである。ということではないのでしょうか?

 カトリック・プロテスタントにしろあるいはほかの神をいだく信仰にとって 特定の排他的な神などは いません。

 ただただ 組織宗教が・つまりは《人間》が そのようにわざと勝手に神を排他的に特定しているに過ぎません。

 教会とは 見えざる教会こそが 神の共同体です。つまり 世界そのものが それです。

この回答への補足

再度のご回答ありがとうございます、ただ、ご回答いただいた中で、どうもその観念な、抽象論的な世界把握の「すべてのものに仏性がある」とか「世界そのものが神」との把握には至れません。
やはり私には、回答No3様(kazamidori365)への補足コメントで書かせていただいたように、あくまで「現世は混沌」であり「とんでもない人間も多く生息する世界」だと思います。

ミサの年間主日の福音朗読にはとてもうなづかされます。

ただ、「カトリック・プロテスタントにしろあるいはほかの神をいだく信仰にとって 特定の排他的な神などは いません」というご指摘については、神学的にはどのようなものかということについては考えてみたいと思います。

補足日時:2014/10/23 15:08
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この回答へのお礼

再度のご回答、ありがとうございます。

お礼日時:2014/10/23 15:09

福音(よいしらせ)とは聖霊の言葉のことです。

「聖霊の交わり」「聖霊の恵み」は同じ意味です。
聖霊の声を直接聞く者は聖者と呼ばれます。聖霊は聖なる場所に現れ、福音を伝えます。それを聴く者が福音を伝えるわけです。
さて、聖なる場所とは何かですが、簡単に言えば聖霊に反する霊が存在しない場所です。精霊に反する霊とは悪霊や悪魔のことです。悪霊や悪魔を呼び込むような者が管理する施設は聖なる場所にはなりえないのです。
教会であれ神社仏閣であれ聖なる場所であるためには施設の管理者が清らかな心を持つものでないと聖なる場所にはならないということなのです。
プロテスタントであれカソリックであれ、神父や牧師が清浄であれば福音を聞き伝えることはできるでしょう。でも、残念ながらどの教会にも福音は降りていないと聞いています。既存の施設はそのような状態にはすでにないということでしょう。形(組織防衛)や言葉だけで聖霊や神々の世界を信じていないのでは。つまり、言葉はきついが、イエスを迫害したユダヤ教のシナゴーグになっているということです。
新たな福音が説かれる時代になっているのですね。新たな福音は新たな革袋に入るものです。時は満ち、太陽は高く上り、偉大なる福音が説かれているというのに目があって見えず、耳があって聞こえずの状態でしょう。まずは目覚めることですね。真実は厳しいが、福音を聴く者が回答しているのですからしかたないですね。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。確かに、どこかのサイトで見かけましたが、西欧では神・キリストへの信仰が薄れてしまい、信者・聖職者の人口が減少しだしているという現状があるということを目にしたことがあります。
まあ、20世紀以降の物質的・科学文明の進歩により確かに道徳・精神文化の退潮が見受けられるのも事実です。

しかしながら、「具体的な人間存在とありのままの現世」については、物質的・科学文明のこれだけの進展にもかかわらす、聖書の舞台となった時代とほとんどといっていいほど、変わっていない。具体的人間同士の抗争・その他ドロドロ、権力闘争など。ほとんど、仏教用語で言う「餓鬼道」の世界。

回答No3(kazamidori365)様への補足コメントでも書かせていただきましたが、これが、私がキリスト教・カトリックを志させていただいた理由であり、(特に新約)聖書が面白い理由。

まあ本回答の回答者(mmky)様が現状もあるとは思いますが、それでも、訪ね尋ねる姿勢で、まあ「肩のこらない」姿勢で頑張りたいと存じます。

今後とも、どうかよろしくお願いいたします。ぜひともお待ちしております。

補足日時:2014/10/24 01:01
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この回答へのお礼

どうもありがとうございます。

お礼日時:2014/10/24 01:01

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