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ご存知、共和党候補首位のトランプ氏に対するフランシスコ法王の発言です。
「橋を築くことでなく、壁を造ろうと、それだけを考えている人は、それがどこであろうと、キリスト教徒ではありません」
http://www.bbc.com/japanese/35610162
着目すべきは、「それだけを考えている人」という表現。
「それだけ」でなければ、壁を造ろうとすることが止むを得ない場合もある、と言っていることになるでしょう。
ローマ法王の例を出すまでもなく、チャンドラーも「タフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない」とフィリップ・マーロウに言わせているところ。
私的な表現をさせていただくなら、我々は、 [ 自我としてのこの我 ] であると同時に [ 人類としての我 ] でもある、ということになります。
トランプ氏が極悪人とは思えませんし、フランシスコ法王が全能というわけでもない。
要するに、これら両者の兼ね合いが、極めて難しいのだと思います。
そこで今回の質問です。

[ 自我としてのこの我 ] と [ 人類としての我 ]の兼ね合いを、我々はどのように付けていくと良いでしょうか。
その具体的・実践的方法について、みなさんの思うところをお聞かせください。

質問者からの補足コメント

  • >《広い視野》は善で有徳であるが 《狭い視野》は独善的で人間的に卑しいとでも すでに
    初めに価値判断をおこない その倫理観でこそモノゴトや世界やわれ自身を捉え見ている。

    どちらが良い悪いという性質のものではない。
    《広い視野》
    ・善で有徳であるが 、[ 自我としてのこの我 ] の利に適ってはいない。
    《狭い視野》
    ・独善的ではあるが、[ 自我としてのこの我 ] の利に適っている。
    こういった矛盾をすでに最初から内包しているからこそ葛藤が生じるわけ。
    ◎すでに初めに価値判断を◎
    行なっているわけではない。
    因みに、[ 自我としてのこの我 ]に対する
    ◎人間的に卑しい◎
    のような評価は、自らの衣食住をすべて他者に施すだけの振る舞いができる人だけが口にすることを許されるものでしょうね。

    >水飲み場までの距離が残っていた

    場所も知らないのに、こういうことを言ってはいけません。

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/02/21 18:20

A 回答 (13件中1~10件)

実に有意義なご質問だと思います。



私がよくその著作を読む、アメリカの経営コンサルタントは、
「その道で成功したいのなら、成功者の話を聞きなさい」と
言います。
「食事をご馳走させてください」と申し込むと、意外と応じ
てくれるということです。
少し勇気がいりますが、グッドアイデアですよね。

こういった自主的な交流が、重要だと思います。
嫌々参加する、職場の交流など勇気をもって断り、その時間
とお金を、自分の目的にあった人と交流し、友情を育んでゆ
く。
こうした交流の拡がりの上に、国境とか民族というものをは
じめとした「壁」が次々と取り払われてゆくことを期待しま
す。

私自身は、いま時間と金が不足しているのでままなりません
が、そのために収入を上げようと思っています。

「自分なんか」という気持ちに克つことと、空気に呑まれな
い勇気が必要ですね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

世の中おためごかしの関係が満ち溢れていますね。
そうした、ありきたりの付き合いとは一線を画して、より有効な関係性を新しく構築する勇気を持つ、ということですね。
>そのために収入を上げようと思っています。

金銭の新しい価値がクローズアップされているのかもしれません。

お礼日時:2016/02/20 19:56

自我としてのこの我:個性を持った存在としての我①


人類としての我:社会的動物としての理性②
としてその根底の土台に
生物としての我:人間存在に付随する避けることができない
        人として共通の欲求を持つ存在としての我③
というものを置いてみます。

③を建設的に満たすための②を機能させたうえでの
①の発現の総体として動的に前傾のバイアスのかかった
社会をめざすことが大事なのではないかと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

極めて大雑把に解釈すれば、
本能を建設的に満たすための超自我性を機能させたうえでの自我の発現の総体として、動的に前傾のバイアスのかかった社会をめざすことが大事。
といったようなことをおっしゃっていますかね。
仮にそうであるとすればですが、人間の心理に沿ったご回答と思います。
その場合、
◎本能を建設的に満たす◎
ための超自我性の発揮がどこまで可能か、という点が課題になるのかもしれません。
どのようにすれば、これが発揮しやすい状況になるでしょう。

お礼日時:2016/02/23 21:49

《哲学に純粋に仕える》と表現しましたが 倫理学に仕えると言ったほうが


よかったかも知れません。

つまり 《見解の相違》を言い出すということは 《相手の意見に同意でき
ない》ことは決まっています。

そうではなく 《議論は ここまでのところで出尽くしたようです。どうで
しょう?》と そのときタテマヘとしてでもまづ先に相手にたずねる。これ
が エチケットだと申しました。それだけのことです。

倫理の問題ですので 《葛藤》は生じないでしょうか? という問いを暗に
しのばせているという意味です。

議論に《キリがあるかどうか》は 自分ですでに確信を持っていたとしても
まづ先に相手にたずねるということ。これが 倫理や道理にかなう振る舞い
方ですよというのが わたしの心です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>そうではなく 《議論は ここまでのところで出尽くしたようです。どうで
しょう?》と そのときタテマヘとしてでもまづ先に相手にたずねる。これ
が エチケットだと申しました。それだけのことです。

◎《議論は ここまでのところで出尽くしたようです。どうでしょう?》◎
よほどのことがなければ、こうした女々しい、または慇懃無礼な表現を使う趣味は持ち合わせていません。
▼見解の相違でしょうね▼
と表現すれば済むことです。
同じ意味ですよね?

>議論に《キリがあるかどうか》は 自分ですでに確信を持っていたとしても
まづ先に相手にたずねるということ。これが 倫理や道理にかなう振る舞い
方ですよというのが わたしの心です。

都合が悪くなると論点を逸らすか、捨て台詞を吐くかといった心しか無いと思っていましたが、そうでもなかったわけですか。
であれば、要らぬところに気を使いすぎるために、肝心のところで馬脚を現してしまうのではないですかね、たぶん。
泥棒に防犯の心得を説かれても、おそらく誰も聞かないと思いますよ。

お礼日時:2016/02/23 00:43

ぢゃあ 哲学に純粋に仕えて行動しますが:



見解の相違を出すときというのは ここらへんで見解の相違と見て一たん
冷却期間を置きましょうか とまづ相手にたずねるのが エチケットです。
よ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

基本的に「見解の相違となるでしょう」的な表現は使っていますけどね。
このように言うということは、つまり、
「論理的な反論はもう出し尽くしたが、しかし、そちらの考え方には同意できない」
ということを意味しているわけです。
そういうものだと捉えるのが自然だと思いますけどね。
異論があるなら、論理的根拠を挙げた上で、まだ、そこまでは至っていない、と言えば済むこと。

今回の場合で言えば、
▼そうですか、と言うしかない▼
と述べたわけですが、しつこい私がこのように言うというのは、よほどのことです。
それでなくとも「見解の相違」と言ったのと同じ事であるのは分かるはず。
異論が無かったからこそ、
◎この基礎前提を超えるような具体的な事例をひとつおしえてください。◎
という対応をしたわけでしょうし、それは正しかった。
で、それに対して挙げた例については何も触れず、
◎《葛藤》は生じないでしょ? よかった よかった。◎
というのは、よろしくなかった。
そういう経過になっているでしょう。
結果的にも、「見解の相違」以上のことは出ていないわけです。
まあ、これがスタイルですので。

お礼日時:2016/02/23 00:01

ぢゃあ わたしも あなたに分かってもらおうとは思わないことにします。

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

▼そうですか、と言うしかない▼
というところまで話が煮詰まっている状況においては、それで良いのではないでしょうか。
「見解の相違」
という終わり方もあって良いだろう、ということを申し上げただけです。

お礼日時:2016/02/22 23:33

★ キリがありませんし、別にあなたにわかってもらおうと思ってるわけでもありま


せんので。その点だけはご注意ください。
☆ なるほど。

そういうふうにして:
★ [ 自我としてのこの我 ] と [ 人類としての我 ]の兼ね合いをつける
☆ ことが出来た。というところですね。

《葛藤》は生じないでしょ? よかった よかった。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>そういうふうにして:
★ [ 自我としてのこの我 ] と [ 人類としての我 ]の兼ね合いをつける
☆ ことが出来た。というところですね。
《葛藤》は生じないでしょ? よかった よかった。

せっかくの皮肉がすべってますよ。
◎そういうふうにして:◎
と取り上げている内容は、葛藤などが生じるほど大した事柄ではないので。
ご飯から先に箸をつけるか、味噌汁からか、といったことと同程度の単純な選択行為にすぎません。
すべての選択が葛藤を伴なうわけではない、ということ。
鎌をかけたのは承知の上で要望に応じてやったのですから、せっかく示した、
◎具体的な事例◎
についてコメントするのが礼儀じゃないですかね。
持ち合わせているならですが。

お礼日時:2016/02/22 19:21

★(№7お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~


◎結果を得て くやんだりあるいは反省したりすること◎
の内容が、結構重大な場合もある、という考えに基づいての質問です
~~~~~~~~~~~~~
☆ そうなんですか。

向学の為に 具体例をおしえてくれませんか?

つまり わたしの場合の基礎は:
☆☆(回答№7) ~~~~~~~~~~~
 ★(№6補足欄) どちらが良い悪いという性質のものではない。
 ☆ ですから 《葛藤》は生じません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ という前提になっています。つまり この基礎前提を超えるよう
な具体的な事例をひとつおしえてください。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>具体的な事例をひとつおしえてください。

人それぞれですから多様です。
挙げても意味はないでしょう。
なぜなら、それは私にとっての葛藤ではない、と言えば、それで終わるからです。
つまり、あなたにとって葛藤であるか否かは問題にされていません。

それぞれの人の葛藤について、[ 自我としてのこの我 ] と [ 人類としての我 ]の兼ね合いをつけるための方向性を問うています。
自国民の雇用率を下げてでも難民を受け入れるべきか
ホームレスにどこまでの支援をすべきか
猫に去勢すべきか否か
いじめられるのを覚悟で止めに入るべきか
などなど、キリがないでしょう。
◎どちらをえらぼうとそれでよいと事前に主観的にながら決めて◎
おけば葛藤にはならない、とおっしゃるでしょうが、
◎主観的にながら決めて◎
おくための基準とでも言えば、多少はわかりやすくなりますかね。
◎ 別段 葛藤は出て来ません。◎
という人に対する応答としては、かなり丁寧な内容になっていると思います。
▼そうですか、と言うしかない▼
と申し上げていることでもあり、つまり、あなたの考えはわかったと言っているわけですから、これ以上、無理に同じ内容を繰り返していただく必要はありません。キリがありませんし、別にあなたにわかってもらおうと思ってるわけでもありませんので。
その点だけはご注意ください。

お礼日時:2016/02/21 22:00

★(№6補足欄) どちらが良い悪いという性質のものではない。


☆ ですから 《葛藤》は生じません。

《総合的に生きる》とは そういうことでしょう。

選択は 結果論ではなく どちらをえらぼうとそれでよいと事前に
主観的にながら決めています。

つまりは 岐路には立つが 葛藤は生じません。
結果を得て くやんだりあるいは反省したりすることはあり得まし
ょうが 別段 葛藤は出て来ません。

かんたんすぎますか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>つまりは 岐路には立つが 葛藤は生じません。

大小問わず、岐路に立てば葛藤は生じるはずですけどね。
まあ、生じないという人に無理に生じさせても仕方ないので、そうですか、と言うしかないですね。

>結果を得て くやんだりあるいは反省したりすることはあり得まし
ょうが 別段 葛藤は出て来ません。
かんたんすぎますか。

いえいえ、幸せな人生を送っておられるのだとお喜び申し上げるだけです。
◎結果を得て くやんだりあるいは反省したりすること◎
の内容が、結構重大な場合もある、という考えに基づいての質問ですので、
◎あり得ましょうが◎
という程度の感覚で済ますことができる方には関係のない質問になります。
ただ、そういう方もおられるということで参考にはなりました。

お礼日時:2016/02/21 19:27

★(№5お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~


◎総合的に生き動き存在して◎
いても、
◎《狭い視野を持って思惟し行動する頑固なわれ》と《なるべく広い視野に立って
世界の中のひとりとして自分をつねに位置づけようとしているわれ》◎
との葛藤はあるわけです。
普通の人の場合はですがね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ この《葛藤》は馬鹿げています。

もしそちらの見方になるべく沿って議論をすすめるとすれば こうです。:
わたしが《狭い視野のわれ》という部分的な観点からえらぶ思惟ないし行動と《広い
視野のわれ》なる観点からえらんだ思惟ないし行動とが 互いに両立しないし共存し
得ないと言ったこと こういう岐路に立つことはあります。

けれども どちらもわたしの思考し志向する選択肢なのです。どちらをえらんでもわ
たしにとって〔推測じょう〕良き選択になるのです。

もしどうしても《葛藤》という事態を絡ましたいとすれば おそらくそれは 《広い
視野》は善で有徳であるが 《狭い視野》は独善的で人間的に卑しいとでも すでに
初めに価値判断をおこない その倫理観でこそモノゴトや世界やわれ自身を捉え見て
いる。ということですし それだけのことです。

つまり 二項対立による世界認識が初めに横たわっています。

だからそこから繰り広げられる問題をめぐって提示された葛藤は 馬鹿げています。
初めの設定によって必然的に出て来る問題です。要らぬ問題です。

こう考えるのが 総合的に生き動き存在している《ふつうの人》の場合です。

要するに すでに人間観や世界の基礎的な認識の段階で やはり良し悪しを《恣意的
に》判断し設定し その前提ですべての議論をすすめている。ということでしょう。

まだ 水飲み場までの距離が残っていたようですから。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>互いに両立しないし共存し
得ないと言ったこと こういう岐路に立つことはあります。
けれども どちらもわたしの思考し志向する選択肢なのです。どちらをえらんでもわ
たしにとって〔推測じょう〕良き選択になるのです。

それは間違いとは言いませんが結果論でしょう。
◎岐路に立つこと◎
はあるんですよね?
そのときどうするのか、ということを問うているわけですから、
◎どちらをえらんでもわたしにとって〔推測じょう〕良き選択になる◎
と言ったって、何の答えにもなっていませんよ。
今は、どんな選択であるかはどうでも良いのです。
岐路に立った、その時にどうするのか?
こういう簡単な形の質問です。

>つまり 二項対立による世界認識が初めに横たわっています。
だからそこから繰り広げられる問題をめぐって提示された葛藤は 馬鹿げています。
初めの設定によって必然的に出て来る問題です。要らぬ問題です。

実際に葛藤が生じてしまうわけですから、
◎馬鹿げて◎
もいないし、
◎要らぬ問題◎
と片付けることもできません。
つまり、好んで、そうした葛藤に身を投じるわけではないのだから。
葛藤という心理作用自体を否定しているのですか?

>こう考えるのが 総合的に生き動き存在している《ふつうの人》の場合です。

ここは間違っているだけでなく、論理破綻していますね。
「総合」という言葉自体には、
a.個々別々のもの(を一つに合わせてまとめること)
b.いくつかの部分・要素(を結び合わせて統一的に構成すること)
c.相互に矛盾する定立と反定立(とを止揚すること)
という意味がある。
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/128440/meaning/m1 …
これら a.b.c.が示す意味は、二項対立の示すそれと何ら変わるところはない。
つまり、
◎そこ(二項対立による世界認識)から繰り広げられる問題をめぐって提示された葛藤は 馬鹿げています。◎
と言いつつ、
(馬鹿げていると判断するのが)
◎総合的に生き動き存在している《ふつうの人》の場合です。◎
と言うのは、明らかに論理矛盾と言わざるを得ませんよね。
以下、補足欄へ。

お礼日時:2016/02/21 17:54

№3です。



★(№3お礼欄) 我々は常に選択することによってしか生きていけないわけですから
☆ うんぬんという場合の選択とは 同じ性質や性格の選択肢の中からえらぶものです。

のぞみを選ぶかひとみを選ぶか。あるいは ケインブリヂを選ぶかオクスフォードにす
るかです。

次のように 対立する二項の内のいづれかをえらぶということ(――つまり 実際には
せいぜいどちらか一方に重心を置くとなるのが 現実的であるところをそれでもあたか
も一方だけをえらぶかのように選択をおこなうということ――) これについてその現
実性の乏しさを指摘しています。

★★(№1お礼欄) [人類としての我]の難しさを知っているからこそ・・・
☆ これでは 《狭い視野を持って思惟し行動する頑固なわれ》と《なるべく広い視野
に立って世界の中のひとりとして自分をつねに位置づけようとしているわれ》とが 初
めから・大前提として分かれているとすでに設定しています。
――ということが 指摘の内容です。

あるいは:
★★(同上) [自我としてのこの我]に対する執着が強ければこその質問であると捉
えていただくと丁度良い加減でしょう。
☆ つまりこの事例について前項の事例での指摘を言いかえるなら こうです。:

《執着》と言いますが その執着の前にすでに《われ》は 《狭い視野のわれ》と《広
い視野のわれ》といったそれぞれの《部分》に分けて捉えられている。わけです。これ
が 広い意味での変な執着だということです。

現実では われなる人格は つねに全体として総合的に生き動き存在しているわけです。


馬を水飲み場まで連れて行くことは出来ますが 馬に水を飲ませることは出来ません。
ので 投稿は ここまでです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>次のように 対立する二項の内のいづれかをえらぶということ(――つまり 実際には
せいぜいどちらか一方に重心を置くとなるのが 現実的であるところをそれでもあたか
も一方だけをえらぶかのように選択をおこなうということ――) これについてその現
実性の乏しさを指摘しています。

▼二項対立を前提とした上で
のように拘る必要はないでしょう。▼
と申し上げているのに、こうしたことを平気でおっしゃるのが不思議ですね。
そもそも、
◎対立する二項の内のいづれかをえらぶということ◎
では全くありませんし、
◎どちらか一方に重心を置く◎
ことには重要な意味があると思っています。
それに関して、
◎現実性の乏しさ◎
を言うのであれば、単に、難しい、無理だ、ということのようです。

>★★(№1お礼欄) [人類としての我]の難しさを知っているからこそ・・・
☆ これでは 《狭い視野を持って思惟し行動する頑固なわれ》と《なるべく広い視野
に立って世界の中のひとりとして自分をつねに位置づけようとしているわれ》とが 初
めから・大前提として分かれているとすでに設定しています。
――ということが 指摘の内容です。

なぜ他人の回答を引き取って?
よほど何か言いたいのでしょうね。
◎初めから・大前提として分かれている◎
のではなく、共存しているわけですよ、一人の我の中に。
子供でもこのぐらいは。

>現実では われなる人格は つねに全体として総合的に生き動き存在しているわけです。

あなたは「葛藤」というものを知らずに今まで生きてきたわけですね?
念のため申し上げておくと、
『 心の中に相反する動機・欲求・感情などが存在し、そのいずれをとるか迷うこと。』
という意味。
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/42862/meaning/m1u …
◎総合的に生き動き存在して◎
いても、
◎《狭い視野を持って思惟し行動する頑固なわれ》と《なるべく広い視野に立って世界の中のひとりとして自分をつねに位置づけようとしているわれ》◎
との葛藤はあるわけです。
普通の人の場合はですがね。

>投稿は ここまでです。

助かります。
腐った水を飲まされてはたまりませんので。

お礼日時:2016/02/20 22:44

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