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「人を殺してはいけません」 なぜですか?

A 回答 (237件中221~230件)

 子供にどうやって説明するかは


あなた自身が考えないといけない事じゃないですか?
 人に聞いた事をそのまま受け売りで教えるんですか?
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小学生にも分かるように、ですか・・・。



それでは「人」に特定の誰かを当てはめてみてはどうでしょう?
例えば「私を殺してはいけません」なぜなら死にたくないから。
「私の好きな人を殺してはいけません」なぜなら死んで欲しくないから。
「私の嫌いな人も殺してはいけません」なぜなら「私の嫌いな人」に死んで欲しくないと思う「誰か」がいるから。
仮に「私の嫌いな人」を「私」が殺してしまうと、今度は「私」が「誰か」に仕返しされることになるから。

という説明ではどうでしょうか?
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昔小学校の先生に,


「自分がされていやだと思うことは,人にもしてはいけない」
と教わりました.
時々思い出すようにしています.
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自由という言葉の定義から考えれば、人を殺しても良いのですよ。


人を殺しても良い変わりに、自分が殺されても良いという前提が成り立つ
ことを忘れてはいけませんが。
つまり、ある程度人が安全に生活するためには、ルールというものが必要
なわけです。基本として治安という名の政府の保護に守られているわけ
ですから、そのルールを破ることで人は罰せられるわけです。

人を傷つけてはいけない。人にむやみに傷つけたら困る。
人を殺してはいけない。人むやみに殺されたら困る。
ということです。

以前、写真家の藤原信也の「ガンジス川の中洲に流れ着いた遺体を野犬が
食している」写真に、次のようなコピーがついていました。
「人は犬に食われるくらい自由だ」この言葉は私にとって「自由」の概念
を根本的に変えたものですが、あなたにとってどんなふうに響きますか?

この回答への補足

皆さん、このような漠然とした質問に丁寧に答えていただき、ありがとうございます。様々な意見があって、どれも参考になります。
 では、このことを小学生ぐらいの子供に説明するときにはどうするのか意見をお聞かせください。

補足日時:2001/06/20 17:50
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 どうも「道徳」のジャンル(そんなものはありませんが)に書くべき回答が多いようですので、ここは一ついかにもパチモン哲学者っぽいことを書いてみようと思います(笑)



 後にキリスト教哲学と融合することとなるプラトン哲学は、そもそも人が死んだ後は「あの世が存在する」という前提で成り立っています。
 しかし、人の死とは、魂が身体から消えて天国、あるいは地獄へ行くというようなものではなく、主体として「今ここから自分がいなくなる」と認識されるべきものですし、往々にして人はそのように考えています。
 でなければ、人が死を恐れる理由に説明が付きません。

 デカルトの有名な文句「コギト・エルゴ・スム」は、日本語に訳せば「我思う、故に我あり」と訳されますが、正確には「『思う』ことこそ、『ある』ということである」と訳されるべきであり、死んでしまったら「思う」ことができなくなり、すなわちそれは人がここに「いる」ことができなくなってしまうことを示します。
 人間の至上の喜びとは「何かを『思う』」ことであり、それは愛情であったり、情熱であったり、または欲望であったりします。しかし、死んでしまったらそれがまったく出来なくなります。
 これは、「死」が「最悪の絶望」であることの証明です。

 たしかに、「人間は他者を幸せにしなければならない」という道徳は、いついかなるときでも通じる理論であるとは限りません。
 ゆえに戦争などにおいては人は人を殺しあうわけですし、第一、ヘーゲルの精神現象学は若者にはなかなか理解できない、というところから倦厭されるものではあります。
 しかし、進化論的には精神現象学はやはり「正論」なのであり、他者の中で自己を喪失した者が他者と和解できなければ、自分自身を喪失し、滅び行くしかないんです。

 それが、きわめて特殊な状況以外では、「人間は他者が幸せになるよう、努力しなければならない」という道徳が成り立つ理由であり、この道徳観念に反する「他者に最悪の絶望を付与する行為」が、いついかなる時代を通じても絶対的な「悪行」であるとされてきた理由でもあります。

 だから人を殺してはいけないわけです。

 ……とまあ、こんなもんで、よろしゅうございますでしょうか(^_^;
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殺してよい、というのは、殺されても文句を言えない、ということです。


皆が自由意志で殺し、殺され、ということでは法の拘束が無意味になり、権利は保護されず、義務は実行されず、経済のルールも維持されない状況が容認されてしまいます。

つまりは集団生活を維持する為に必要な条件だから、という事だと思います。

条件付きの殺人については、一般論としては完全に否定されてはいないように思います。
集団生活(社会)の維持が最優先される価値観のもとでは、合法的殺人(死刑)が認められてきた事実があります。
人道的殺人については、基本的人権に死ぬ権利というものを認めるのであれば、本人からの依頼に基づくものであれば許されるとも考えられるものの、「死人に口なし」である為に事実認定が難しく、また洗脳、説得などで誘導された本人意志というものが尊重されるべきかという点も判断がつけにくい(どこまでが誘導なのかという問題)ので、現実的には認めない方が無難だという判断になっているのではないでしょうか。

社会生活を拒否して動物のように野生化した人間、というのであれば、否定されるべき事になるでしょう。自分が安全快適に生きる為に邪魔な者を殺してしまう、というのは野生的・動物的であり、人間にもそのような野生は備わっていると思います。
他の動物と人間の大きな差は学習能力です。
野性的な本能に従って生きてきた経過において、相互補助の集団を作った方が都合のよい事を知り、その維持の為にルールを整備してきたのでしょう。所属する社会の利益が優先されて個人の利益と価値が逆転した部分も出てきた結果として、「人は殺してはいけない」事になったのだと思います。

所属集団の利益の為であれば、他の集団を攻撃する事も許されてきた、とみる事も出来ます。戦争による殺人は正義であったわけです。倫理や道徳というのはその所属社会でのみ有効なのであり、そのなかで個人の尊厳も認められています。客観的、普遍的価値が不安定な為に戦争の名のもとに殺人が合法化され得たのでしょう。

結局、本来の絶対的真理ではなく、後天的に便宜上決められたルールのひとつである、ということだと思います。そう決まっているから「人を殺してはいけない」のでしょう。
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 いろいろな考え方が出るでしょうが・・・。



 まず、「人を殺していい」というルールを仮に立てたとしましょう。
 なおこのルールを採用するにあたっては、誰もが命を狙われうるという「公平な」状況のもとにあるものとします。「他人は死んでも構わないが、自分はなんとしても生き残りたい」と思うのは個人の自由としても、その状況のもとでは客観的に自分の生命が保障されることはありません。
 こうすると、殺した者勝ちの世界になりますから、他人を信じることができなくなります。利己的な人々は自分の友人・家族・恋人でさえ手にかけることは容易に想像できます。世界の人口は瞬く間に減少していきます。利己的で残忍な人々ほど生き残る確率が上がりますから、そこで生き残っていく人々は相当な人々でしょう。
 そしてその人々の最終目的は自分が生き残ることに他ならないわけですから、人間が自分ひとりになるまで殺人は続きます。
 こうして究極の野蛮人ひとりだけがこの世に生き残ることになるでしょう。

 しかしそこで生き残った勝者は、究極の安全を確保した代償として、ひとりで生きていくことを強いられます。ひとりで食物を探して住居を確保し、生きていかなければなりません。まぁ自分ひとりになるまで人殺しのできた人間ですから、生きていくのは容易かもしれません。
 また人間は食物だけでなく、他の多くの面で他人に依存していることを彼は気付くべきです。精神的にも他人にある程度依存する面があることは否定できません。もっともこの勝者は、他人を大事にすることを捨てた以上、自己満足できる人か人類撲滅に信念ある人と言えるかもしれません。
 ひるがえって、savarenさんはこの勝者の生き方を見てどのように思われるでしょうか。このような生き方を選択なさりたいと思われますか?
 
 今生きている人間のほとんど全員は、自分ひとりが生き残って世の中を支配していくのではなく、他人と手を携えて生きていくという選択をしています。
 安全が確保されてはじめて人間の生活が発展していくことを考えると、この選択は極めて賢明です。他人の安全を確保するとき、自分の安全もある程度確保されているということはできます。
 また人は他人からサービスなどの供給を受け生存を保障されるほかに、他人と様々な人間関係を構築することによって精神的に充実していくのです。意味のある生き方、または「人生は楽しむためにある」というとき、他人と共存共栄する以外の選択肢は選べないはずです。
 種の保存上もこのようなシステムのほうが優れているということは言うまでもないことです。
 故に世界全体で「人を殺してよい」というルールは否定され、むしろ人間そのものや他人を尊重するという姿勢で政治・法律・経済・社会のシステムが作られています。こうした観点から、法律で定められているから殺人が禁じられるのではなく、殺人を防止するが故に法律で殺人が罰せられているものと解します。

 ですから「人を殺してはいけません」と言われるのです。
 
 随分長々と書いてしまいましたが、他の方のご意見も伺いたいところです。
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相互性の原則のコロラリーではないでしょうか。

つまり、「己の欲せざるところ、人に施すことなかれ」ということです。

このような質問はしばしばなされますが、これは、「人のものを盗んではいけません」「人の悪口を言ってはいけません」「人を叩いてはいけません」といった規範と全く同じことで、何故、殺人の禁止だけがとりたてて話題となるのか不思議です。

むしろ問うべきなのは、相互性の原則が、どうしてここまで広く倫理として確立しているか、ということかもしれません。
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 こんにちは。



 質問の趣旨をイマイチ量りかねるのですが、
本当に人を殺してはいけない理由が解らないのですか?
動物は殺してもよくて、人なら何故、駄目なのかという
ことですか?

 先の皆様が書いておられるとうり、
殺人が横行すれば社会が成り立たないからだと思いますが
それでは答えになりませんか?
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それは個の安全を守るためです。



人間は基本的に個人として安全な生活をおくることを求めて、集団(社会)に集まります。そして人間はより分かりやすい安心を求めるものですから、社会として形成された集団のもとでは、安全を守るための明示的な約束(倫理)ができるのです。
「人を殺してはいけません。人のものを盗んではいけません」と。
そうすれば、少なくとも泥棒や殺人はこの集団(社会)では禁止されている事なので、裏を返せば自分の安全も保障されるのだという概念的な安息がもたらされます(それがたとえ現実的な安全を保障するものでなくとも、精神的なよりどころとする事は出来ます)。
つまり、社会を形成する理由と同じで、それを禁止する事によって、個人が自分の安全の保証をしてほしいと考えられるとみていいと思います。

といってもこれは私の考えなので正しいかどうかは分かりません。
とりあえず参考ぐらいに見ていただければ幸いです。
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