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「人を殺してはいけません」 なぜですか?

A 回答 (237件中201~210件)

愚問ですね。


状況によっては、有りです。

富士の樹海で見つかる、白骨すべてが、自殺だと思いますか?

小学生には、首を絞めると苦しいから。
包丁で刺すと、痛いからとか、適当に言えばいいです。
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随分前に、どっかの雑誌で有識者にこの問いかけをしてみるってのをやっていたかと思います。


中吊りで読んだだけですが(笑)

で、記憶に残っているものを3つ。

大江健三郎「誇り高い子供はそのような疑問を持たぬものだ。」
野坂昭如「やってみろ、かわりに君も殺される」
瀬戸内寂聴「殺生戒のため。」

まったく、ピンときません。
これ、根源的な問いかけに答えてないです。

有識者でも手こずる答えにとりあえず浪花節的感情論では有効じゃないでしょうし、
かといって、基本的人権などというのも、根源的な部分の説明にはなりません。
それは単なる法律だから、法律以前の問題を規定はできません。

で、僕が思うに、仲間意識とかの問題ではないかと。
人間は一人では生きられません。
で、なんらかのグループに部分的にしろ、全面的にしろ、関与しているもの
ですし、一人っきりでは生きられません。
ですから、そのグループから、離れる行為はしたくないのです。
つまり、裏を返せば、グループ全員が殺人に同意すれば、殺人は行われます。
グループ内では罪を問われずに。(例:戦争、集団テロ)

要するに属している社会の決まりにすぎないのかもしれません。
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人間は放って置くと何をするかわかったものではない動物なので国家を


形成してルールを決め、人間の破壊衝動を安住と引き換えに押さえてい
るわけです。そして安住をおびやかすものは許さんというわけです。 

では人殺しは生きる資格がないかというと必ずしもそうとは限りません。
ゲリラの村で生まれ育った少年が村を守る為に敵を倒す。この少年に生きる
資格がないとは言えませんよね。

人間の歴史は人殺しの歴史と言ってもいいでしょう。人は殺傷能力に優れて
います。誰でもこの才能はあります。「人殺しなんかしない」と言う人は
今の平和な環境と教育においての話です。「他人を悲しませるから」という
のも同じでしょう。しかし環境次第ではこの能力を発揮することは可能です。

人殺しはいいのか悪いのか?歴史上、殺しがなかったら人間はここまで来れ
なかったかもしれません。科学も、今の日本も。
これはいいのか悪いのかという問題ではないような気がします。
これが「人間」と受け止めるべきでしょう。決して別の世界の動物ではなく、
自分と同じ人間であると。

僕は別に殺人を謳歌しているわけではありません。子供に聞かれたら、
「う~ん、いけないというよりもそれが人間なんだよ。だからこそちゃんと
考えなくてはいけないんだよ。」と僕は言うでしょうね。
子供は大人が思うほど馬鹿ではありません。
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うーむ。

レスが多すぎて全部見るのがたいへん。

小学生にもわからせる、というのは難しいですね。
(後に見る回答者の方は、14番の補足を御覧下さい)
今回は自分の意見を難しめに述べてみます。

まず、今までの回答を整理してみましょう。
中途報告のようになりますが。
なお、括弧内は回答数です。分類は僕の勝手な忖度によります。
●1●自分が殺されるのがいやだから(8)→応用が16番さん。
●2●社会を安定させ、またそれにより種の保存を確実にするため(9)
●3●殺された相手の今後の人生を奪ってしまう(1)
●4●他人を悲しませるから(3)
●5●他人なしでは生きていかれないから(1)
●6●リセットが利かないから(1)
●7●ただの社会の洗脳と人の損得勘定(2)
●8●自然の摂理(1)
・註・
17番さん、18番さん、19番さんの回答に向き合わない意見も含めません。
21番さん、28番さんの参考URLだけのものも含みませんでした。
26番さんのアドバイスも含めませんでした。
30番さんの意見も含めませんでした。

さて、やっとナビゲート部分が終わり、自分の意見に入ります。
上にこう整理してみたものは、別に多数決で正しいか否かをきめるものではないです。
昔はどんな生き物の殺生でも許されていませんでして。でも、食べなくては生きていかれないから、肉を食らい、魚を食す。鑑賞用の熱帯魚をかわいがるまなざしで見ながら焼き魚のサンマをうまそうに食べる、というのは奇妙な話です。
でも、食べなくては生きていかれない。これなんですよ。

(いや、精進料理なんてものもあるし、菜食主義者もいるけれど、それより前に人間の味覚は肉の旨さを知ってしまった。だから、食べるんです。これは快楽殺生ですね。)

そうすると、生きていくために人間を食べた例があるか、というと、あるんですよこれが。雪山で遭難した集団の物語が。
しかし、生きていくために人を殺すということは滅多にありません。憎いから殺してやる、などと思っても、殺す以外の方法で結構解決できるものじゃないですか。

生きるために最低限の殺生が必要ならば、それは許されるとして、その最低限を超えた殺生をするのは許されない、ということです。
最低限、の基準が曖昧なのですが。
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「人を殺してはいけない」のと同じように、自分をも殺して・・自殺ですね・・もいけないのです。


物事には全て原因と結果があります。仏教的に言えば・・因と果ですが・・全ての存在はここから生じています。その因と果の間に人間が介在できるならば、人間が宇宙を作っていることになります。しかし、そうではありませんね。
つまり、自然の法則に我々人間が介入できないのと同じく、人の死に関しても恣意的に関わることができないのは自明の理のはずです。
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この回答へのお礼

死の話しになると、よく宗教的な解釈がでてきますが、宗教的解釈はイマイチ釈然としないことが多いです。確かにまっとうなことを言っていると思いますし、理路整然とはしているのですが、どうもその宗教のなかでの内輪の理論という気がしてしまいます。

お礼日時:2001/07/01 14:52

>>自分が殺されないために。

だから、人を殺してはいけません。
>(中略)
>人を殺してはいけないと初めて思うのは子供のころです。
>その時にはこのような考えを思いつくほど僕は頭よく無かったです(笑)

はは(笑)、頭というより、子供の頃は「自分も誰かから殺される可能性が
ある」なんて想像もしてませんでしたものね。
(戦時下で生まれ育っている子供たちは違うかもしれませんが。)

自分の子供の頃を思い起こしてみると、
「人=殺してはいけないもの」との判断は、
倫理などというより、家族・親類や隣近所など身近なところで起きた、
死別による「残された者の悲しみ」を目撃することで、
「人が死ぬ(いなくなる)のはよくないこと」という価値観(?)が形成されて、
そこから派生した考えだったように思います。

(ていうか、実のところ「人を殺してはいけないんだな」な~んて
 はっきりと考えた憶えありませんけど(笑))

savarenさんが、子供にどう教えれないいかわからなくて、このご質問を
されたとは思っていませんが、
「殺人はいけないことかどうか」を考えることも含めて、
もし子供に「人の命の重み」を伝えたいならば、
「あなたがいなくなると、わたし(たち、みんな)はさみしい」ということ、
すなわち、自分の命(存在)の重さをしっかり覚らせる(さとらせる)ことで、
自ずと、社会に協調的な方向へ向かっていくんじゃないかと思っています。
(矯正不能なほど逸れてしまった成人相手では通用しないかもしれないけど。
 それから、殺人はいけないと"わかって"いても、実行するかしないかはまた別のハナシ。)

>>人が死ぬとそれを悲しむ人が必ずいる。だから、人を殺してはいけません。
>それもあるかと思いました。しかし、実際にそういう状況になった時にそこまで
>考えた上で自分を抑えるのかと思うとやはりそうではない気がしました。

個人差があるのかもしれませんが、
論理・理性による咄嗟の判断とかじゃなく、
反射的に自制してしまうほど潜在的に、
「人が死ぬ(自分が手を下すにしろそうでないにしろ)=よくないこと」という
「感情」がすり込まれていれば、充分なブレーキになり得ると
わたしは思いますよ。


蛇足ですが、
「自分がされてイヤだと思うことは人にしてはいけない」というのは
決して間違った考え方ではないと思うのですが、「教え」としては
有効かどうかわからないなと思います。
痛い思いをするのこそ避けたいと思っていても、
自分の命そのものはあまり重くない(わたしはいつ死んでもいい)、
という人間(子供)は決して少なくはないと思います。
自殺願望とはまた異なるのですが、
一瞬で死ねて痛くないんなら別に殺されたってかまわない、
って人(子供)、いますよね。
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この回答へのお礼

>自分の命(存在)の重さをしっかり覚らせる(さとらせる)

これは大事ですよね。このことがインプットされているといないのとではかなり大きな違いがありますから。自分のことを大切に思ってくれている他人の存在を感じることは非常に重要だと思います。

>「人が死ぬ(自分が手を下すにしろそうでないにしろ)=よくないこと」という
>「感情」がすり込まれていれば、充分なブレーキになり得る

つまり、ルールが存在する理由として「感情」というものがあるということですね。瞬間的に「この人が死ぬと悲しむ人がいる」と考えるのではなくて、あらかじめそういったことを考えたことがあって、そのことによって、ルールができていて、それがブレーキになると。そう考えるのならば納得できます。
 この「感情」と先ほどの「自分の存在の重要性の自覚」とあと僕は「痛みを知ること」が大切だと思っているのですが、これらのことがあれば、現代的な殺人はかなり減少するかと思います。

懇切丁寧な回答ありがとうございました。

お礼日時:2001/07/01 14:43

さくらももこさんの著書に「そういうふうにできている」という本があります。


乱暴な答えで申し訳ないですが、まさに人は、人を殺さないことで安心して生きていく、そういうふうにできているのだと思います。
しかし厄介なことに、人は一方で、「人を殺すことをおぼえた」生き物でもあります。私たちはかなり本能的なところで、お互いに殺生しないという知恵で生き延びていると言えます。しかし、殺人は起きてしまう。さらに厄介なのは、戦争などで感覚が麻痺した人は、殺戮が快感になるのだそうです。問題なのは、本能的でもあると言える「人は殺さない」という暗黙の了解が、ちょっとしたきっかけで崩れたとき、私たちがどう反応すべきか、のようですね。
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この回答へのお礼

>厄介なのは、戦争などで感覚が麻痺した人は、殺戮が快感になるのだそうです。

たぶん殺戮は快楽であると思います。それは破壊的だからかもしれませんし、タブーだからかもしれません。、理由は曖昧でまだよく解ってない、そんな気がします。だからこそ、殺人はしてはいけないものとされているのかもしれませんね。

お礼日時:2001/07/01 13:48

>「自分がされていやだと思うことは,人にもしてはいけない」



このことについて少し考えたのですが、仮にこの考えに従うと、
例の事件の犯人の主張

「死刑になりたいと思ったからたくさん殺した。」

は正当化されてしまう可能性がありませんか?
自分は死ぬことをいやだと思わないから
他人を殺してもかまわない。

私自身もよくわかりません。
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この回答へのお礼

>「死刑になりたいと思ったからたくさん殺した。」

この犯人も問題ですが、こういった人間がなぜ育ってしまったのか、ということのほうが大きな問題だと思います。
 やはり、「自分がされて嫌だと思う事は、ひとにもしてはいけない。」このルールの徹底は必要なのでしょう。つまり、犯人の主張は確かに論理的には正当化されますが、問題はその正当性にあるのではなくて、そのような論理がでてきてしまうような所にあるのではないでしょうか。

この台詞を聞いたときには、背筋がぞくっとしました。
おそらく犯人は、「痛み」というものをあまりよく分かっていないのだと思います。他人を傷つけたことも、自分を傷つけられたこともあまりないのではないのでしょう。でなかったら、この台詞は言えないと思いますよ。いまはみんな「痛み」を嫌い、避けるために、「痛み」というものがあまりよく分からなくなってしまっていると思います。他人に対する思いやりは「痛み」から発生するのに。

お礼日時:2001/07/01 13:33

人を殺してもよい、という前提の記述が余り無いので、再び書きます。


戦争と言うものがあります。国が人を殺せと指示をする愚かな行いですが、この場合殺人は合法となります。
家族や自分の愛するものが、第3者によって殺害されようとしているとき、第3者に対して自分が凶器を向けて殺害したとします。いけないことですか?
小学生を何人も殺害した犯人に死刑の判決が下りたとし、刑の執行がされたとします。いけないことですか?
それぞれの事柄がみな、悲しむべき事柄ばかりですが、人を殺す理由が成り立つと思います。
人を殺してもいけないというのは、道徳と感情と現在の日本の常識でしかないのです。以前アメリカで、ハロウィンの時に家を間違えただけで殺害された、日本の学生がいましたよね。あれは、自分に怪しいものが近づいてきたので防衛の為に殺害したとの事で無罪となりました。
「人を殺さない」というのは、日本の社会でうまく生きていく為の方策としての道徳であって、必ず守らなければならないことでは無いような気がします。
「人を殺してはいけない」というのは、現在の日本の道徳と常識であって、それ以外では通用しないこともあるのではないでしょうか?
いま、十字軍の話を思い出しました。あの頃のキリスト教は、キリスト教徒以外を人間と認めていなかったようで、殺害したイスラム教徒を食糧としていました。
かなり昔の話ですが、当時の道徳としては許されていたことです。
長くなってしまいましたが、私は別に殺人を肯定しているわけではありませんのであしからず。
もし、小学生に教えるとすれば、minatouri氏の「自分がされていやだと思うことは,人にもしてはいけない」 というのが一番適切なのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

>「人を殺してはいけない」というのは、現在の日本の道徳と常識であって、それ以外では通用しないこともあるのではないでしょうか?

私達はどうも本質的なことをあまり話したがらない国民性がある気がします。物事の表面の、痛くない、当り障りのない部分ばかりを抽出して、議論した気になってしまいがちです。これには、今の日本にその必要性が無いという理由があり、それは平和ボケではないでしょうか?危機的な状況にないということが、私達を本質から遠ざけているのです。でも、その平和が崩壊してきていて、本質を見極める力が、必要になりつつあります。「人を殺してはいけません」というような疑問の念が浮かぶのはそのためではないでしょうか?

お礼日時:2001/07/01 13:16

お邪魔かとは思いましたが、また寄らせてもらいました。



表題のちがいこそあれ一息つくには、面白い読み物をとおもいましてね。
ちょっと、こちらを覗いてみてはどうでしょうか?

http://www.hotwired.co.jp/speakout/interview/971 …

ブレイクタイムもときにはよいものですよ。ご感想など聞かせてもらえれば話が弾みます。

参考URL:http://www.hotwired.co.jp/speakout/interview/971 …
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この回答へのお礼

littlekissさん、わざわざありがとうございます。
上記の読み物読んできました。
 言葉=社会という発想は、社会=文化であり、言葉は文化を表層化するものであるから、日本語と英語の比較は日米の文化の比較にもなるでしょうし、おもしろそうでもあります。実際にこの本を読んでみたいとも思いました。
 でも、英語だけではなくて、仏語、独語、中国語、スペイン語なんかとも比べてみたらもっと面白いかと思います。

 確かに日本の現状として、曖昧さや責任の所在の不明確さなどは、さらに大きな問題となりつつありますし、また片岡氏のいう”裏ルール”(これはいわゆるローカルルールと理解しました。”裏”はちょっと響きが悪い)も現在のボーダレス化の進む時代の流れから考えると、かなり日本の経済、改革のスピードを落としています。
 しかしながら、文化・社会というものは長い年月をかけて作り上げられたものであって、早々変えられるものではないでしょう。
 現在私達は、社会に対して、閉塞感・時には絶望感まで感じることがあると思いますし、何とかして、今の状況から脱却しなければならない。この点に関してはあまり異論が無いでしょう。しかしながら、その脱却方法は今のところ、アメリカ的経営しかないようですし、また、他の形を模索しようとすることも少ないきがします。
 先ほど述べたように、私達には私達独自の文化があるわけで、経済・倫理等において、私達独自の方向性を模索しなければならないのです。そのためには自分たちのこと、日本人の民族性、アイデンティティのようなものをもっとよく知らなければいけません。そして、自分を知る為の最善の方法は、比較です。その意味でも、英語以外の言語との比較はしてみる価値があるのではないでしょうか。

お礼日時:2001/06/27 18:55

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