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【むつかい哲学の話】「人間は自我を否定されるために存在している」

自我を否定されるということは自我という言葉は生まれるはずはないのでは?

自我が存在するから自我という言葉が存在する。

人間の存在意義とは、「人間は自我を否定することによって存在している」という気がします。

ホリエモンのように自我が強い人間は結婚をしない一生独身者の場合が過去の偉人からも伺えますが、自我を否定することが出来ない人間は子孫を残さないので自然消滅していく。

一方の産まれたときは自我がなく、思春期に自我が生まれ、大人になる過程で自我を否定することによって妥協という言葉を知り、双方が妥協して自我を捨て、結婚し、子供を産み子孫繁栄していく。

よって、人間は自我を否定することによって存在している。という最初の意味に繋がります。

この認識で合っていますか?

人間の存在意義は自我を否定することによって存在意義が生まれているというのは大変興味深い話だと思いませんか?

妥協出来ない、自我を捨てれない大人が生涯独身なので子孫を残さない種なので存在意義がないと説いたのではないでしょうか。

違いますか?

人間の存在意義って何ですか?の問いの答えが「人間の存在意義は自我を否定されることにある」という回答に対する意見をお聞かせください。

A 回答 (4件)

個の数が多いから平均を求めるために、ある人は否定され、ある人は肯定される。


しかし他の事例では否定されていた人は肯定され、肯定されていた人は否定される。
こうやってバランスをとっているのが社会性ってやつ。
人云々じゃない。
ここに人が介在するとなると、如何にして肯定されるかを考えるってことだけ。
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この回答へのお礼

みなさん回答ありがとうございます

なるほど

山に篭って思想を唱えた人で、最初から頂点に立って宗教を作ったので部下の意見を聞いて調和する行為はしてなかったから矛盾が生じているんですね

お礼日時:2016/06/19 14:35

質問文の内容が良くわからないんですが、「自我」を否定すると言うのは、「自我」が存在しないって意味なんですか?


そういう意味じゃないですよね?(質問文の最初の部分は、そのような意味もありそうです)
質問文のその後では、「自我」の欲求を否定すると言う意味のように見えます。
つまり、質問文の最初の言説は、「人間は自我の欲求を否定される為に存在している」となると思いますけが、それで良いですか?
質問文の後段では、人間の存在意義に対する質問の回答が「人間の存在意義は自我を否定されることにある」と書かれています。
どのような主旨の回答かはわかりませんが、「自我」が個別的生存要求に対する本能そのものだとしたら、「人間」は、その社会性により、「自我=生存本能」の一部が否定されていると言う主旨のような気がします。
生殖行為は、生物の本能ですから、それ自体は「自我=生存本能」の否定では無いです。
ただ、人間が社会的に、婚姻制度などで、家族という生殖活動の場を限定しているとしたら、それは「自我=生存本能」の一部を制限している場合もありえるでしょう。
「存在意義」をどう捉えるかですが、とりあえず「存在」しているならば、それが「合目的」であるという「存在意義」を持つ必要は無いような気がしますけどね。
「存在意義」が無いものは、存在してはいけないと言うならば、そもそも「存在」しないような気もします。
質問が、「存在意義」を問う内容なので、回答者がそのような回答をしただけだと思います。
「自我」って、3歳位でもう生まれていますから、思春期に「自我」が生じるわけじゃないですよ。
妥協なんて、子供だっていくらでもしてますよ。(学校に行きたくなくても、通ってる子供はいるでしょう?)
子孫がいなくても、自身は生存しているわけですから、それが「存在意義」の否定でも無いでしょう。
働きアリは、子孫を残しませんが、「存在意義」はあるでしょう?(集団としてのアリは、その社会性により、生殖と労働を分けたわけです)
仏教的な意味ならば、「自我」は無記なわけで、解脱するには「自我」なるものを想定して執着してはいけないと説いているだけですね。(「自我」を否定すると言うより、そこから離れろと言っているだけです)
この場合の「自我」は、永遠不滅な実体ですから、質問文の「自我」とは意味あいは違うとは思います。
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自我ったって エゴのことでしょう?



みんな エゴですよ。

つまり ≪わたしが(エゴ―)≫と言っているだけです。

独語のイッヒも 仏語のジュも 英語のアイもみんな同じエゴ―
というまったく同じ――ただし少々それぞれ訛っていますが――
一人称代名詞です。

むかし エゴ―(サンスクリットでは アハンと言っていた)の
が アイになっただけです。

これを≪われ・わたし あるいは おのれ(自己)≫とすればよい
ものを わざわざ≪自我≫と訳したのが わざわいの元です。



哲学としては そのように交通整理するのが 妥当だと考えます。」



存在意義を考える前に ≪わたしは(ヤー;イーオ;ヨ;イク)≫
と自称して自己表現するおのれがいます。独り一人が大事です。
その自己を愛さなくてどうして 存在意義を考えることが出来ま
すか?
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よく分かりませんが、他の回答者にそう言われたのでしょうか。


「自我の否定」とは、言葉が強すぎます。
「人間は他人と協調し合うために存在している」くらいでしょう。
自我を否定する必要はありません。ただ妥協したり取り引きすれば良いのだと思います。

自我の定義はこんな感じです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%88%91
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/94235/meaning/m0u/

もしかしたら「人間の存在意義は自我を否定されることにある」の回答は、もっと深い体験に由来した言葉かもしれません。
だとすれば、単純に理解してしまうのは問題があります。
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