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言動に一貫性があり、信念ある生き方をしている人間って、そんなに立派なの?
ポリシーをもち、一貫した信念を貫いて生きる人間なんて、別に立派だとか思いませんがね。
ノンフィクション作家である大泉 実成の「説得―エホバの証人と輸血拒否事件」を読むと、我が子が事故で大怪我をして輸血しなければ助からない状況下で、子供の父親でエホバの信者だった男は断乎輸血拒否しました。結果、子供はもがき苦しんで死にましたが、このご立派な?父親はインタビューに対して「自分のポリシーと信念を貫いただけです。後悔は一切ありません!」と堂々と受け答えしてました。
しかし,私はこんな奴、全く立派だとは思えませんし、それなら中途半端に自分の信仰や信念やポリシーを放棄して我が子のために輸血してあげるような「信念もポリシーも信仰心も欠如した中途半端な人間」の方がよほど立派だと思います。大泉さんも本の中で「世間一般ではポリシーをもち、信念を貫いて生きる人間を中途半端な生き方しかできない人間と比較して立派だ!ともてはやす風潮がありますが、こういう風潮や考え方はオウム真理教などの原理主義者や狂信者を生み出したり増長させる可能性があるから危険だ。」と警告しています。
皆さんの意見も、聞かせてください。

A 回答 (8件)

何かご事情があるのかわかりませんが、



例で挙げられた部分は失敗例だと思います。

成功例は多数あると思いますので、

一つの失敗例を挙げて、

「一貫した言動を辞めよう?」

と扇動するわけにはいきません。


素直に私の場合であれば、

「一貫した言動が出来ず、信念がない人と、

 一貫した言動があり、信念がある人のどちらかを選んで友達としなさい。」

といわれたとき、私は後者を選ぶと思います。

前者の人は予想がつかず、怖いですよ。付き合い方を思いつきません。

また、どちらに成りたいのかと問うても同じですよ。


ですので、皆さんが本当に知りたいのは、

「一貫した言動と信念があれば本当に立派に成りえるのか?

 そもそも何でこれが尊ばれるのか?」

と言う本来論でしょう。

そして特に気に成るのは、

「年配の人や権威者が何故尊ぶのか?」

ではないでしょうか。

今回はそちらを私なりに考えてみます。



人は年を取っていく過程で活力が衰えていきます。

思考が鈍っていき、若いときよりも早く時間が進むと感じるようになります。

これに気がついて、効率を上げていくことで消耗を抑えようと対抗します。

このために最初にやるのが、思考に一貫性を持たせることです。



人間の脳(チンパンジーなども同じ)には特質がありまして、

訓練をしませんと、20秒以上の長い思考が出来ません。

脳には短期記憶と長期記憶がありまして、前者は15秒~20秒で揮発するといわれています。

ですので、短期記憶しか活用できていない人(デフォルトはそちら)は、

好きとか嫌いみたいな反射的な反応は出来ても、

それ以上掛かる難しい物事については思考できないとなります。

ショックですが、そうなっているはずなのです。


人の人生は上手く行けば100年近くありますが、

一生に一回も20秒以上の思考をしたことが無いまま死ぬ人が大部分なんですね。

しかもその状態ですと、ご本人の日常もままならないでしょう。

そこで、20秒以上思考が出来る人が代わりに思考を行い、

その結果だけを残し、それを習得することで代用している状態なんです。


では思考に一貫性を持たせると何が違うのか?

この訓練を行う前と後では体感で大きな差があります。

(仏教の禅では最初にやらせるそうですが)

成功しますと、

攻撃的な欲求が減り、何かを改善したり整えたりする意欲が増します。


しかし、

改善したり整えたりするためには、段取りを考え、計画する必要が生じます。

出たとこ勝負では上手く行きません。

このとき、思考が20秒を超える場合は、出来ない人と出来る人に分かれてしまいます。

訓練をする前の状態では、ここで脳がギブアップをしてしまいます。

このストレスが攻撃欲求に繋がります。

八つ当たりや責任転嫁ですね。

ですので、わたしは、

人の悪徳の所以は訓練不足が原因であり、本来は改善に意欲を燃やす性善であると

いう主張を指示しています。


また、先が見えないものに対する恐怖感と言うのは誰にでも生じます。

しかし、本来は、将棋指しが先を読むように予測することは出来るはずなのです。

これをするためにも、20秒以上の思考が必要となります。

そうでなければ、当てずっぽうになってしまいますよね。

例えば、

「印象では良い話であったため、皆が賛同して決めた。

 ところが、それに従うと成り行きがどんどん悪くなり、皆で損をした。」

そういう話も沢山あるでしょう。

これらが潜在的な未来に対する恐怖を生み出します。

臆病や逃避などはここから生じると思います。


そして、

「誰の意見に賛同をしたら良いか?」

と言う具合に、自分では思考をせずに、参考に出来る人を探すものです。

この代替によって、大概のものは凌げます。

しかしこれも歪な面があります。

頼りに出来る人材のリストが必要になります。

口伝で伝えれば名誉と成り、役職として認めれば権威となります。

しかしこの名誉や権威ですら、

暗記によって成果を勝ち得た人が多く、思考が出来る人がいるとは限らないのです。

しかも待遇差が生じてしまい、不公平感を蓄積させます。



更に、

皆様、個人の思考の混濁は(年を取り)避けられないはずです。

「自分は、本当に思考が出来ているのか?」

その時期(混濁が激しくなる)になると、

各自が悩み、何がしかの方法を見つけ出すようです。

どこかで諦めて自分の脳を整えないといけないと、覚悟を決める年齢があるわけです。


さて、人間の脳の構造から生じる誰もが避けられないテーマ。

20秒以上の思考ですが、容易くできるものではありません。

私の場合は混濁した思考に慣れており、そこに疑問がありませんでした。

更に自分の言動は一致していると思っていました。

本当は、それすらもわからないはずなのにです。

最初のうちは、五里霧中。

どこから手がかりとして良いのかわかりませんでした。

結局わかったのは、

思考が中断されるタイミングに共通点があること。

これに注意をすることでした。


多重人格と言う言葉があります。

人間の脳の仕組みでは、

複数の人格が融合し、これらを一つと錯覚する機構があるそうです。

実際は、別々の人格が自己都合で思考を交代しているようなのです。

ここで気がついたのは、

思考の途中で彼らが個別に飛び出してくるように感じたことです。

結論が出る(短期記憶が長期化)される前に、

邪魔を入れようと争そっているみたいでした。

「ワーワー、今のなし。ワー。これ以上させるもんか。ワー。」

ですね。


これら人格には個性がありまして、

情緒的であったり。正義観が強かったり。自己都合に傾いたり。

合理的であったり、せつな的であったり。

優しかったり、愛されたかったり、愛したがったり。

我慢が好きであったり、我慢が嫌いであったり。

嫉妬深かったり、臆病であったり。

それぞれが独自の世界観を持ち、一つ一つに説得力があります。


つまり信念とは、

「こうした方向性がバラバラの人格をどうやって説得するか?」

と言う論法を指すのかもしれません。

これに成功しませんと、自分の中の複数の人格が自己都合で騒ぎ出し、

一つの纏まった思考をさせまいとするでしょうから。


しかし、

それぞれの主張や好みが違いますから、一つの論法では難しいはずです。

自分の中にいる多くの都合をどうやって満たすか?

それぞれの人格が納得しないといけません。


そこで、

言動が一致してそうな人を探し、

どんな信念を使っているのか伺い、

自分に効果がありそうならば、

「(ただ取りで申し訳ない)有難う。」

といって美味しくいただき、使うわけです。

ここでは、

使い心地を確認し、拘らず、別のものに変えて行くことがとても大切です。

本来の目的は、

「自分で物事を考えられるようになりたい。

 人間と言う動物の(脳の)特徴と戦い、自分を整えたい。」

なのですから、思考を止めることではありませんよね。



これは古代から頻繁に行われているのでしょう。

ですので、考え方が似通った人が沢山出てきます。

第三者には派が出来たと見えるでしょう。

その原典を供出した人に一目置くのが礼儀でしょうから、

派を起こした人を立派と言うのです。


信念は、

強制的に迎合させられたり、無い人を罵倒するものじゃなく、

薬の発明に近いものですから、大騒ぎをするものじゃないと思います。

年を取ってからお世話に成れば良い思いますよ。


こうして考えたことから要約しますと、

信念とは論法でしょう。

心を一つに整えられる説得の段取りなんでしょう。

そう解釈すれば、

さきほどの事例によって、

エホバの信念を採用したくない人が沢山出てきたわけです。

それにより、あまり立派には成れなかっただけですね。


次に一貫性です。

もし自分に思考が出来ていれば、他の人の思考の結果と結論が同じに成ります。

これを本来の一貫性と言います。

入力が同じであり、その人の状態が他の人と同じであれば、出力が同じであるという事です。

なので事情が違う場合は、主張が違うわけです。

理想的には、思考が出来ていれば、相手の事情を知るだけで合意に達するはずなのです。


最後にですが、

他人に一貫性を求めるくらいならば、

自分の脳の健康や不自由さの解消として大事な作業なんですから、

自分の事としてもっと一生懸命に成るべきです。

他人を攻撃したり誉めたりしても、自分の病気が治るわけじゃありません。


以上、ご参考になれば。
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私はあなたの意見に完全同意。


ぜんぜん立派じゃない。
リッパダー!!!
と言い張る人たちのこと
ゴリッパピーポー略して
ゴリピと呼んでるの。
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その信念にもよると思いますよ。


言動に一貫性がある人はかっこいいとは思います。
何かを信じて誓って、それが生きる支えや慰めになっているような人もいますからね。
我が子を殺してまで貫くものは信念ではないですよ。
自分や人の為になるようなことが信念だと思いますがね。
それか、我が身を削って貫くものですかね。

宗教は怖いですね(笑)
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逆ですよ。

自分の頭でものを考えず、中途半端に生きてきたからこそ、エホバの証人のようなカルト宗教にたやすくつけこまれるのです。

「自分は特定の信念などもたない。その場その場で、なんとなく物事を判断する。」
これはこれで、実は昔からある「信念」の一つ(「場当たり主義」)に過ぎません。この「信念」の問題点は、自分で決めているつもりでも、結局のところ「皆がそうしているようだから」「テレビやネットでそう言ってたから」が、基準になりがちだということです。

こういう人は、たとえばナチス政権下のドイツにいればヒトラーを、「ただなんとなく」支持します。彼らにとって、体制に逆らう人々は、「何かおかしな信念をもっているやばい人」であり、迫害されても仕方ないなどと思ってしまいます。これではカルトにだまされた人を、笑える立場ではありません。
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他人がどう評価しようと、人は自分の生き方しかできないのだから、他人の目から見て立派だとか立派でないとかの次元の話は、本質的な論点を欠いていると思う。

信念があるかないかは、立派であるかないかの二律性とは無関係だとしか言いようがないと思う。
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言動に一貫性があり、信念ある生き方をしている人間って、


そんなに立派なの?
  ↑
希少性がありますが、それだけです。
立派でも何でもありません。

その典型が社会主義者達です。
世界中で失敗し、独裁と貧困と、大逆殺を
生み出しただけの、この思想をいまでも
後生大事に抱えている人が、
本当に立派でしょうか。



「自分のポリシーと信念を貫いただけです。
 後悔は一切ありません!」と堂々と受け答えしてました。
    ↑
こういう人は、ポリシーとか思想とか信念について
勘違いしているのです。

ポリシーとか思想とか信念なんてのは、人間の
為に存在するのです。
人間がよりよく生きるためにあるのです。

それを、ポリシーや思想、信念の為に
人間が存在する、と錯覚してしまったのです。

こういう人は怖いですよ。
スターリン、毛沢東、ポルポト・・
社会主義における自国民の大逆殺は、まさに
そういう人たちが起こしたものです。
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「いざとなったら教義を捨てても子供の命を守るのが「ポリシー」」という人なら立派という事でしょうか?

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この例だと、ポリシーがあるかないかというよりも、その中身の問題では?

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