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中國には南京、西京、北京という地名がありますが、何処の都市を念頭に置いて西、南、北となっているのでしょうか。
なぜか東京という地名がないのはなぜなのでしょうか。

A 回答 (3件)

念頭に置かれている都市は中国の洛陽です。



この都市は紀元前1000ねんぐらいの周の時代には資料に表れており、石器時代などの集落の後もある中国の中でも非常に古い都市であるといえます。中国というか「中華文明」は周によって始まるとされています。

元々、周の首都は鎬京で現在の西安の近くでした。紀元前772年になると周王の地位を巡って争いが起き、一部の有力者たちは現在の洛陽に都を移します。中国というか「中華文明」は周によって始まるとされていますので、この
この時期から、周は東と西に分裂し、東周が西周を打ち負かしたことから、鎬京付近は西京と呼ばれるようになっていくのです。中国というか「中華文明」は周によって始まるとされていますので、この洛陽と西安の関係性から、のちの歴史における各首都が東西南北で位置づけられるわけです。


問題はトンキン(東京)がなぜないか、ということですが、これは中国の歴史に関係しています。
中国というのは漢民族の国なのですが、漢民族が国を維持するには常に「周辺の騎馬民族」との対立を意識しなければなりませんでした。

周は黄河流域に生まれた国ですが、この国のすぐ西と北には強力な異民族がいて、周はこれらの侵入を防ぐ必要がありました。そのため、これらの地域から適度に離れた鎬京を最初の都市に定めたのです。
洛陽も鎬京から真東に移動した都市で、異民族防衛という視点から見れば、北に行くことも南に行くことももちろん西に行くこともむずかしかったのです。

周に続く時代は秦から隋がふたたび中国全土を統一するまで分裂国家の時期を経ますが、この分裂した国の争いは大体南北で分裂していて、南北の分け目が西安から洛陽を結ぶ線でありました。
これも理由があって、北側は黄河流域を中心に支配しないと農地が確保できなかったこと、南は長江を抑えて農業地帯をしたことが上げられます。これによって、中国の中でも洛陽を中心として北・南という概念が強くなります。

その概念が出来たうえで、元が北京に王朝を開いたり、南京(当時は応天府)を拠点に活躍した明が異民族王朝であった元を排斥して北京を首都と定めると、出自のある応天府を南京と定めたことで、西・南・北がそろいました。

で、なぜとんきん(東京)がないかというと、南京がかぎりなく東側にあるからです。南京は長江の河口近くの都市であり、南京よりも東だと海と川が接する河口しかありません。この場所には現在上海があります。

南京は中国が南北に分裂した時代の首都だった時代が長かったため、北京から見て南京と名付けられたわけで、これだけ東側にあると、とんきん(東京)を置く場所がない、ということと、歴史上南北分断が主な経緯だったので東側に都がおかれることはなかった、ということです。

日本の東京は、あくまでも京都から見て東側だから東京です。
これは、アジアでは「その国の基礎的な都からみてその時の支配者が住んで居る方位を当てて都にする」という方式から来ています。

ややこしいかもしれませんが、欧米なんてもっとややこしく、たとえばニューヨーク: New Yorkの元になったイギリスのヨーク: Yorkはオーストラリアやカナダというイギリスの元植民地にもありますし、アメリカには六つの州にそれぞれヨークという町や都市があります。

地名と言うのは、意外にその地域の歴史を引きずっているものなのです。
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この回答へのお礼

歴史的に説明してくださって完璧な回答でした。、どうも有難うございました。

お礼日時:2017/05/26 00:05

なぜ北京と南京は中国にあるのに東京は日本にあるのか?


http://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20170121/Re …
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東京と書いて「トンキン」がありますけど。



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%B3 …
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