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徳を積めば、運気が好転するということを良く聞くのですが、私的に思うのは、人生を客観的に聡明にいきることではないだろうか?
と思うのですが、具体的にこんな行動・思考は徳を積むということになりえるというを知りたいのですが。

どんなことを指すのでしょうか?

微妙に理解に苦しむので、具体的なことを教えてください、なるべくならなぜその行動はイコールなのかという理由も教えてください。
理論的に解説をいただければうれしです、お願いします。

A 回答 (9件)

お返事ありがとうございます、再度の7です。



これは仏教の「無我」になるんですね。

例えば、今、めちゃくちゃ売れている本で「生きて死ぬ智慧」柳澤 桂子(著)がありますが、これは科学の世界から「無我」を説いています。
この世の全ては粒子であって、ただ粒子の濃い部分と、薄い部分があるだけだ。
粒子はお互いのバランスの良い関係で安定する。。。。と。

元々「無我」というのは、仏教の瞑想をしながら、実際に「私」を探す作業をして、「何処にも”私”なんかいない!」と気が付くという作業をして得心していくんです。

今でこそ、仏教もご利益主義、救済主義、現世利益主義・・と利己主義化されているんですが、本来の仏教は全く違うものだったんです。
言われる通り、世捨て人、出世間な教えなんです。


でも、世にいう成功者の方々の本等を読んでますと、やはり基本は、この徳を積む生き方にあるんです。
アイディア商品を売り出すのも「みんなの生活が便利になればいいな」という心なんです。
この世の堅気の商売で、人に喜ばれないもの、人の役に立たないものって、そうは無いと想います。
みんな共通しているのは「誰かの役に立てばいいな~」ということだと想います。
だから、お互いのバランスが良い関係で安定するから存続できるんです。


で、自然界は、与えたものに対する「報酬」として実りを受けるんです。
種(原因)を撒くから、その報酬(結果)が得られるんです。
原因がなくて結果だけを求めようとするのは「心」だけで、自然界には無いんです。

私たちの肉体も自然の摂理に従っているのに、「心」だけは、それを無視しようとするんです。
利己主義、快楽主義・・・となるのは「心」だけなんです。

ガチガチの利己主義では、良い種とはいえませんよね。
もちろん単純に一因ではないでしょうが、基本的に、良い種を撒けば、良い報酬が得られるんです。

こちらの#1も読んでみてください。
http://security.okweb.jp/kotaeru.php3?q=1455606

まあ、こんな感じです。ご参考までに。

参考URL:http://security.okweb.jp/kotaeru.php3?q=1455606
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この回答へのお礼

再度、ご回答ありがとうございます。

例えるなら、PCでいうと、ハードディスクの容量を空ければ、又、情報を入れることができる。
そして、情報は時間に比例して新しいものが入ってくるので、古い情報を保存していては、新しい進歩はない。
人の高みに行くには、常に自分にとって新しい何かを手に入れなければならない。
無我の境地は、利潤を超越した心理を体得するってことですよね?
なら、無我は必要です。報酬は、特定の誰かという人ではなく、自然界から受けるものだと理解できました。
人からという考えが、利己的であるのですね。
良い種を撒く事(邪まさがないこと)を『徳』と今のところ念頭において行動したいと思いました。

お礼日時:2005/06/23 00:14

徳を忘れる事ですね。


徳を徳と思っている内は、知らず知らずに代価を求めている事でしょう。
太陽の如く、あまねく人々に光(恵み)を分け与えましょう。人間は本来「無一物」ですから。
失う物など何もありません。
お手本は「太陽」です。
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例えば、何も悪いことをしていないのに、上司に怒られとします。



普通だったら自分が可愛いですから、腹が立ちます。「ちくしょう!」とか。
他にも「なんで、自分だけ!」とか、「誤解だ・・」なんてことにもなります。
憎悪、劣等感、差別感、悲哀、・・・・いろいろな感情が湧いてきます。

これらの感情の温床になっているのが「私」という意識です。
「私」への愛着、執着があるから、「私」を守り育てようとして、いろいろな感情に発展するんです。

でも、もし逆説的に「私」への執着・愛着がなければ、勘違いで怒られても、気にしないんです。
ちょっとやそっとでは動じなくなるんです。
激昂することも落ち込むこともなく、冷静で居られるんです。


徳を積むというのは、この「私」を捨てることでもあるんです。
見返りや称賛を求めない、無為な善行為です。
逆に我執が強い人の行為は、全てが計算されて、利己的なものになります。

具体的には、なんでもいいんです。
その「心」の状態が大切なんです。
どこかに見返りや称賛、計算に基づいた「我」への愛着、執着がないか?・・というところだと想います。


で、心の状態が無為になってくれば、我欲・欲望も少なくなりますから、「少欲」で居られるようになるんです。

「少欲」になれば、些細なことも、大きな恵みに想えるようになるんです。

それまでは、給料に不満があった人も、少ない給料でも満足できるようになるんです。
「ああ、ありがたいな」と想える心になるんです。

これこそが、ポジティブなプラス思考です。

欲張る心がなくなるので、不平不満も同時になくなるんです。

そうすると、この世が、良い出来事ばかりになってしまうんです。
(心の状態がそのように変化するという意味です)
質素な食事にも感謝の気持ちが湧くし、いつでも満足していられるようになるんです。
生きているだけで幸福になってしまうんです。

だから徳を積めば、運気もよくなるということだと想います。
そのように無為で、少欲知足な「心」に成長してしまうということだと想います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>徳を積むというのは、この「私」を捨てることでもあるんです。
見返りや称賛を求めない、無為な善行為です。
逆に我執が強い人の行為は、全てが計算されて、利己的なものになります。

私を捨てるということは、非常に高度なことだと思いますが、同時に心のなかに、世捨て人のような、感覚も抱いてしまう気がします。
おそらく、他人に対しての徳というものはでてくるでしょうが、自分の中の満足感のようなものは伴わないと思います。(利己主義ではないということになりますので)
人生生きていて良かったと思えることを実感はできそうにないので、「私」を捨てるということは、他者からの目を通したときの徳だと思ってしまいます。
自分を満たす徳と言うこと自体がありえないことなのだろうかと思いました。

お礼日時:2005/06/22 02:44

皆様のおっしゃっている通りだと思います。

仏教の言葉の「無財の七施」が私はとても好きです。眼施にはできるだけ気をつけています。(URL↓)あと付け加えるとしたらやはりお供養ではないでしょうか、すごい時間の流れの中の一点に自分は存在するんですよね、その生まれる前のことに思いをはせ、自分がいつか死んだ後のことも考え行動する。物を大切にするとか小さな事も人は自然に生かされているということを思うささやかな心だと思います。つまり徳という言葉はある面俗っぽくなっている部分もありますが、本来もっと宇宙的にとらえるべき言葉ではないかと思います。

参考URL:http://berry.nagaokauniv.ac.jp/home-hal/muzai.html
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ある信仰しているものです。


うちがやっている信仰は「陰徳」と言って
人の見えないところで「徳を積む」ことが
人生好転の道であると教えられています。

徳を積むというのは、人に喜びを与えること、助けること、2つの選択肢の中で都合の悪い方を自分が選ぶこと、
喧嘩でも自分から降りること等々
つまり自分が損をして相手を立てる行為とでもいいますか、相手の気持ちを明るく照らしたり、また、癒したりという行為も含まれます。

これを人が見ていないところで行うと、
大きな徳が積めると聞いています。

例えば、自分のした掃除や、見えないサポート、ヘルプや
また、したとしても「これ、やっといたから」などと
いちいち言わないことです。

徳を積むと自分が背負っている、因縁(業、カルマとも言いますが)が切れていくと聞いてます。

私もこれを回答しながら、「反省」だらけな気分になりました^^;
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

業を背負うというより、背負ったのは自分自身の生きかたに問題があるのかな?
と思ってしまいました。
悩みのタネを蒔いていたのは自分自身だったということ多々あります。
いろんな見識が必要ですね。

お礼日時:2005/06/16 00:02

徳を積むとは正しくは「功徳を積む」というこです。

似た言葉に利益(利益)がありますが、これは他人から与えられたものであります。功徳とは文字通り「自ら積むもの」であり、さらに言うならば「正しい仏道修行をして自ら積むもの」です。
もし普段の日常生活で徳を積むことができるのなら、そのやり方は確立されていて本でもでているだろうし、世の中の人みんなが徳の高い人になって、素晴らしい世の中になっているでしょう。しかし、現実には自分の徳の低さに苦しんだり、悩んだりしている人がたくさんいるのです。
また徳(功徳)といってもいろいろあると思います。例えば「あの人は徳がある」というのは人徳であり、ちょっと簡単に言いすぎかもしれませんが、周りの人から自然と尊敬され、また困った時には進んで助けてもらえるような人のことをいうと思います。
また仏法上の功徳とすれば、それの中で一番大きなものは「悪業の打破」です。悪業とは自らが今までに積んできた、悪い癖や習慣、性格などです。それは直そうと思い実行したところで簡単に直せるものではありません。中には自分では気づいていないものもあるかと思います。そういった悪業が、正しい仏道衆生をして積んだ功徳によって少しずつ無くなっていくのです。それが幸せに近づくことだと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

悪業の打破がポイントだと思いました。
悪い癖とか見てみぬふりするもんですよね。
いろいろ考えなおさないといけないところがあります。

お礼日時:2005/06/15 23:59

はじめまして。


なかなか難しい質問ですね。
福徳という言葉があります。この「福」というのは自分自身(身内も含めて)を幸せにすることのできる力(パワー)のことをいいます。「徳」というのは他人を幸せにする力のことをいいます。そして、自分を幸せにする福は他人を幸せにする徳から生じてくるものなのです。
自分一人が幸せに暮らせればいいと思って、一所懸命に働いてはいるでしょう。然し、仕事や日々の暮らしの中で、人の反感を買い、或いは恨みを受けてしまってはいませんか。職場の仲間や隣近所の人からよく思われていますか。嫌われていませんか。人に嫌われたり恨みをもたれたりしていて幸せに暮らせるはずはありません。
徳を積む=人に嫌われないようにする。積極的には所謂人助けをするということなのです。
こうしていうるうちに、あなたに対する評価が上がってきます。この上がった評価があなたを幸せにする福となっていくのです。
多少言葉を省略した部分があってわかりにくいかもしれませんが、要点だけを述べると以上のようなことなのです。
一朝一夕にはいきません。不断の心掛けが大切なのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>徳を積む=人に嫌われない

ということですが、人助けをする人でも、効果を狙ってやっている人もいますよね?人からいい人であると名声をもらいたいとか?
確かにやってあげた人の評価は上がるとおもうのですが、そんな人に限って自分のことはいろいろと出来てない自信過剰な人が多いと思います。
Aさんを立てるとBさんが立たない。Bさんを立てるとAさんが立たないというシーンは沢山あるとおもうのですが、違いますか?
だれにでも好かれる人はいないような・・と思ったりもします。
でも、他人を幸せにするということは共感できます。
他人を幸せにするのって一人でも難しいですよね、まさに一朝一夕にいかない。

お礼日時:2005/06/14 23:01

他人に対して善意に満ちた 幸福に結びつく様な志を持った行動をする事を言います。


それらを積んでいけば 言葉で説明するのは困難な程 見えない 体感できない色々な条件・根拠が重って環境となり ある時にある人と・ある物を・ある出来事を引き寄せるように機会が生まれるわけです。

日常的な一例としては 
あなたがこの質問をしている事と 私がそれに回答している事です。
それにより いつ どこで どのような形で運気が出るかもしれません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>他人にたいした善意に満ちた、志

これいいと思いました、これに客観性があれば、自己満足でないはずです。

私がこの質問を考えたことがauctionさんの徳を呼んでしまったということでしょうか?
では、この質問は・・善意の志??
この積極性が重要ということでしょうか?

お礼日時:2005/06/14 23:06

私のような無徳の人には到底答えられませんが、「徳」は宗教、流派、民族、それぞれ個人等によって、考え方、解釈の仕方が変わってきます。

そして絶対的なものは存在しません。だから「徳を積めば、運気が好転する」と言った人にしかその「徳」は理解できません。
逆も然り、あなたが「徳」は「人生を客観的に聡明にいきること」と考えるのなら、それがあなたの「徳」です。

「(どっかの似非教団みたいに)次元の低い人を殺すと徳を積めます」と言われて、あなたは人を殺しますか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

どっかの教団の方は、自分がないから?脅迫されていた?とかあるのでどうもいえないですが、
ここでの回答の『徳』というものは、その人の信念のようなものですね。
徳とはその人が突き詰めた真実のようなものだと思いました。
となると、さまざまですね。

お礼日時:2005/06/14 23:09

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