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Q1: コイトスにおいてぼっきする現象は 人間がそう設計してつくったのか?

A1: いや。それは違う。だが その原因が神だということにはならない。

Q2: つまり ずばり問題の核心にせまってくれたのだけれど だからと言って 
原因は 神ではないとも言い切れまい。

A2: と言うと なにか? 例によってあんたのおはこのような《無い神》派だ
というのか わたしは?

Q3: そのとおり。話が早い。きみの見解は 原因が《無い神 という神》にあ
ると――むろん 想定じょう――言っている。

A3: ははーん。きみは 《有る神 という神》に原因がある。どちらも 互い
に相手の説を否定しきれない。よって ふたつの神を合わせて普遍神だっていう
やつ?

Q4: ピンポン!

A4: いやいや。人知を超えた普遍神という割りに 神が有る・神は無いと言っ
て 人知が及んでいるのではないか?

Q5: なんの・なんの。その表現は 想定したという前提から始まった便宜上の
ことだ。

A5: だったら この世の中から 《かみ》という言葉を完全に無くしてしまえ
ば どうってことない。そうなる。

Q6: まあな。

A6: そういう方向へ 議論を持って行くのがよいはずだ。宗教への絶対批判を
言うのならば。

Q7: まあ そうかもね。だが 《無い神》派は 人間のつよい信念を説くが
それは あらゆる現象の原因ではない。やはり 普遍神を想定してるんだ。そ
の問題が なくなることはない。人間がいままでの人間である限りは。

A7: だから・だから 人間の能力と信念とで あたらしいヒトを作り出すこと
になるのでは? これが 無神論派の逆襲だ。
・・・



☆ ご教授ください。

A 回答 (12件中1~10件)

★ (生まれてある)は、巧みに、あるいは合理的に(成ってある)を利用して


いる。
☆ 人間が 意志を持ち 自然環境に人為のチカラをおよぼすことがある場
合ですか。


いいえ、体はいつのまにか分解酵素をもち、温度と胃酸をちょうどよくして、食べ物を消化することをイメージしています。

これによって、炭水化物なり、たんぱく質なりをブドウ糖やアミノ酸にして吸収しやすくして、体内に取り入れ易くします。

このような、物理的化学的な生滅のはたらきを(成ってある)ところの変化として考えて、わたしたちはありがたいことにこの(生まれてある)ところのはたらきは(成ってある)ところのはたらきをうまく利用してエネルギーを貰っている。

それでいて(写し、移されてある)ところの(意識としてのわたし)は、食べたものを消化することを考えずに、自分のなすべき仕事に集中できている、というようなイメージでいます。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★★ (生まれてある)は、巧みに、あるいは合理的に(成ってある)を利用して
いる。

★ 体はいつのまにか分解酵素をもち、温度と胃酸をちょうどよくして、食べ
物を消化することをイメージしています。
☆ あぁ そうでしたか。人間について その意志のハタラキより前に 身体
の組織が独自のハタラキをおこなっている。


★ これによって、炭水化物なり、たんぱく質なりをブドウ糖やアミノ酸にし
て吸収しやすくして、体内に取り入れ易くします。
☆ ということらしいですね。精密な連携作用をおこなう工場のごとく。


★ このような、物理的化学的な生滅のはたらきを(成ってある)ところの変化
として考えて、わたしたちはありがたいことにこの(生まれてある)ところのは
たらきは(成ってある)ところのはたらきをうまく利用してエネルギーを貰って
いる。
☆ ええ。まさしく この自動稼働工場をだれが設計してつくったか?――と 
この質問の趣旨にふさわしいですね。


★ それでいて(写し、移されてある)ところの(意識としてのわたし)は、食べ
たものを消化することを考えずに、自分のなすべき仕事に集中できている、と
いうようなイメージでいます。
☆ 不随意筋といった存在のことも ふくまれましょうか。

お礼日時:2017/11/28 18:25

コイントスによって募金する現象は、年末の駅前などでよく見かけたものですが、いまは少なくなったような気がします。



ネットで募金したほうが、より簡単で無難だ、ということでしょうか。

ヴォルテールさんの本を読んだことがないのですが、どちらかといって(ある神派)なのでしょうか、ときどき(ない神派)なのでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

ヴォルテールは どうなんですかねぇ。

『カンディド』は 小説で 割り合い正統派らしいようですが あとの
評論などは 異端派だというのではないでしょうが 何だか 飄々とし
た感じを受けました。

思想がどうのこうのというより こういう――或る種の仕方で 孤高の
ような――人がいたかと思って 印象にのこる・・・といった感じなん
ですかねぇ。



つまり 信仰についていちいちどうだとも言わないような感じを いま
は 受けていますが。

神が 普遍神だって?――そりゃ そうだろう。
《有る神》派か 《無い神》派かって?――そういう問い方もおもしろ
いね。
・・・
とか何とか答えてくるような。


もう印象だけで言っているかも分かりません。

お礼日時:2017/12/01 20:28

☆ 人間が 意志を持ち 自然環境に人為のチカラをおよぼすことがある場


合ですか。

こちらのほうは、治水や灌漑のような、どこそこにあぜ道をつくりたいと思うのは、生活基盤の充実のためで、文化的な要請による(作られてある)のイメージでいます。


ルソーさんは、パリの街中にやって来て、市民らしくなりたかったが、上流階級に馴染めず(あるいはイジメられて、あるいはハブにされて)、やっぱり自然に還った生活を理想としよう、と思った人のように思っています。

『エミール』は自分の子供を育てず、孤児院に預けたことに対する懺悔の気持ちで書かれた教育物語ですね。去年読みました。

『告白』はどこかの書店で巡り合えるか出会いまちです。

『社会契約論』は高校の時に読んだはずですが、忘れてしまっています。『エミール』を読んだ後の感じとしては、ルソーさんはロックさんのような感じで、自然におおらかに、つよく育てるような感じに見えました。そんな自然派のひとが書く(社会契約)はどんなものだったかと少し気になりました。

まさか、社会市民にあこがれ挫折した(最後っ屁)のようなものだっただろうかと不安です。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 治水や灌漑のような、どこそこにあぜ道をつくりたいと思うのは、
生活基盤の充実のためで、文化的な要請による(作られてある)のイメ
ージでいます。
☆ そうですね。うけたわまりました。




★ ルソーさんは、パリの街中にやって来て、市民らしくなりたかっ
たが、上流階級に馴染めず(あるいはイジメられて、あるいはハブに
されて)、やっぱり自然に還った生活を理想としよう、と思った人の
ように思っています。
☆ スイスの時計職人の息子でしたか。

わたしは その反面で 社交界(学界)に入るなど思ったようにも振
る舞ったのではないかとも思えています。



★ 『エミール』は自分の子供を育てず、孤児院に預けたことに対す
る懺悔の気持ちで書かれた教育物語ですね。去年読みました。

★ 『告白』はどこかの書店で巡り合えるか出会いまちです。

★ 『社会契約論』は高校の時に読んだはずですが、忘れてしまって
います。『エミール』を読んだ後の感じとしては、ルソーさんはロッ
クさんのような感じで、自然におおらかに、つよく育てるような感じ
に見えました。そんな自然派のひとが書く(社会契約)はどんなものだ
ったかと少し気になりました。

★ まさか、社会市民にあこがれ挫折した(最後っ屁)のようなものだ
っただろうかと不安です。
☆ 極論に傾く向きがあって のちにフランス革命のやはり極端な論
理を振りかざす政治手法にも影響が見られるとされているようです。

人権宣言にみちびかれたというもう一方の筋もあるようです。

《同感 sympathie 》を言っていたようなのですが。

《市民宗教》というのも わかりづらいですね。《一般意志》への服
従というのも 現実的ではなかったように思われます。

お礼日時:2017/11/28 20:43

(成ってある)


(生まれてある)

(写し、移されてある)

(作られてある)

をいま、考えています。本論にそぐわないかもしれませんが書いてみます。


(写し、移されてある)はわたしたちの(意識)のつもりです。世界を写し、言葉を先人から注ぎ込まれ移されてある。


(成ってある)は、酸素と水素が合成されてある、
(生まれてある)は、組織のような、種のようなようなものが、継承されてあるようなもの。

(生まれてある)は、巧みに、あるいは合理的に(成ってある)を利用している。


(作られてある)は、文化も芸術も技術も作られてあるように思います。

もう少し考えると、伝統、思想、政治、も作られてあり、わたしたちに移されてある言葉どもはやはり(作られてある)ものでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ (写し、移されてある)はわたしたちの(意識)のつもりです。世界を写し、
言葉を先人から注ぎ込まれ移されてある。
☆ そういうことでしょうね。そして その意識や採り入れた内容について
良し悪しを判断することも そのあと伴なわれることが しばしばです。


★ (成ってある)は、酸素と水素が合成されてある、
☆ なるほど。これは 自然環界や自然の事物のようですね。


★ (生まれてある)は、組織のような、種のようなようなものが、継承され
てあるようなもの。
★ (生まれてある)は、巧みに、あるいは合理的に(成ってある)を利用して
いる。
☆ 人間が 意志を持ち 自然環境に人為のチカラをおよぼすことがある場
合ですか。



★ (作られてある)は、文化も芸術も技術も作られてあるように思います。
☆ 人為的な加工 これは 一般に広く《文化》と呼ぶと思います。

人工という行為が 言葉≒概念をとおしておこなわれるからです。概念化は
広く文化です。


その意味では 一般に《自然 と 文化》とが対立する概念だと思います。


J.-J.ルウソが どの著書でしたっけ その冒頭で言っていますね。神の手を
離れて人間の手にかかると みな よごれているとか何とか。


▲ 万物は造物主の手を離れるときは、すべてが善いものであるが、人間の
手にかかると、それらがみな例外なく悪いものになっていく(『エミール』)



★ もう少し考えると、伝統、思想、政治、も作られてあり、わたしたちに
移されてある言葉どもはやはり(作られてある)ものでしょうか。


☆ わたしは ルウソは 大げさだと思いますが。

お礼日時:2017/11/28 16:02

カントさんの哲学が、真理について、道徳について、創造(制作)について、と順を追ってマジメに説かれたものだとして、



真理探究者に道徳観念がないから無神論者だ、というレッテルを貼り付けているような感じがします。

真理探究者は、そんなことにはまったく目もむけず、まい進できるならそれでよいかもしれません。

ただ、真理探究者がそのような心持であるなら、自身の間違いをどこで気づくでしょうか。


自らを反省してわれに還ることのできる探究者だから、探究者として探求し続けられるとも思います。


また、ナイフの使い方は、さまざまな人たちから大事にされ、そのなかで学んだものだから、人を傷つける使い方をしないと思います。

道徳があって、真理探究も健全なのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 真理
☆ は 人間が想定するものです。《変わらざる真実》として。

あるいは:
《誰にとっても・つねに その心にかなっていると認められる主観真実
のみなもと》
として想定します。つまり 《普遍神》のことです。



★ 道徳
☆ ないし倫理規範というのは:
《社会における人間どうしの関係について真理とみなしたことを 仮り
に人間の言葉で表わしたもの》です。

《なんぢ ころすなかれ / 不殺生戒》。

ただし 規範は――人間の言葉で表わしたものであり 実際にはすべて
の主観真実の最大公約数のようなものですから―― 相対的な内容とな
っていて たとえば緊急避難・自己防衛といったような例外的な事態が
考えられる。



★ 反省
☆ も まったく主観の問題であることをまぬかれません。

おのが主観真実は 真理にもとづくものだという確信――つまり 主観
――としておこなわれます。

純粋理性も 真理であることはかなわず 真理を見つけたということに
は成らず つねに真理の影のような各自の主観真実です。



★ 創造(制作)について
☆ は よく分かりませんでした。理論の形成あるいは 芸術としての
創作のことでしょうか。



★ 人を傷つける
☆ というのは 身体については その身に傷がつくのですから 事実
認識がかなり精確にできます。

精神については 意志を踏みにじることが 傷害です。相手の意志行為
としての自己表現を無視することです。聞く耳をもたなかったり 取り
合わなかったり 話をずらしつづけたり。また 説明責任を放棄したり。

人の存在じたいを 踏みにじること――すなわち 先ほどの人殺し――
は 意志の主体としての存在をないがしろにすることですから やはり
意志の無視にあたります。心身ともへの傷つけ行為です。他殺も自殺も
同じくだと考えられます。

お礼日時:2017/11/27 19:34

一応、ロックさんの『統治二論』を手に取りながら、これは歯が立たないのかな、とも思います。



数年前に買って、後半が『市民政府論』で、前半にアダムが出てきます。聖書分からないし、という感じですが。

どうも、サー・ロバート・フィルマーなるひとが王権神授説を取っている、ロックさんはそれの反駁を行っているようです。

一応フィルマー氏は、この本が出る前に亡くなっているようですが、(死人にムチ打つ話ではなくて)宗教が政治に利用され引っ張り出されていることに警鐘を鳴らしているのでしょうか。

わたしとしては、宗教が大地で、政治が(ひとが集う)建物のようなイメージでいきたいのですが。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 宗教が大地で、政治が(ひとが集う)建物のようなイメージで
いきたいのですが。
☆ そのときの《宗教》とは 思想のことです。政党としてであ
れ むしろ思想のことなら 党の問題になります。いい意味でチ
カラを合わせて 社会の政策を実現させたいという徒党の問題で
す。

《大地》は 個人一人ひとりです。ひとりたる人間としては 信
仰の問題だと言えます。


つまり これらふたつの側面がありますが――思想を実現させた
いとして集まる団体と 個人の内面における信仰との二側面があ
りますが―― そこには 宗教組織は 要りません。宗教活動は
要りません。



★ 王権神授説
☆ これは 或る種の見方で 現人神といった思想の問題になり
ます。《神》を持ち出していますが 《絶対性》を言いたいわけ
なのだと思います。

王を信じなさいというまでに到れば 行き過ぎになると分かりま
す。(実際にあり得ましたが)。



★ 前半にアダムが出てきます。聖書分からないし、という感じ
ですが。
☆ アダムの話を 物語として・思想として・あるいはもっと精
確に言えば 共同自治論なる学問ないし思想のもんだいの中に 
アダムの話を例として用いる――というのであれば さほど問題
にはならない。

宗教組織として アダムの話を持ち出して来て 社会のあり方を
これこれこのようにしたい よってその神を信じよと説くとした
ら もちろん アウトです。

ブディズムの場合も 同じでしょう。

お礼日時:2017/11/24 21:51

おそらく、いまの時代では、自らの立場で自らを磨き、進める方向があるならば、その通りに歩んでよいものと思います。



大聖人御在世当時、それと、第二次大戦後の日本においては、速やかに法華経を持つ人材を求めていたのだと思います。


はやく人々を目覚めさせ、自らの仕事に生き抜き、平和の活動をできるようにしたのだと思います。


第二次大戦後の状況で、敗戦し焼け野原になった日本で、途方に暮れたり、くよくよしたりせず、人間の団体を作り、仕事に励み、はやく、良い生活を取り戻したかったのだと思います。


信心していなくても、おそらく、人びとは一心不乱でもとの生活を取り戻そうと努力している、とも思います。


ひとをきずつけるような、自由を奪うような仕方は避けたほうがよいと思います。そもそもは、その人に幸せになってもらいたい、がもとなのですが。

章安大師の言葉として「取捨宜しきを得て一向にすべからず」と聞いたことがあります。時や状況に応じて行うべきと考えたほうがよいでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ はやく人々を目覚めさせ、自らの仕事に生き抜き、平和の活動を
できるようにしたのだと思います。
☆ これは オシヘの普及の問題であり 徒党を組むという問題です。

信仰にもとづく人間性――われがわれであること――とは 基本とし
て別だと考えます。

そのときの《目覚めさせ》というのは そういう問題です。むしろ社
会政策の問題であるはずです。

★ 第二次大戦後の状況で、敗戦し焼け野原になった日本で、途方に
暮れたり、くよくよしたりせず、人間の団体を作り、仕事に励み、は
やく、良い生活を取り戻したかったのだと思います。
☆ これも 同じ問題です。福祉を主題とする政策です。政府がやら
ないとしてもです。

★ おそらく、いまの時代では、自らの立場で自らを磨き、進める方
向があるならば、その通りに歩んでよいものと思います。
☆ と言うだけでは 問題は 同じであり その取り組み方も 同じ
なままにとどまっています。

言わば生活向上運動といった社会活動であり ほんとうには人間の目
覚めにはかかわっていません。


★ 信心していなくても、おそらく、人びとは一心不乱でもとの生活
を取り戻そうと努力している、とも思います。
☆ いいえ。問題は 個人の信心が 集団において決定されるかのよ
うに はこばれているということ ここにあります。

特殊絶対性を――神を―― 人間が操作している・つまり操作できる
と思っているということ ここに人間性を冒涜する悪の根源がありま
す。

★ ひとをきずつけるような、自由を奪うような仕方は避けたほうが
よいと思います。そもそもは、その人に幸せになってもらいたい、が
もとなのですが。
☆ というような勧誘の仕方の問題ではない。と考えます。


★ 章安大師の言葉として「取捨宜しきを得て一向にすべからず」と
聞いたことがあります。時や状況に応じて行うべきと考えたほうがよ
いでしょうか。
☆ 情況にかなえば 特殊絶対性〔としての或る個人の神〕をほかの
人間に いだかせ得ると思うその思考が 人間性にさらかっている。
こう考えます。

言わば われらが神なる核の傘のもとに来たれという発想。これが
反人間性です。

お礼日時:2017/11/24 21:11

要は、法華経が釈尊 50 年の説法のうちで、釈尊の本意を表しているので、それをよく学んで、持つべきだ、もし、返りて諸経を読んでみると、各々の意味もより一層明確のようです。



ただ、わたしは南無妙法蓮華経と方便品、寿量品の一部しか読まないので、諸経のことは分かりません。

日蓮大聖人の御書に書いてある範囲でしか、他は分かりません。


日蓮大聖人は、正嘉の大地震のあと、岩本実相寺を訪ね、一切経を読み、確信を深めたそうですそのとき、日興上人と出会ったそうです。

その後、立正安国論の構想をされたそうです。

他宗に対して厳しいのは、天台大師、伝教大師の教判によれば、法華第一なので、そのように思えない僧侶は、なにか誤解しているか、勉強していないか、なにか訳があってそれを隠そうとしているので、一々破折しているのだと思います。

大聖人ご自身は、(四箇の格言とか言う、なにかものすごくひどい悪口をする僧侶がいるから、やっつけにいこう)と思う僧侶がいてやって来たら、一対一で対話して、納得してもらう、一緒に法華経を行じるように勧めているのだと思います。

(ただ、こんな大それたことは到底私にはできないので、知っていることを二三話すだけになっています。)



シュヴェーグラーの『西洋哲学史』の下巻は、デカルトからヘーゲルまでの人がずらりと並んでいます。ライプニッツの前まで読みました。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 他宗に対して厳しいのは、天台大師、伝教大師の教判によれば、
法華第一なので、そのように思えない僧侶は、なにか誤解している
か、勉強していないか、なにか訳があってそれを隠そうとしている
ので、一々破折しているのだと思います。
☆ 《排他性》には ふたつの種類があります。

念仏無間などの批判とそれによる他宗派の排除は オシヘの問題で
す。つまり 人知のおよぶ範囲のことですから 議論をすれば済む
ことです。


念仏無間と言ったときに――もうひとつの排他性は――もしその場
合に個人における信仰を 否定しているのだとすれば これは 信
教・良心の自由に反します。

つまり これは 相手に対して相手自身のことを非難しているとい
った問題ではないのです。排除する人間本人の人間性の問題です。

どういうことか?


個人がいだく神は 特殊な絶対性です。その人の主観内では 誰に
も否定されるようなことはあり得ない(絶対性)と同時に ほかの
人に対して信じなさい(つまり 無条件に無根拠にてわが心に受け
容れなさい)と説くとしたら それは アウトです。

絶対性が 人間どうしであたかもやり取りされて共有されるといっ
たことを 思っておりおこなっているからです。

それは 普遍神の絶対性からして あり得ないことです。(過去に
おいて 宗教は 結社の自由にもとづき認められて来ましたが わ
たしは あたらしい仮説として そのようにうったえます)。

そういう意味で 信教の自由が――ほとんど理屈や根拠なしに――
みとめられ保証されているのだと思います。


つまり ほかの人間の信仰を排除する――自分の特殊絶対性として
の神を 信じなさいと説く――なら それは 人間性への信頼を無
くす行為だと考えます。




★ シュヴェーグラーの『西洋哲学史』の下巻は、・・・
☆ そうですか。勤勉ですね。

お礼日時:2017/11/24 20:04

神がいると思っていようが、いないと思っていようが、人間はその能力と信念を持ってさえ、あたらしいヒトを作り出すことは不可能でしょう。

科学では人間は作れませんが、人間はヒトを作り出せます。でも、生物として産みだす事しかできません。自身の思うような子供を作ることが出来ないのに、あたらしいヒトなんて作れるはずも無いのです。もっともここで言うあたらしいヒトというのは、《義なきを義とす》でしたっけ?の宗教的精神を根本に置くこと、を言っているように思いました。いかんせん、絶対の精神の意の力に依ってこの世が有ると思えば、この世のアルケー的法則にがんじがらめの、生物である人間の力は微々たるもの。《帰趣》という大きな流れに抗うことはできません。神が人間にとって無視できない存在である所以だと思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ あたらしいヒトを作り出すことは不可能でしょう。
☆ この《A7》で言っていることは たぶん《いまに見ていろ》と
いうような将来への意気ごみ程度のものであるかも知れません。

ただし DNA の操作なり何なりのことを考えれば 負け犬の遠吠え
では済まされないぞとも言っているでしょうね。


★ もっともここで言うあたらしいヒトというのは、《義なきを義
とす》でしたっけ?の宗教的精神を根本に置くこと、を言っている
ように思いました。
☆ 回り回ってそうなりますかね。つまり そういう趣旨は 《Q》
の側が言おうとしているように思えますが 互いに呼応していると
ころがあるのかも分かりません。



★ いかんせん、絶対の精神の意の力に依ってこの世が有ると思え
ば、この世のアルケー的法則にがんじがらめの、生物である人間の
力は微々たるもの。《帰趣》という大きな流れに抗うことはできま
せん。神が人間にとって無視できない存在である所以だと思います。
☆ そうですか。自信がおありなんですね。

アルケー的経験法則を超えるかも知れない・・・ということにはな
らないのですね?

お礼日時:2017/11/24 19:45

国が治まるから人々が幸福であるのか、人々が幸福であるから国が治まるのか、それは問題ですか?

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この回答へのお礼

それは:
★ おさまる
☆ の実際の中身がどうであるかによると思います。

ご回答をありがとうございます。

それに 《幸福》も中身を問われましょう。



修身・斉家・治国・平天下という思想は ありました。



ミクロもマクロも どちらも大事でしょう。

そしてもし人間論からものごとを始めるとすると 修身のほうが
基本の主題であり 社会の基礎となる。ということかも分かりま
せん。

われに還る――ですね。一人ひとりがです。




ひとこと余計なことを言いますが 日蓮は 排他性が 思想とし
て致命的だと思います。

お礼日時:2017/11/24 15:08

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