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人間は

1.誠実に生きるべきか。
2.エゴイスティックに生きるべきか
3.なるが儘に生きるべきか

のどれかを選択しなければならないと思います。
あなたはどれを選びますか?そして、どれを実行していますか?
理由付きでお願いします。今、非常に悩んでいます。

A 回答 (7件)

ぼくも全てを使い分けて生きていると思いますが、どれか一つ選べと言われれば、3ですね。


よく使うのは3です。

それはたんに僕が、今の自分に満足しているからでしょう。
またいつか不満になれば1や2を選ぶでしょう。

理想は3です。
1や2を選んでも、結局は3に戻るためにそうするのです。
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この回答へのお礼

自分は、自己に満足していないので、3はどうもつまらなそうだと思ってしまいます。

自分には3を選択する人の心がよく分かりません。だから、多分、自分は2か1を選ぶと思います。
これから、またいろいろと考えてみます。

有り難うございました。

お礼日時:2004/10/11 20:03

4です。

ちょっと曖昧だったので補足を

自分は儒家的性善説も法家的性悪説も信奉していません。教育に左右されない生まれつき悪い人間もいると思います。しかし、そのような者は一般的良心を持ち合わした人間よりも割合が遙かに少ないと思うのです。こういう前提で話します。

善に生きることもエゴであり、嫌々何かをするのもエゴということになると、誕生と突発的な不可抗力以外はすべてエゴになってしまいます。それで、もしそうならば悩みも何もなくなってしまうわけですが(悩み自体がエゴですから)、実際はそうではないので、この質問があるのだと思うのです。

そこで、私が提案したのが、誠実に生きるというものなのです。例えば、荀子も人間の性が悪なので、努力によってそれを改善する、と言います。そして、5さんも「世間に好意的に受け入れられるもの」と仰ります。あなたも、世間の価値観が高尚なもの、と理解されています。

このことから考えて、隣人愛などではなく、平均的人類は何か大いなる力で善行に導かれているのだと思うのです。自己の利益の為に他人も利益を与える、自分が満足したいが為に他人に満足を与える。ならば、他人の利益・満足・幸福なしで、自己の利益・満足・幸福が得られるならば、それで良いのか? つまり、自分さえ幸福になれれば他人はどうなってもかまわないのか? 多分平均的人間は、もちろん自分が幸福になるべきであるが、同時に他人の幸福も望んでいるのです。それから、こう考えるのです。ある程度の他人の幸福も自分の願望である。すると、そこには至純の誠心があるのです。

と、またまたややこしくなってしまいましたが、誠実に生きることを、誠実に自分が支配されてしまうように捉えず、ただ、真理に近づこうと誠実に生きるのはどうでしょうか?
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この回答へのお礼

>同時に他人の幸福も望んでいる
それは分かるんですけどね。感覚的にですけど。
ただ、哲学というものは常に論理的でなければならないものだと自分は考えます。
感覚や直感は経験から後付けされたものだと、考えるんです。

>ある程度の他人の幸福も自分の願望である。すると、そこには至純の誠心があるのです。
うーん、そんなこと言われても……。
もう少し、考えてみます。

有り難うございました。

お礼日時:2004/10/11 19:59

私は2のエゴイスティックに生きます。


また,1や3を選択したとしても,結局は2を選択したことになると思います。
1の誠実に生きることを選んだ人は,誠実に生きることが自分にとって「良い」ということを,エゴイスティックに選択しているのです。エゴイスティックな選択の結果が,たまたま世間に好意的に受け入れられる価値と一致していただけです。
3も,そのように生きることを自分でエゴイスティックに判断した結果です。
例えば,強盗に襲われてお金を渡す場合でも,そうしなければ生命の危険が危ないと判断して,自分の判断でお金を渡すのであり,エゴイスティックだと思います。
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この回答へのお礼

非常に興味深い回答、有り難うございます。

1も3も、すべては2に通ずってところでしょうか。

エゴイスティックの中で、世間の価値観が高尚なものが「誠実に生きる」と言われているだけだという考え方ですね。うん、非常に興味深い。




強盗に襲われてお金を渡す例を考えると、やはり一番大事なのは自分の生命だって感じがしますね^^;

お礼日時:2004/10/10 13:47

誠実に生きるべきでしょう。



人間は多かれ少なかれ良心を持っています。誠実に生きるべきか悩むあなたは、間違いなくもっていると思います。

時にはお節介になるほど、人間は無意識に他人の為に何かをします。他人に善行を施すのは、自分の利益のため、とか、自己満足、だとかそういう風に解釈する人が多いです。なぜ、他人の為に何かをするのか? と考えたとき、確かにありそうな理由ではあります。

しかし、現実問題、道一つ教えるにしろ、「これこれ、こうやったら、回り回って、こういう利益が得られるぞ」と考えてから教える人はいないと思います。無意識に、その人のために、なるべく丁寧に教えているはずです。

私はこの、他人に善を施す理由を、人間が良心を持ち得ているからだと考えます。

ですが、この良心の正体をはっきりつかめてはいません。故に、この正体に近づくためにも、わざわざそれを否定した考え方や生き方をするのではなく、分かりやすく大げさに言えば、人類愛を主張し、人格者たるべく行動しようと心がけています。というのも、人間、善は持っていても、後付の小賢しい知恵のために、不善に陥る場合があるからです。なるが儘に生きる、というのも不善に陥る可能性があります。
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この回答へのお礼

詳細な回答、有り難うございます。

kumotyannさんは仏蘭西のコントが言ったaltruisme、基督教で言う隣人愛の精神は人間の良心から来ている。そして、その良心に従って生きればよいというようなおっしゃっているのだと思います。

しかし、他人のためにすること=善行と考えて良いのだろうか、とも考えてしまいます。
荀子の性悪説を取れば、他人のためにではなく自分のためにだとも考えられるのではないか?
そこらへんの回答が曖昧だと思いました。不善と善の区別はなかなか、軽率に扱ってはいけないと思います。そのもとになる良心の正体が分からないなら尚更です。


非常に参考になりました。有り難うございます。

お礼日時:2004/10/10 13:39

私の場合。


自分のやりたいように生きるという選択をします。
けれども、これは
エゴイスティックに生きると似て非なる生き方です。
何でも自分の思う(望む)ような生き方ができる人って
まずいないと思うんです。
自分勝手に好きなように生きることには色々な制約がありますから。

エゴイスティックに生きるというのは、
自分の利益最優先で生きることとよく似ていると思うのです。しかし、
自分の利益を考えるためには、他人の理解・共感を得ないといけません。
自分の利益だけを考え、自分の思ったとおりに生きるのは、
自分の周りにたくさんの敵を作ることにもつながる危険性もあります。
周りに敵をたくさん作ることになれば、
やはり自分の思ったとおり好き勝手な生き方はできません。
矛盾しているように思われるかもしれませんが、
エゴイスティックに生きるというのは、
他人のエゴも考えつつ、自分のエゴとすり合わせて生きるということです。
そのためには、誠実さが求められることもあるでしょう。
なるがままになるしかないときもあるでしょう。
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この回答へのお礼

なるほど。有り難うございます。

利己主義に生きるためには、ある程度、他人に誠実に生きなければならないと言うことですね(ちょっと違うかな)。

自分の思ったとおりの好き勝手な生き方は、それを選んだ瞬間、自分の周りに敵を作ることになり、それが出来なくなるというようなことを言っているのだと思います(多分)。

大変、参考になりました。

お礼日時:2004/10/10 13:23

私の場合はこの三つは矛盾しません。


なすがままに生じる自分のエゴに誠実に従っています。
ただ、自分のエゴを疑うことはあるから、「なすがまま」はある程度の限定つきです。疑った結果、それでよしとする理由については手放しなので、その点で「なすがまま」です。
私は、「自分にとって大切なものを優先する」というのがエゴだと思うので、
自己の中でエゴとエゴが対立することの方が問題だと思います。
命は大切と思いながら、肉を頬張る自分に、罪を感じないかと言えば嘘になります。
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私は1,2,3の全てを駆使して生きています。


場面,状況によって使い分けをしているという事です。
例えば,仕事に対しては誠実に生きていると思っていますし,食事は食べたい物を食べたいだけ食べているからエゴイスティックだし,恋愛についてはなるが儘に生きてます。

どれか一つだけっていうのは生きるのに難しくないですか…
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