「ペテルギウス主義」というのと、「急進的改革派」というものについて教えてください。テストに使うのですが、資料が少なくて、見つからないのです。簡単な説明でもいいので、よろしくおねがいします。

A 回答 (4件)

回答を締め切られていないという事を、回答をまだ求められている事だと勝手に解釈して…、



ペラギウス派
ペラギウス(5世紀初め頃に活動した、おそらくブリテン島生まれの修道士)に代表される異端。聖アウグスティヌスの「神の恩寵」「予定説」に反対する。5世紀はじめから、6世紀にかけて、ブリテン島、アイルランド、現在のフランスでさかん。
アウグスティヌスが、人間は生まれながらに罪深く、救いの為には神の恩寵にすがらねばならないと考えるのに対し、ペラギウスは、人間には、生まれつき悪を拒絶し神を求める能力があると考え、原罪の考え方を取らない。(従って、子供は罪を負わずに生まれるので、洗礼は、再生の為の秘蹟ではなくなる。)

急進的改革派
ダメ元で、「Radical reform」と「Christ」で検索してみたら、下のURLが見つかりました。「再洗礼派」のことを、「Radical Reformer」とも呼ぶのだそうです。
「再洗礼派」(AnabaptistあるいはRebaptist)であれば、資料も見つけやすいでしょうから、ごく簡単に済ますと、再洗礼派は、自覚のない幼児洗礼を否定し、成人になってからの再洗礼を主張した宗派です。宗教改革の頃には、ルターやカルヴァンの「プロテスタント」よりも更に急進的で、社会秩序をすべて破壊しようとするものとして、カトリック、プロテスタント双方から攻撃を受けました。特に、16世紀前半にドイツのMunster(正しくはuはウムラウト)で、この宗派が神政政治をごく短期間にひいた時は、財産の共有を主張し、一夫多妻を実行したとの事です。

参考URL:http://www.pbs.org/faithandreason/theogloss/radr …
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この回答へのお礼

どうもありがとうございました!
よくわかりました。学校のテストに必要だったんです。
ほんとに詳しくありがとうございました。

お礼日時:2001/07/27 09:55

念の為ですが、ペラギウス派(4世紀頃のイギリスの僧の立てた異端)じゃないですよね?


万が一、ペラギウス派(=Pelagius)で、かつまだ回答が必要なのであれば、お知らせ下さい。
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この回答へのお礼

返答ありがとうございました。
ペテルギウス派のことなんですが、ペラギウス派の間違いでした…。
ほんとうにごめんなさい。ありがとうございました。

お礼日時:2001/07/25 22:08

下のは「ペルギウス派」でしたね。

失敗。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
友達に聞いて初めて気が付いたのですが、私も聞き間違えていて、
ペテルギウスではなくてペルギウスでした。(苦笑)
どうりでペテルギウスをいくら調べても「星の名前」としか出てこないわけです…。(涙)
ほんとにありがとうございました。

お礼日時:2001/07/20 22:27

キリスト教の話ですか? 何やら誰も答えませんが、何の資料も手元にないので、簡単に。


確かですが、ぺ(ベ)テルギウス派といえば、「人間が最後の審判で救済されるためには、人間の側の努力が必要だ」と言った異端派ではなかったでしょうか。カトリックの態度は曖昧ですが、プロテスタントの一派はその反対の立場を徹底して「ある人間が救われるか否かは、神によって事前に決定されている」という運命論を展開しています。
急進的改革派というのは俄かにはわかりません。

もっと、詳しく知りたいのでしたら、その旨をお書きください。
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同様に思えるのですが。

Aベストアンサー

専門家ではないので、学術的に完全に誤りがないかどうかは別にして、便宜的な理解だとこうなると思います。

>一人または少数の権力者が国土と人民を全面的に支配している点では同様に思えるのですが。

この点で共通点があるように見えますが、「人民」が政治に関わる度合いに相違点があると理解してよいのではないかと思います。

いわゆる古代・中世の専制国家・専制君主は、全人民を直接支配していたというよりは、間接支配に甘んじていました。地方の実力者が大きな力を握っていたため、彼らの地元支配を認める代わりに自分の君主としての立場を承認させていたというのが実態です。

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専門家ではないので、学術的に完全に誤りがないかどうかは別にして、便宜的な理解だとこうなると思います。

>一人または少数の権力者が国土と人民を全面的に支配している点では同様に思えるのですが。

この点で共通点があるように見えますが、「人民」が政治に関わる度合いに相違点があると理解してよいのではないかと思います。

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まず、二世上人の真仏は国香流平氏の椎尾氏の出自ですが、親鸞の高弟ともいうべき存在であり、親鸞の教えを広めるに功績のあった人物です。四世専空も同族の国香流平氏の大内氏の出自です。この両氏は親鸞の後援者でもあったので、ある意味後継となるのも当然ともいえます。さてそれ以降、四世専空の子息が五世定専、六世空仏として続きます。七世順証は四・五世の従兄弟。七世順証からは親から子という直系相続で十一世応真まで続きます。この内、十世真慧は、青年時代本願寺の蓮如と仲が良かったという話が残っています。
十二世堯慧は公卿の飛鳥井家の出自で、足利義晴の養子となった後に入室します。この血統が十三世堯真、十四世堯秀、十五世堯朝と直系相続します。
十五世堯朝の自刃で、公卿の花山院家から十六世堯円が入室し、十七世円猷が伏見宮家から、十八世円遵が有栖川宮家から、十九世円祥は同じく有栖川宮家から入室しますが、本当は摂関家の鷹司家の生まれです。二十世の円禧は十九世の子息ですが、一度有栖川宮家に養子に出ます。二十一世は摂関家の近衛家出身ですが、有栖川宮家に養子に出た後入室します。二十二世は二十一世の甥で近衛家出身で、そのまま入室します。
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「太閤検地によって、越前・若狭の中世的寺社領はいったん没収されたが、有力寺社の屋敷地と若干の寺社領が検地の対象から除外されて免租地となった。このような土地を除地といい、寺社の特権として公認された。慶長三年段階の越前で屋敷地除地の特権を得たのは足羽郡の専照寺・寿岳院・心月寺、坂井郡の性海寺・滝谷寺、丹生郡の劒社・大谷寺・天王社、今立郡の長泉寺(西専坊)・水落神明社、大野郡の恵光寺、敦賀郡の西福寺などであった。また、北庄諸寺庵の屋敷地も検地のうえ地子免除とされた。その他の若干の寺院も徐々にではあるが、境内地・屋敷地除地の特権を獲得していった。」
一旦没収に近い処置をして、後に寄進の形で一部が還付されますが、それも以前とは比べようもないほどの狭い領地であり、寺院・僧侶の維持ができないところも多く、僧兵も最終的に姿を消す原因になったとされています。この様な寺社領への検地の対応は福井県(旧越前・若狭国)だけではなく、全国的な傾向です。

http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T3/T3-5-01-01-01-04.htm

以上、参考まで。

こんにちは。NO5で回答したfumkumです。お礼・補足ありがとうございます。もっと早く補足に回答すればよかったのですが、仕事の都合で遅くなりました。ごめんなさい。やっつけですが、わかる範囲で。

本願寺は血脈相承、専修寺は法灯相承と言われますが、専修寺も血統が何度か変わっていますが、血縁相続も多くなっています。
まず、二世上人の真仏は国香流平氏の椎尾氏の出自ですが、親鸞の高弟ともいうべき存在であり、親鸞の教えを広めるに功績のあった人物です。四世専空も同族の国香流平氏の大内氏の出自...続きを読む


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