おすすめのモーニング・朝食メニューを教えて!

岐阜市で地域に関わってる方から
「光秀が信長を撃たなければ岐阜はもっと栄えていたからと嫌う人が多い」とうかがいました。
が、信長は岐阜城にいたのは一時的にという意思しかなく、安土城も作りましたし
ゆくゆくは大阪にも城を作る構想もありました。

結局生きていても海路もない岐阜にいつづけてそこが栄えたとはあまり思えないのですが…。

A 回答 (3件)

しかし光秀が天下を取っていれば、家老は斉藤利三で。


明智の出かもしれない光秀と、たぶん美濃衆の斉藤利光と。

よくは知りません、地図を見ただけですが、岐阜で、水害の危険性が無い地域ってどれだけなんですか?
面積極小ということは。
水害の可能性も考えて、当時なら田んぼにしかできない平地が延々と広がってませんか。
それでも、武田信玄が河川改修に成功したように、土木技術によって、漸く低平地に人が住めるようになり、戦国末期から、江戸、大坂、広島、岡山、仙台、等の低平地大都市時代を迎えるのでしょう。
それ以前は、台地、山地、内陸地時代だったのでは。京都、奈良、とか。
名古屋が東京だとすれば、岐阜は埼玉でしょう。だもんで、そんなもんでは、と。
名古屋から岐阜までビッシリ高層マンション団地群になるほどの人口密度では無いでしょうし。
最終消費地には中々なれませんよね。

また、海運という点で、京都(大阪)に対して、名古屋は、海運だと紀伊半島を延々と回っていかなければならないので不利だったかもしれません。
ところが、江戸という大消費地が成立してみると、話が変わったのかもしれません。
しかも、船も良くなって、概ね遠浅の静岡中西部を通過できるようになった(ことが多くなった)のでしょう。
すると、仰るように岐阜より名古屋が自然なのかもしれません。
それでも東海道は利用しにくかったんで、中山道もそれなりのルートだったろうと思いますが。

なお、信長は、岐阜城までに、城を転々としていなかったでしょうか。
名古屋、清洲、小牧山、岐阜、安土。岐阜に比較的長く居たのはそうなんですが、それだけでは。武田もほぼほぼ片付きましたし。
    • good
    • 0

それは、この数十年の間に岐阜市が衰退した原因のスケープゴートを光秀に求めているだけでしょう。

完全に屁理屈です。

そもそもの話、栄えていた時代を全然知らなければ「もっと栄えていたのに」という感情も生まれてこないのが普通です。

この数十年、岐阜市は不運でした。東海道新幹線のルートから外れてしまい、街の賑わいを支えてきた繊維問屋街もすっかり衰退した、商業拠点としての機能も郊外のショッピングモールや名古屋との競争に負けてしまいました。もっとも岐阜市自体も路面電車廃止して公共交通より自家用車の街作りしてるから世話ないですが。



ところで、岐阜「市」はそんな意識かもしれませんが、実は光秀も岐阜県の人です。今は恵那市と合併していますが明智町という地域が明智氏発祥の地です。それから可児市の、やはり明智という駅がある地域に移り、そこで光秀が生まれたとされています。

このあたりの人が光秀びいきかどうかは知りませんが、少なくとも岐阜市に対してはあまりシンパシー持ってないはずです。岐阜市より名古屋と経済的結びつきが強いからです。
    • good
    • 0

信長が岐阜城(旧稲葉山城)にいたのは、1567年8月15日から安土城へ移転する1576年2月23日までの約10年間です。


信長の視野は、狭い日本を飛び越えて世界に向いていました。
岐阜市民は、中国に由来する「岐阜」というありがたい名前をもらったことに感謝すべきで、
信長が、ど田舎の岐阜に止まるような理由など皆無です。
岐阜市民は、もう少し歴史を勉強して、正しいふるさとの来し方に思いを寄せるべきです。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!


おすすめ情報