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古代中国人は北東を恐れていたそうです。

中国人が恐れた悪魔のような種族の北東人って日本人のことだったのですか?


中国最大の国であった清王朝ってもうすでに首都は中国の北東側でそのさらに北東と言えば日本海ですよね?

中国人が恐れる丑寅の方角には何があったのですか?


今も中国人は丑寅の方角を恐れているのですか?

その丑寅は清王国のことだった?

A 回答 (8件)

丑寅は鬼門。


成長の段階を大まかに四つに分けて四神に対応させ、
さらにその四つを成長の段階と方位のイメージということで対応させて
1、2、3の時期に気をつけなければならないことがある
という戒めみたいなものだと思います。

1:玄武 北
2:白虎 西
3:青龍 東
4:朱雀 南
具体的に言えば
まだ未熟な時期の立場が弱い人に対して
育成が機能しなければ
その人は自殺に追い込まれてしまう。
ということなんだろうと個人的に考えています。

ということで
多分具体的な現実の方角とは関係ないと理解していいと思います。
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日本なんて小さな島国で中国は恐れてなんていないよ。

自意識過剰過ぎw
モンゴル人やらフン族やらの騎馬民族を怖がってただけ。
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仮にその話が本当だとして、古代中国人、でしょ?



日本の邪馬台国は古くても紀元100年以降です。
中国で王朝ができたのは紀元前1000年代です。
その時代の日本に誰が住んでいたのか?
縄文人がクリを拾って命を繋いでいたかもしれませんがはっきりした記録がありません。

すでに武器を持ち国を形成していた古代中国人が、土器を焼きクリを拾っている縄文人を恐れる?
たしかに、海の向こうの島に住む文字も持たない民族を、得体の知れないものとして恐れることはあり得るかもしれません。
でも、この時代に大陸と日本の間に交流があったという証拠はまだ発見されていません。
古代中国人が北東の海の向こうに日本という島があると気づいていたかどうかさえ疑問です。

ともかく紀元前の中国と日本の文化の差は、象とアリほどにも違います。
同列に並べて「恐れた」とかいうレベルではないです。
古代に「海を隔てる」ということは、現代で言えば地球と月ほどの距離感だっただろうと思います。

それと北東を鬼門とするのは、日本で発達した陰陽道です。
原型は中国から伝わったものですが、中国の風水に鬼門はありません。
古代中国人が北東を恐れた、という根拠がありません。
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> 古代中国人は北東を恐れていたそうです。



たぶん、そのような傾向はなかったと思います。

> 中国人が恐れた悪魔のような種族の北東人

中国人って、どの時代、どのあたりの、どういう人のことでしょうか。
種族って、、、、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%A7%8B …
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%83%A1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F_(%E4%B8% …
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E#%E5%8C%9 …

モンゴルと倭寇を併称して「北虜南倭」と呼ぶ  

「方位や方向を表す言葉として北東、丑寅」が恐怖や恐れを表すものとして、中国の広範囲で使われたという事実はないと思います。 
丑寅を鬼門のように考えて広がったのは日本の内部事情でしかないでしょう。その日本でも、100kmのような遠方の北東を恐れるというようなことはまずなかったでしょう。たかだか10メートル、400m、数キロの範囲でしか配慮しなっかたと思われます。

地理や方位でみれば、明を攻めてくる後金が来る場所は山海関と呼ばれる場所で、現在で言えば河北・遼寧省境が渤海に会する位置=華北と東北の境界になりますが、明の人たちは、山海関より西側を"関内"、東側を"関東"と呼んでいて、北東・東北・丑寅という認識はしてないようです。

中国といっても広いし、歴史は長いし、地方ごとに張り合ったり、けなしたりもしていたので単純には言えませんが、あえて単純に言えば、ヨーロッパやアメリカのような多民族集住分居ということが多くて、《悪魔のような種族》と思っているようなことはないと思います。 もちろん、差別というのはどこでもきつく存在しているので、被差別にされている民族などはつらいでしょう。 日本でも、地方差というかある地域を馬鹿にするのはごくポピュラーですが、それはヨーロッパの一国の内部でも地方を馬鹿にする、アメリカで同じ州内でも地域で馬鹿にするのと似たようなことは起きます。 https://zuuonline.com/archives/104773

そもそも、方向・方角というのは、2カ所の双方で反対方向になるので、そのほかの方向でも、西に行くのがイヤならば南西に行って北西に行くという方違えの手法を使えたり、押さえを使ったり、好きにやれます。 二条城から京都御所、比叡山、永平寺は、北東方向になります。 薩摩や土佐から京都、江戸は北東に近いともいえます。 
日本でさえも方位で恐れるというようなことはほとんどないです。 日本でもない中国で方位で恐れるなどということはないと思います。
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>中国人が恐れた悪魔のような種族の北東人


満州、東北に住む朝鮮人です。

古代中国人は漢民族で農耕。東夷、北荻、西戎、南蛮が脅威でした。特に遊牧民の特質は略奪狂暴でした。丑寅に住んでいたのは朝鮮人。清王朝を作ったのは朝鮮系満州族。
漢人が恐れたのは遊牧民族です。北荻は狩猟採集民族。彼らは略奪文化なので越境し略奪するのが常習でした。定住農耕の漢民族はその対策として万里の長城を築き境界線としたのです。長城は砦でなく境界線なのです。
今の中国は周辺野蛮民族が支配する地域となりました。漢民族は消えてしまったのです。遊牧民が漢民族の文明を略奪し支配者として納まっています。習近平はどうみても漢人ではありません。モンゴル人ですね。
日本人が愛している中国は漢民族の文化です。古典の中にしかありません。

漢民族の王朝
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B4%C1̱²%B2%A6ī
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古代中国人が恐れていた北方民族は匈奴(きょうど)です。



匈奴は、BC.4世紀頃から5世紀にかけて中央ユーラシアに存在した遊牧民族および、
それが中核になって興した遊牧国家(紀元前209年 - 93年)です。

たびたび中国に攻め入って来るので中国人は恐れて居ました。
彼らの子孫はのちに、チンギス・ハンに代表されるモンゴル帝国へと発展して行きます。

中国では、昔から北東からの異民族の侵略に悩まされていたようで、
万里の長城などを作りました。
北東の方角、丑寅というわけです。

首都から見ると日本海、ではないです。
中国全土から見て北東です。

ちなみに、日本も中国に習って都を作って居ますので、丑寅の方角を鬼門と言って、縁起の悪い方角であるとしてます。
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その方角には朝鮮もあればモンゴルもあります。


中国は昔から中華民族、朝鮮民族、モンゴル民族の3つが入れ替わって支配していましたから
中華民族にとっては朝鮮、モンゴルが脅威だったんです。
万里の長城はモンゴル族と朝鮮族の侵入を防ぐためのものです。
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万里の長城は防衛線ですが、少なくとも日本から守るという発想はないですね。


https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11178192.html
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