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キリスト教なら、聖書や慈善事業団体への寄付行為が推奨されますよね?
仏教は、どうでしょうか?

欧米の富裕層はなぜ社会貢献をするのか?「什一献金」の考え方
https://financialjournal.ana.co.jp/economy/detai …

A 回答 (3件)

キリスト教なら、聖書や慈善事業団体への


寄付行為が推奨されますよね?
 ↑
これは、中世から続く慣習です。

金貸しで大儲けした、メディチ家は
そのままでは天国に行けないぞ、と
脅され、儲けたお金の一部を、文化、
芸術活動に供出しました。

これが、ルネッサンスの原動力に
なったわけです。




仏教は、どうでしょうか?
 ↑
日本の仏教は葬式産業株式会社です。

バカ高い戒名料やお布施はとりますが、
寄付などしません。

これは、江戸時代の檀家制度により
競争原理が働かなくなり、堕落したからだ
と言われています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2020/08/20 22:53

> キリスト教なら、聖書や慈善事業団体への寄付行為が推奨されますよね?



「聖書への寄付行為が推奨され」ということがあるとは思いません。

> 仏教は、どうでしょうか?

質問が不明なのですが、寄付行為=布施と考え、「仏教では布施をどう考えているのか」ということならば、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%83%E6%96%BD
伝統的には、次のような種類が挙げられている。
財施とは、金銭や衣服食料などの財を施すこと。
法施とは、仏の教えを説くこと。
無畏施とは、災難などに遭っている者を慰めてその恐怖心を除くこと。
その他に、雑宝蔵経に説かれる財物を損なわない七つの布施として、次の行いが説かれる。。
眼施:好ましい眼差しで見る。
和顔施(和顔悦色施):笑顔を見せること。
言辞施:粗暴でない、柔らかい言葉遣いをすること。
身施:立って迎えて礼拝する。身体奉仕。
心施:和と善の心で、深い供養を行うこと。相手に共振できる柔らかな心。
床座施:座る場所を譲ること
房舍施:家屋の中で自由に、行・来・座・臥を得させること。宿を提供すること。
https://www.nichiren.or.jp/glossary/id55/

https://core.ac.uk/download/pdf/268068883.pdf
この寺院の事業のスタートは廃棄物リサイクル業である.現在は,リサイクル業,果樹園,花卉,木工家具修理製造を行い,高齢者,失業者,貧困者などに就業,自立支援を行っている.寺院の周辺の工場も含めて600-700人が働いているという.寺院の敷地内には宿舎があり,若干の生活費(食費)が必要である.高齢者には身寄りのない人が多いが,家族を持つ人もいる.基本的に自分の身の回りのことができる人が対象となっており,要介護の方は福祉施設に入ることになる.敷地内には孤児を対象にした施設や尼僧の宿舎も設けられている.この施設で育って現在は財団のスタッフになっている者もいる.宿舎は短期的滞在にも使用することができ,ボランティアなども宿泊できる.長期に滞在する尼僧の部屋はそれぞれシャワールームがあり,エアコンもある.案内をしてくれた尼僧はパヨーム師を深く尊敬し,子供が独立した後から,年に3か月程度の滞在を18年間ほど続けている.
日々の托鉢への積徳により寺院の僧の生活が支えられている一方,寺は地域の人々の生活とさまざまな形で関わっている.村の青年は,数か月の修行僧としての出家を村の寺で過ごすことが多い.冠婚葬祭は村の寺で営まれ,新築祝い,得度式など村落の人々の生活儀式には僧が頻繁に出向く.毎週,寺では講話の会が開かれており女性(特に高齢の)が集う.さまざまな悩み事を相談する場でもある.村にある小学校の教員と共に村での「知識人」である僧は,村での医療,教育,福祉も担ってきた.薬草の知識のある僧は伝統医療を行い,貧困層の子どもには見習い僧として寺で基礎教育を受ける者もいた.さまざまな障害のある子どもの居場所になっていることも観察された.寺院には村落の公共空間としての役割もある.村の集会には寺院の施設が使用され,定期市,お祭り,子供たちの遊び場やサッカー場,米の乾燥場などに使用される空間でもある.村の歴史をみると,数家族の開拓移住によってできた村には最初,寺はなく,現在ある本堂,講堂,布薩堂,火葬場,庫裏等の建物は,村民等からの寄進や労働によって,少しずつ作られていった.1970年代~2000年代にタイ農村でフィールド調査を行った研究者にとって,村の生活の中心にあり,地域と密接にかかわる寺院と僧はある意味自明のこととしてある

https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstre …

「什一献金」は、「什一税」を利用したものでしょう。 強制徴収から、義務に意識変革させたということなのではないかと思います。 そして義務が、また徴税権と絡んだママだと思えます。
https://call-of-history.com/archives/20742

什一の義務とか徴税権のような発想を、仏教系では、インドでも、南伝系仏教でも、北伝系仏教でも、日本仏教や密教系でも、言えなかったのだと思います。( 日本の仏教や密教系は、インド仏教でも、南伝系仏教でも、北伝系仏教でもないものだと、私は思っています )
布施は、した方が良い、すべきだという発想を表向きには言えても、量的に(1/10は)(一人年間○○)のような強制は、教えとしてはあるまじきことと思われたのだろうと思います。

一応仏教系ならば建前として次のことを無視はできないのでしょう。
http://www1.clovernet.ne.jp/ponnpe/syaka45.html
釈迦が弟子たちを引き連れてガランダの屋敷を訪れた。ガランダの一族や使用人の中に入ってカンダタも説法を聞いた。釈迦はこの日、慈悲について説法した。
「慈悲とは何であるか。慈悲こそ仏のもっとも大事な心である。仏がお前達の心の中におられる以上、お前達は慈悲の心を忘れてはならない」と、ガランダの家で一番身分の低いスードラを指差して言った「お前は慈悲の心で生きているか」
スードラは釈迦の前で声を震わせて言った「とんでもありません。私のような貧しいスードラの身分でどうして慈悲ができましょう。お坊様に布施する金も食べ物もありません。私達家族が餓えをしのぐのに精一杯でございます」
釈迦は言った「慈悲に金持ちも貧乏人もいない」
カンダタは驚いて釈迦に訊いた「どうして、貧しいスードラに布施が出来ましょう」
釈迦はカンダタに言った「慈悲と布施は物質ではない。その心である。《もし、金持ちが貧乏な人達に恵んでやるという心を持てば、もはやそれはいくら大金であろうと慈悲でも布施でもない》 もし、貧乏な人がもっと貧しい人に一粒の米を与えれば、それは慈悲であり、布施である。《もし、与える米も無ければ、共に嘆き悲しむことが慈悲であり、布施である》 このように考えれば、スードラがどうして布施をする事が出来ないであろう」
カンダタは驚いた。今までカンダタがコーサラ国のシラバスティーで孤児院を作り、貧しい人に施しをしていた。そして、その布施がカンダタの心の中で、全く恵んでやるという心が無かった訳では無かった。
自分の心の中を見ぬかれたと、カンダタは思うと釈迦の顔を凝視する事は出来なかった。
釈迦の説法を聞いたカンダタは感激した「明日、貴方のおられる竹林精舎に訪れて良いでしょうか」
釈迦「私の精舎は何時、誰でも訪れてかまいません」
翌日、カンダタは竹林精舎を訪れた。竹林精舎は決して豪華なものでは無かった。いや、むしろ粗末な物であったと言えよう。しかし、一歩その精舎に足を踏み入れれば誰もがその荘厳な雰囲気に圧倒された。
カンダタが竹林精舎で釈迦を訪ねると、釈迦は大きな木の下で瞑想にふけっていた。
釈迦は瞑想から覚めた「お前は昨日会ったカンダタではないか」
カンダタ「私は昨日お釈迦様にお会いしました。私の国はコーサラ国あり、近いうちにこのラージャクリハを立ち去らねばなりません。是非もう一度お釈迦様の教えを乞いたいと思って参りました」
釈迦「お前は、日々生きることを苦と感じたことはないか。」
カンダタは釈迦の言葉に驚いた。毎日貧しい人達に施しを与えているのは、自分が苦しんでいたからである。
カンダタ「私はどうして生まれてきたのでしょう。その事が毎日頭を離れず、夜も眠られぬ日々を過ごしています」
釈迦「それはお前が五感で感じたのが総てであると思っているからだ。商売がうまく行かなかったらどうしたら良いか。その事が頭を離れないのであろう」
カンダタ「どうしてそのような事がお解りなのでしょうか」
釈迦「私は人間は総て平等に仏の子であると考えている。しかし、バラモンの教えでは商人は下級の仕事となっている。どうして、金を持った商人が低い身分でいなければならないのか、お前に解るか」
カンダタ「お釈迦様は私達商人も、バラモンやクシャトリアと同じ人間であると教えられました。でも、どうしてバラモン教では私達が低い身分であるのでしょうか」
釈迦「商人の身分が低いのではない。しかし、商人はその仕事上、物と金に執着することが多い。農民は一生懸命働いてあとは天候を祈るばかりである。お前達商人は、いくら儲かった、いくら損した、その事に日夜没頭するからである。すなわち五感の影響を最も受けるのが商人であるからである」
カンダタ「では、私はどうすれば良いのでしょうか。私が今商売を止めると、私の使用人は路頭に迷います。私は今の商売を続けるしかありません」
釈迦は「お前は今の商売を続けなければならない。もし、商人がいなくなれば、米や麦そして衣服をどのようにしてこのラージャクリハの人々が手に入れることができようか。商人がいるからこそ、ラージャクリハの人々は生きて行けるのだ。問題は、米の余ったところから米の足りないところへ、衣類の余ったところから衣類の足りないところへ、人々の為に仕事をしているという心である。この心さえしっかり持てば、きっと商人も極楽に行けるであろう。そして、商売で儲けた金をお前の使用人に充分分け与え、更に残った金で貧しい人達を助ければ、これ以上の慈悲はない」
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2020/08/20 22:52

昔は、貴族や武士クラスの人達が仏教を支持しましたから、相当な資金援助はしたはずです。


寺の建立とかもありますしね。

それが、今は政教分離ですから、政府が直接援助することはできません。
基本は、個人のお布施です。

ただまあ、宗教団体が政党を作って、政党助成金を得てますから、税金がその宗教団体にも使われている、ということですね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2020/08/20 01:56

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