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このサイトのある質問を見ていたら、「仏教の戒と律は違う」という回答がありまして、「戒」は個人的なもので罰則がなくて「律」は集団的なもので罰則がある、ということでした。戒はなんで罰則がないんでしょうか。言葉のイメージかもしれませんが、戒というのは罰がともなうような気がするんですが。それから集団で守る律の内容というのはどういうものがありますか。具体例を教えてもらいたいと思って質問させてもらいます。

A 回答 (7件)

> もう少し教えてほしいんですが、そうすると「殺生してはいけない」という決まりは「戒」なんでしょうか?



殺生してはいけないというのは殺生戒といいます
この場合殺生戒を破ったと同時に律にも違反することになります

在家であれば国法により罰せられます(当然ですね)。出家であれば僧団には国法が適用されません。ですからやり放題にならないように国法より厳しい決まり(=律)がありました。殺人は僧団追放の罪になります、

悟りを求める修行者にとっては僧団追放は非常に辛い罰則です、と同時に国法が適用され犯罪者として捕まり罰せられます

ついでにいえば、インドという地域柄、殺生戒は動植物も対象でした。ですからワシントンのように桜の木を切ったり、ブラッド・ピットのチベットの映画のようにミミズを殺せば殺生戒の破戒になります。破戒した場合は反省会で懺悔しました、破戒の程度によっては謹慎もありました。これらも律により定められています(戒本といいます)

当然ですがミミズを踏んだだけでは僧団追放罪にはなりません。中絶を含む殺人が追放罪の対象でした
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この回答へのお礼

何度もありがとうございます。
最初の質問でうまくたずねられなかったんですが、仏教で殺生はいけないということについて、「なんで戒と律を分けて考えなきゃいけないんだろう」というのが最初の自分の疑問だったんです。結局、殺生はどちらにしてもよくないことだったんですよね。ミミズと殺生戒の例でとてもよくわかりました。

お礼日時:2006/04/11 15:29

戒律とは、すでに覚りの境地に至った人ならば、そのように自らを戒め、そのように自らを律するであろうという行動の自律規範を広く世間に明らかにしたものです。



『戒』は、覚りの境地に至った人が、覚りの境地に至ったその瞬間から皆そのようにしか行動しなくなるということを列挙したものであり、世俗の行動様式、あるいは個人的な好悪、善悪、および世間的な道徳にもとづく行動規範とは一切無関係に、覚者としての根元的な自律規範に照らして自ら世に現前せしめるところの戒めのことです。 これを<具足戒>とも名づけ、覚りの境地に至った人は皆、それを等しく具有し、そのようにしか行動できなくなるそれを指していうのです。

一方、『律』は、覚りの境地に至った人が、修行集団生活(サンガ)および一般社会生活に関わるときに敢えて自ら律すべき行動規範を列挙したものを言います。

すなわち、戒律とは、仏弟子がとるべき行動の原理・原則にあたるものです。


〔行動原理〕 
「いつ」 「どこで」 「誰が」 行っても所定の効果,現象,結果を現出するもので、現象世界の本質的働きから来るもの。 好む好まざるにかかわらず、誰でも従わざるを得ないもの。 また、自分自身が後悔しないためにもそれに従って行動すべきそれ。

〔行動原則〕
人が世界においてよりよく行動するために必要な準原理であって、現象世界の本質として本来的・根元的に定まっているものではないが、皆がこれに等しく従うことによって、互いに安全に、安心して、都合良く行動できる便宜上の規範となるもの。 あくまでも、人間の公的な都合で決めた便宜上の約束事。 なお、これは閉じられた社会集団のなかにおいてどのようにでも決められる性質のものであるため、国や文化の違いによって具体的な内容に異なる点を生じる場合があります。

ところで、原理・原則の大事なところは、それらに反した行為はその時点で既にダメであるという点です。 なぜならば、原理に反すれば命を失うかあるいは命を縮めることが必定であり、また原則に反すれば罪に問われるからです。 いずれにせよ、行き着く先は破滅しかありません。 すなわち、原理・原則とは人が後悔しないためにとるべき行動のバロメータであると言ってよいでしょう。 なお、ここで言うバロメータとは、行動の善し悪しを前もって分別するための基準ではなく、行動の妥当性を事後において本人が納得するために役立つ尺度を予め与えるものであるという意味です。 例えば、世間的にも、「お酒がいつでも美味しく飲めることは心身の健康を確認するバロメータだ」などと言われます。 その意味するところは、もしあるときにお酒を飲んでそれが美味しくないと感じることがあったとするならば、そのときはすでに健康を大きく害しているのであると考えられ、それは健康な生活を営む上で本来あってはならないことだと言えるのです。 つまり、お酒が好きな人にとって、お酒はいつでも美味しく飲めなくてはいけないことなのであり、そうであることがその人が健康であることを裏付けています。

すなわち、いつ何どきにふと思いついてそれを調べても、常に「良」と判定されるべきものがバロメータに他なりません。 したがって、もし現在、そのような何かのバロメータにおいて「否」と判定されるような事態に陥っているのであるならば、もう既に回復が困難な状態までおかしくなっていると考えなければならないのです。 仏弟子がたもつべき戒律もそれと同様に考えるべきものであり、戒律を犯すということは、そのような意味で絶対にあってはならないことなのです。 すなわち、覚りの境地に至ることを目指す人が、仏弟子としてたもつべき戒律を図らずも破ってしまうというときには、すでにその人は仏弟子としての資格・資質を疑われるくらい異常な状態に陥っていると考えなければなりません。

よって、戒律とともに仏道修行に勤しむとは、

 「いつ何どきに戒律に照らしても、自ら恥じるべき行為が無いことを常に確信できる状態で修行すること」

を指しています。 そのような戒律をたもつ究極の状態こそが覚りの境地であり、その境地においては、

 「何についても、最初も良く、中程も良く、終わりも良い」

行為を為すに至ります。 それは、

 「自らの行為をいつ何どきに振り返っても、常にそれが後悔の無い、善き行為であったことを、こころに嘘いつわり無く楽しむ境地」

に他なりません。

自ら仏道を歩んで、不滅の安穏を目指す仏弟子は、戒律についてはこのように理解すべきであり、このように理解しなければなりません。

***
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この回答へのお礼

どうもありがとうございます。おかげで自分の疑問は解けました。

お礼日時:2006/04/12 09:05

#2です。

御礼有り難うございました。

 コメント拝見いたしました。
 うまく説明できたのかどうかは、本当に自信ないです。(たぶんできてないと思いますが・・・)

 「戒」を破ったら「律」の規定に沿って罰則が科せられる、という点では、戒と律は密接にリンクしています。教団運営上の実際問題としては、確かに戒と律は一体として運用されていると言っても良いといえば良いと思いますが・・・

 それでも、戒律という言葉が合成語であって、インドでは分けて考えられていたように、そして出家者が修すべき事柄として挙げられる項目「三学」が「戒・定・慧」(戒を保つよう努めること・瞑想して心を静めること・智慧を求め学ぶこと)であって、集団運営の規則である律は入らないように、やっぱり別物と言えば別物なんですね・・・(なんかこう、うまく言えなくてすみませんが。)
 仏教の戒には、禁止事項という意味合いよりも、悟りを得るために為すべき指針という傾向が強いように思います。

 その他は他の方のご回答に譲ります。(自分よりもずっとお詳しい方なので)では。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。お礼にお礼を書いてもらってすいません。不殺生を考えるのになんで戒と律を分ける必要があるのだろうという疑問から、その違いをたずねさせてもらいましたが、おかげでよくわかりました。

お礼日時:2006/04/12 09:08

不殺生戒…生き物を殺してはいけない。


不偸盗戒…他人のものを盗んではいけない。
不邪淫戒…配偶者以外と交わってはいけない。
不妄語戒…嘘をついてはいけない。
不飲酒戒…酒を飲んではいけない。

 この五戒のうち、前の4つの行為(殺・盗・淫・妄)は、それ自身が罪であるのに対し、飲酒は酔うことで罪を犯しやすくなるので、予防として戒められます。いずれも、仏教云々というよりも世界に広くみられる道徳的な意味合いも強いものです。

 さて、例えば「不偸盗戒」、盗まないといっても金品・物品に限らず、他者からの恩恵・自然の恵み・歳月時間などを無為にすることも「盗み」です。
 また「不妄語戒」も、ついつい「これは相手を喜ばせるために言うことだから、”ついても良い嘘”」などと、自分を納得させますが嘘であることには変わりありません。

 であれば、戒は人間存在の事実を気付かせるものであり、ただ単に機械的に「守りさえすればよい」という次元を超えたものであると思います。まただれかに罰を受けるから守るというものでも無いと思います(悪事によって後に不利益を受けたとしても、あくまでも自らの行為の結果、つまり、一種の法則であって、超越者による罰ではありません。もちろん、反対に善事でも同様です)。

 律は集団生活を送る上での決まりです。ですから破戒を禁じる決まり。それ意外にも袈裟の種類・作成方法、頭髪や食事の作法。また身体的障害や気候・風土の違いなどからくる特例など、出家集団が修行しやすい環境を築く上での決まりであって、だれかを罰するためのものではありません。

 それと「モーゼの十戒」などのようにユダヤ教、その系譜であるキリスト教・イスラームにおいての戒は「創造主との契約」、つまり善悪の判断基準はあくまでも創造主によるものですから、仏教的な戒の考えとは異なると思います。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございます。以前、不殺生の教えについての質問に「戒と律を混同するな」という回答を書かれてましたね。あれを読んで、「なんで戒と律を分けて考えるのがこの質問の答えになるのだろう」と疑問だったので質問させてもらいました。結局、一般人も罰則はないだけで不殺生を心がける生活はしてたんですよね。別に戒と律を分けて考える必要も特になかったことがわかりました。

お礼日時:2006/04/12 09:04

私の回答ですね^^;)


 さてNo.1の方が分かりやすく説明されていますから、さらにいうと、
 戒は仏教徒全般が保つべき戒め。つまり在家・出家は問はずに、修行を推進しようという・修行規則を守ろうという自発的な働きです。
 戒定慧(かいじょうえ)という言葉があるのですが、定とは禅定、いわゆる瞑想で、慧とは智慧、瞑想によって得られる根源的な力。これらは戒の実行によって得られるので、そのような自発的な決心が修行の根本にあるのです。

 ちなみに「戒名」とは、戒を授けられた、正式な仏教徒となったその証としての名前です。ただし民間信仰では戒を受けることは滅罪の力があるとして、死者の葬送・鎮魂儀礼の一つとして受け入れられました。

 律は出家集団が守る規則・決まりです。出家集団をサンスクリット語では「samgha」といいます。このサンがを漢字に音写して「僧伽(そうぎゃ)」。その略称が「僧」です。通常は僧というと出家者を指していますが、本来は出家集団・和合衆という意味です。
 男性の出家者を比丘(びく)、女性を比丘尼(びくに)といい、これら僧伽は集団生活です。そこで規則としての律が定められますが、基本には自発的な戒の精神があります(ちなみに古代インドでは部族社会ですので、集団を離れて生活をするというのは、ほぼ不可能に近いものでした。ですのでNo.1さんの回答にもある、集団からの追放は大変に厳しいものです)。

 律は個人の修行規則と集団の統制規則の2種類があり、違反すると罪になります。もちろんあくまでも集団内の和合が基本であるため、戒と律は結合します。
 ですので、在家には律はありません。

それと戒というと禁止規定ばかりのように誤解されがちですが、他者に利益をもたらすことを誓う、仏法を守ることを誓うなどもあります。

この回答への補足

どうもありがとうございます。
もう少し教えてほしいんですが、そうすると「殺生してはいけない」という決まりは「戒」なんでしょうか? これは個人のことなので「戒」だけど破っても罰則はないということになるんでしょうか?

補足日時:2006/04/10 23:25
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こんにちは。



 たぶん自分も投稿した問答の中のご回答の一つだったと思います。

 確かに、「戒律」は「戒」と「律」の合成語で、別物ではあります。(自分もそうですがたいてい「戒律」と一まとめにして言ってしまうのですが・・・)

 すでにわかりやすいご回答も上がっておりますし、もともとの問答の中でも触れられていたと思うのでので、戒と律の違いについては、そちらに譲ります。

 一点、補足的に記しますと、別物といっても完全に分けて考えられていたかというと、教団内ではそうでもなくて(ややこしい・・・)やはり、「戒」を犯した僧の罰則は「律」で規定されています。
 人を殺したら教団追放(教団追放が一番重い)といった感じで、各戒に対する罰則が設定されています。

 戒の精神は自発的なもので、仏教は多分に個的な傾向の強い宗教(と自分は思っているの)ですが、教団内は、やはり集団生活なので、明らかに戒を破った者を、個人の問題で片付けてしまうわけにいかないので、「戒」も含めて「律」で規定されているかなと思いましたが・・・(←あまり自信ないです。)

 一般在家の仏教信者は「戒」を守ることを求められても、教団の内部規定である「律」を守る必要はありません。

 律の内容については、とても数が多いらしいのですが、具体的なものはあまり知らないです。すみません。では。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございます。別にわざわざ戒と律を分けて考える必要なかったってことですね。結局、一般人も僧侶もどちらも不殺生が目標だったんだから。僧侶はプロだから厳しく守ったということですね。よけいな知識でかえって混乱してました。

お礼日時:2006/04/11 15:35

戒とは修行完成のために守る目標です


野放図に生きずに自らに課題を課してやりきる、そこに精神の向上が顕れます。簡単な例をいえば、健康のために毎日一万歩歩く、とか、メールは一日30分以上しないようにしよう、とか自分に課すわけです。すると一万歩ならそれを続けると健康になることはもちろん、「面倒だな」と思ってもやり抜いた意志の力・精神力が養えるわけです。自分で決めて自分でするから向上するので人にいわれてするのでは悟り(=智慧、=喜び)にはなりません、それは営業のノルマの強制と同じになってしまいます。悟りの喜びを味わってほしいというのが仏陀の願いですから罰則を与えて強制するようなことはしませんでした

律とは出家者の集団生活のルールです
当時は出家者がその名の通り家を出て集団で生活していました。集団で生活するとそこに何らかの規則、つまり他人の修行の邪魔をしないというルールが必要になってきます。現代でいえば学生の独身寮を考えれば分かりやすいでしょう、勉学を修め世に有為な人物となることが全員の目標とすれば、寮では、夜騒いではいけない、とか、アルコール類禁止とかの規則ができてくるわけです

具体例としては、教団のものを勝手に自分のものにして持っていってはならない、とか、「制服」の所有は何枚までOK、とか、一人だけふかふか布団をお布施してもらってはいけない、とか、山林修行の際、女性は男性の目の届くところにいること、とかいろいろあります

要は自分を律し他人の修行の邪魔をしないというのが戒律の精神です
悟りを求める人々が集い、理想郷をつくり、その光で世を照らして行くことが仏陀の願いだったのです

この回答への補足

どうもありがとうございます。
もう少し教えてほしいんですが、そうすると「殺生してはいけない」という決まりは「戒」なんでしょうか? これは個人のことなので「戒」だけど破っても罰則はないということになるんでしょうか?

補足日時:2006/04/10 23:21
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